七、暗闇を宿す胎動
手に入れたばかりの新しい銀色のシートを、統はジャケットのポケットの中で強く握りしめていた。まだ口に含んでもいないというのに、指先から伝わるアルミの冷徹な感触だけで、脳の芯がじわりと痺れていくような感覚がある。
新宿のネオンの届かない裏路地を抜けて大通りへと出た統は、行き交う雑踏のノイズに揉まれながらおぼつかない足取りでふらふらと歩いていた。頭の中はすでに、次に滑り込むネカフェの暗闇とそこで得るであろう濁った平穏のことで満たされている。その時、すれ違う人波の向こうからかすれた女性の声が統の鼓膜を叩いた。
「おさむ⋯⋯?」
自分の名前を呼ぶ、ひどく頼りない響き。統は立ち止まり、重い首をゆっくりと振り返った。そこには数箱の段ボールを載せた金属製のカゴ台車を押した、配送会社の制服を着た女が立っていた。キャップの奥からのぞく顔は都会の乾いた埃に晒されてひどくやつれ、実年齢よりもずっと老け込んで見える。生気のない肌と、労働の垢に汚れた指先。
それは、あの子供の頃の春、自分の弟だけを連れて家を出ていった、実の母親の由乃だった。けれど、今の統の濁った網膜は、その目の前の女を母親だとは認識しなかった。統の記憶の中にある母は、田舎町の湿った空気の中で、もっと優しく、もっと自分に地続きの匂いをさせていたはずだった。目の前にいるのは、東京の底辺の濁流に押し流され、すっかり見違えるほど摩耗してしまった、ただの行きずりの配達員に過ぎない。
統は虚ろな暗い目でその女をただ一瞥し、ポケットの中のアルミシートをもう一度指先で確かめ、そのまま、押し寄せる新宿の雑踏へと、吸い込まれるように消えていった。
「おさむ、待って⋯⋯」
由乃の唇から、小さな掠れた声が零れ落ちる。けれど、彼女はその場から一歩も動くことができなかった。手放してはならないカゴ台車の重みと、日々の労働で疲れ果てた両足が、彼女をアスファルトの上に縫い付けていた。何より、今の一瞥で見せつけられた実の息子の、あまりにも冷酷で、底の知れない暗い眼差しが、彼女の追う勇気を完全に削ぎ落としていた。
統の背中が灰色の人波に完全に没していく。実の母親であることすら忘れ去られた新宿の往来の真ん中で、由乃はただ一人、自らの過去の過ちの重さを噛み締めるようにいつまでも呆然と立ち尽くしていた。
──大手総合商社の広大な一階ロビー。
その片隅にある社員専用のシアトル系カフェは、ガラスとコンクリートで構成されたスタイリッシュな空間だった。
二十二歳の由乃はここでアルバイトを始めて、ちょうど三ヶ月が経とうとしていた。最近、シフトに入るたびどうしても目で追ってしまう人がいた。葛近澄。エネルギー部門の課長を務める彼は、いかにも仕事ができそうな、洗練された大人の色気を纏まとった商社マンだった。
澄は毎日十六時になると、ノートパソコンを片手に決まって同じ窓際の席に座る。キーボードを叩きながら、何やら難しい海外の書類に目を通していた。由乃が彼を強烈に意識し始めたのは、ある激しい雨の日のことだった。レジに並んだ澄は、連日の激務のせいか、あからさまに疲れ切っているように見えた。それでも、注文を受ける際に由乃が掛けた「お疲れ様です」という何気ない挨拶に対して、彼はふっと表情を緩め、優しく微笑んで「ありがとう」と言ってくれたのだ。その一瞬の包容力のある笑顔に、由乃の心は一瞬で奪われてしまった。
(学歴も、大した職歴もない私だけど⋯⋯あの人の癒やしになりたい)
そう心に決めた由乃は、ささやかな作戦を開始した。彼がレジの列に並んだ瞬間、彼の胸元で揺れる社員証に目を走らせ、「葛近」という苗字を網膜に焼き付けた。
(あ、ソイラテの葛近さんだ)
心の中でそう呟きながら、澄が口を開く前に満面の笑顔で先回りした。
「いつもありがとうございます。今日もソイラテでよろしいですか?」
澄は虚を突かれたように少し驚いた顔をした後、嬉しそうに目を細めた。
「覚えてくれたんだ。嬉しいな。じゃあ、それでお願い」
それが、二人の距離が初めて急接近した瞬間だった。都会の冷たい硝子張りのカフェの中で、その日を境に、澄がレジに足を運ぶたび、二人の間でささやかで、けれど特別な短い会話が交わされるようになっていく。
──澄のマンションで同棲を始めてから数年が経つ。
大きな不満はなかった。澄は相変わらず誠実で、由乃を深く愛してくれていた。二人の間に子供ができる気配はなかったが、「二人の時間を大切にしよう」と澄は優しく笑っていた。由乃も、自分には縁がないのかもしれないと、どこかで受け入れていた。
そんなある日、由乃のスマートフォンに、学校時代の後輩から久しぶりのメッセージが届いた。
「由乃さんに、どうしても会いたがってる人がいるんです」
それが柚登だと知ったとき、胸の奥で眠っていた記憶が微かに疼いた。かつて別の道を歩みながらも、その危うい奔放さに惹かれたことのある男だった。
週末の夜、由乃は自ら車を運転して約束の店へと向かった。数年ぶりに再会した柚登は、かつての雰囲気を残したまま懐かしそうに目を細めた。
定職に就かず自由奔放に生きる彼の話は、規則正しい世界に生きる澄とは対極に位置していた。食事の後、酔った彼を駅まで送り届ける車内、由乃の心はかつての不安定な熱情に揺り動かされていた。
二度目に会うときは、電車で彼の街へと向かった。言葉を交わすほどに、二人の境界線は曖昧になっていった。気づけば終電の時刻を過ぎており、由乃は澄へ「親友の家に泊まることになった」と、メッセージを送信した。その場限りの感傷にするはずだった。
しかし、交流が続き一ヶ月が過ぎた頃。由乃の身体に異変が起きた。検査の結果、そこには予想だにしなかった新しい命の予兆があった。
(私、子供を授かることができたんだ⋯⋯)
呆然とした頭のなかで、由乃は激しく混乱した。時期を考えれば、その命の繋がりは柚登にある可能性が極めて高かった。しかし、責任ある生活を築けない柚登の現実を直視したとき、彼女のなかで一つの決断が、生存本能のようにはっきりと形を成していった。生活の基盤を持たない彼と共に、不安定な未来へ踏み出すことはできない。今ある澄との穏やかで満たされた生活を守らなければならない。由乃は、この真実を心の奥底に封印することに決めた。
この命は、今日この瞬間から、最愛のパートナーである澄との間に授かった奇跡の子供になるのだ。澄の子として育てる。その強固な決意を胸に、由乃は喜びを分かち合うための表情を鏡の前で作るのだった。後にその子供が、あの「統」という不可解な眼差しを持った少年に育っていくとも知らずに。




