21. いろはの話(5)
(※)本作品には、児童虐待・養育放棄の描写が含まれます。
幼少期の不遇な描写が苦手な方はご注意ください。
お昼ご飯の後、自分の部屋で遊んでいると窓ガラスがコンコンコンと鳴った。
「セヴァ、あそびにきたよ!」
笑顔で手を振るいろはが庭に立っている。
「いろは!どうしたの!」
急いで窓を開け、いろはの後ろを見渡すが誰も居ない。
「ママは?玄関のほうにいる?」
「あいつはいないよ。一人で来た。」
いろはは、母親のことをいつも『あいつ』と言う。
「ひとりで!危ないよ!ママ呼んでくるね!」
「待って、まだ呼ばないで!」
「でも……」
「セヴァに聞いてほしい事があって。ママを呼ぶのはその後にして!」
「……うん、わかった。」
ベッドの影に隠れるように、2人でくっついて座る。
「……僕、ママにいじめられてるんだ。」
いろはの言葉の意味が分からず、セヴァは言葉が出ない。
「ほら、僕いつも汚れてるでしょ?お風呂にも入れないし、ご飯ももらえないから、セヴァよりずっと小さい。」
母親から愛されたことしかなかったセヴァは、いろはの言っている事がすぐには理解できなかった。
「いろはのママは、いろはのこと綺麗にしてくれないの?ご飯もくれない?」
「そう。セヴァのママとは全然違う生き物ってこと。
僕が勝手に外に出ても気づかないし、心配もしない。
準備ができたから、そろそろかなぁと思って、セヴァの家に来た。」
「……一人でここに来て、いろはのママは怒らないの?」
「バレたら怒られるかも。でも絶対大丈夫。
あいつ、怒っても叩いたりはしないんだよ。
僕にすっごく沢山、家の仕事をさせて、ご飯をくれないだけ。」
セヴァはどうしようもなく悲しくなり、涙が溢れてきた。
「ママなのに、ママはいろはのこと大事にしないの?
いろははこんなに優しくて、僕よりもずっと沢山いろんな事を知ってるのに!」
しばらく泣き止めないセヴァの背中をいろはは優しく撫で続ける。
「それでね、お願いがあるんだけど。
保育園がお休みの日はセヴァのうちに遊びに来たいんだ。」
「いいよ!毎日来てよ!」
「保育園の日は来られないよ。お休みの日だけ。
あとひとつ、僕と3日会えなかったら、セヴァのパパとママに相談してほしい。」
「3にち?」
「そう、3回寝る間に僕と会えなかったらパパかママに言うんだよ。」
「分かった、約束する。」
「任せたよ!」
こっそりと約束を交わした。
そして約束通り、休みの日はいろはが家に来るようになり、2人は仲の良い兄弟のようにずっと一緒に過ごした。
セヴァの両親も自分の子どもと同じようにいろはと接する。
段々といろはは元気になってきて、もうこのままずっとうちに住めばいいのに、とセヴァは思うようになっていた。
いろはの父が退院し家にいる時は来られないが、再度入院すると週末はセヴァの家で過ごす。
そういうサイクルを何度か過ごすうち、その日は突然やってきた。
ーーーーー
8月、セヴァの妹が生まれて2日目。
パールの産後入院中、父と2人きりで家で過ごしていた日のこと。
電話を受けた父が真っ青になりながら話をしている。
相手は研究所の所長のようだ。
「……あぁ……なんてことだ…どうしたらいいんだ……」
見たことのない様子に心配になったセヴァは呆然と立ちすくむ父の手を握った。
「セヴァ、どうしようね。
ママは赤ちゃんと産院に居るから心配はかけられない。
今僕にできることは何もないんだけど、居ても立ってもいられないんだ。」
「なにかあったの?」
「入園式の時に会ったパパのお友達は覚えてるかい?
いろはくんのパパ。」
「うん。いろはのパパ分かるよ。」
「……彼が、海に落ちた。」
落水事故のニュースはTVで何度も見ているし、祖父母を海の事故で亡くしているセヴァは、人が海へ入るとどうなるかよく知っているが、聞かずには居られなかった。
「いろはのパパ、大丈夫なの?」
「意識不明の状態で、病院で検査中らしい。」
「元気になる?」
「分からない。けど、ならなきゃいけない。じゃないと僕は……」
いつもすぐに泣いてしまう父だったが、今は必死に我慢しているようだった。
しばらく父と一緒に立っていると、ぎゅっと抱きしめられた。
セヴァの何倍も大きな父が震えている。
いつも両親に自分がしてもらうように、ポンポン、ポンと優しく撫でる。
今日はおかえしに、ありったけの優しさを込めて父を抱きしめた。
その日は土曜日で、保育園は休みだ。
落ち着きを取り戻した父と、念のため、といろはの家のすぐ近くまで迎えに行く。
いつもならすぐに合流できるが、今日はまだ来ていない。
しばらく待っていると、いろはの家からシルエが飛び出してきた。
物凄く怖い顔をしている。
「全く…ふざけんじゃないわよ!あーーーーだるい。
なんで私が行かなくちゃいけないのよ!!!」
バン!と車のドアを勢いよく閉め、猛スピードで車庫から飛び出していった。
心臓がドキドキする。
あんなに怒っている大人を初めて見たセヴァは、震えが止まらなくなった。
そんな様子を見て父はセヴァを抱き上げる。
「大丈夫、大丈夫だよ。
今のうちに、おうちの様子を見に行こうか。」
だっこされたまま、いろはの家の前まで来た。
インターホンを何度か鳴らすが、誰も出ない。
「こんな状況だし、いろは君も家には居ないみたいだね。
所長のところに居るのかもしれない。帰ろう。」
サムは仕方ない、といった様子で家に戻ろうとする。
セヴァは、かつてのいろはとの約束を思い出していた。
……3日会えなかったら。
今日で1回目。
あの約束をしてから、いろはと会えない日が来たのは初めてだった。
明日には会えますようにと、心のなかで祈る。
次の日、いつもと同じ時間帯にいろはとの待ち合わせ場所へ向かう。
しばらく待ったが合流できず、家へ向かうが車庫内に車があるのを確認する。
「今日はいろはくんのお母さんが在宅しているようだね。
インターホンを押すのはやめておこう。」
帰り道、セヴァの小さな心臓はドキドキしていた。
入院中の母と赤ちゃんに会いに行こうと父が用意を始める。
「まだ朝だし……僕が居ない間にいろはがうちに来たらどうしよう……」
一生懸命考え、置き手紙を残すことにした。
母の元へ出かけること、来たら返事を残してね、と封筒に小さな鉛筆を入れて、玄関の外にテープで貼っておいた。
「できた。いろはが来たら気づくはず。」
「そうだね、これで行き違いになっても大丈夫だね。
……そうだ、スマラグの事だけど、ママには内緒にしておこう。
赤ちゃんを産んで、ママはとっても疲れてるからお休みしないといけないんだ。
きっとママは、心配しすぎて大変なことになってしまうからね。」
「うん、わかった。内緒にする。」
「いい子だね。」
父が穏やかに笑う。
産院へ着くと、母にぎっちりと抱きしめられた。
「セヴァ、会いたかった〜!パパとしっかりお留守番できてる?」
一気に寂しさがこみ上げて来たが、ぐっと我慢する。
母に抱きしめられると気持ちが良くなって、眠くなってくる。
このまま眠ってしまいたいという気持ちを抑え立ち上がった。
「できてるよ!僕もう年中さんだもん!
お兄ちゃんだし!」
「えらいね、えらいね!」
母は優しく僕の頭を撫でる。
「はぁ……可愛い……。このまますぐにでも連れて帰りたいよ〜スーカちゃん。」
父が生まれたばかりの妹を抱っこしながら破顔している。
見えてないのでは?と思うほど目が細くなり、ずっとニコニコしている。
「ママ、あと何回寝たら帰ってくる?」
「あと3回寝たら、帰るよ!」
ーーー3回寝て、僕と会えなかったら、パパとママに話して
いろはとの約束が頭をよぎる。
無言で母の胸に飛び込み、我慢していたのに泣いてしまった。
母は何も言わずに抱きしめ包みこんでくれた。
今日いろはに会えなかったら、2回目だ。
母が家に居ないさみしさと、いろはと会えない不安で頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「あと3回寝たら帰るからね。パパと仲良く待っててね。
夏期が終わったら海へ連れて行ってあげる。」
顔を上げると母も泣いていた。
今まで1日たりとも母と離れたことがなかったセヴァは、さみしくて仕方がなかったが、母もそれは同じなのかもしれない。
なかなか帰りたがらない父は助産師に叱られる。
「あなたがいつまでも居たら、奥さん休めないでしょ!」
と追い出されてしまい、渋々ながらに帰宅する。
セヴァはいろはからの返信があることを祈りながら玄関を確認した。
家を出る前と何も変わらない置き手紙。
中を確認しても返信はなかった。
今日寝たら、2回目。
自分の部屋へ走り、カレンダーにチェックを入れる。
震える手で母の退院日も一緒に書き足す。
明日、保育園でいろはと会えますように。




