20.いろはの話(4)‐スマラグ視点‐
(※)本作品には、暴力的表現、児童虐待・養育放棄の描写が含まれます。
幼少期の不遇な描写が苦手な方はご注意ください。
僕はいつから間違えたのだろうか。
気付いた時には全てが遅すぎた。
いや、まだ、いろはだけは。
いろはだけは助けなければ。
僕が正気に戻ったのは入院中、一時外出が認められた日のことだった。
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ここ数年、原因不明の体調不良に悩まされていた僕は、とうとう入院を繰り返すようになってしまっていた。
病院へ行く時はサムが送迎をしてくれている。
しばらく距離を置いていた親友に頼むのは気が引けたが、頼れそうな人は彼しか思い浮かばなかった。
思い切って頼みこむと、嫌な顔一つせず引受けてくれた。
むしろ、なぜもっと早く言わないと怒られた。
しかし、パールの出産の時期が近づいている。
送迎してもらうのは今回を最後にして、次からは自分で何とかしなければ。
などと考えていると、自宅に到着した。
愛しのシルエは僕といろは以外の人が家に入ることを酷く嫌がる。
今回は着替えを取りに帰っただけなので一人ですぐに済むはずだ。
手伝おうとしてくれたサムの申し出を断り、車で待っていてもらうことにした。
中へ入ると、玄関から続く廊下は足の踏み場がなくなっていた。
家中に物が散乱している。
でも、仕方ない。僕の奥さんは、少しだけ片付けが苦手だ。
そして、いろはを命がけで産んでくれた。
生死を彷徨う程の大変なお産を乗り越え、人生で一番の大仕事をしてくれたのだ。
生きていてくれるだけで十分。
僕が入院してしまうせいで、彼女に不便な生活をさせてしまっていることを申し訳なく思う。
退院したら、すぐに僕が部屋を片付けよう。
家の奥から、シルエの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
今日は出かけると聞いていたが、早めに用事が終わったのだろうか。
誰かと電話しているような声だ。
会話の邪魔をしないように、静かに階段を上がる。
彼女の部屋の前まで来て、大好きな彼女の姿を一目だけ見ようと立ち止まる。
そして、会話の内容に体が動かなくなった。
「はぁ、やぁーっと死ぬわ!
やっと居なくなってくれる!長い間ちまちま食事に毒を盛ってきた甲斐があったわ。
え?……うん、うん。そう。
もちろん!何にも疑わないのよ。私に夢中だもの。
今も入院中なんだけど、いくら検査したところで何にも出やしないわよ。病死扱いよ。」
……人の死を、喜んでいる?
今まで聞いたことがない喋り方に一瞬別人かと思ったが、間違いなく彼女の声だ。
手が震える。
あまりのショックに体が動かない。
信じられないと頭では抵抗するが、どう考えても僕の話をしている。
彼女はずっと楽しそうに、僕が居なくなった後の事を語っている。
自分の心臓の音しか聞こえなくなり、よろめきながら何とか家を飛び出した。
サムが車の中から慌てて出てきて体を支える。
「おい!大丈夫か!救急車!」
「はぁ……はぁっ……大丈夫。……大丈夫。
……ひとまず、今すぐに家から離れたい。」
開け放たれた扉の中を見て、サムの顔色がさっと青くなる。
「強盗か!?いや、まずは……病院に戻ろう!」
「強盗じゃない。少し休めば治ると思う。
ごめん。サムの家に連れて行って……パールが……嫌がらなければ……」
「何言ってんだ!ほら、乗って!」
体の大きな彼がしっかりと僕を支え、優しく後部座席に寝かせてくれた。
家に着くと、お腹が大きくなったパールがすぐに出てきた。
汗だくのサムと、今にも気を失いそうになっているスマラグを見て声を荒げる。
「あなた!なんでうちに来たの!?病院へ連れて行くべきでしょう!!!」
「え……だってスマラグがうちに来たいって言うから……」
「パール、ごめん、少し休んだら落ち着くと思う。お邪魔していい?」
「本当に、大丈夫なの!?悪化するようならすぐに救急車を呼びますよ!!」
パールも僕を支えようと手を差し伸べてくれたが、妊婦さんにもたれかかるわけにはいかない。
サムの手を借りつつリビングまで歩く。
ソファに横になり、ドタバタと慌てる2人を見ていたら段々と落ち着いてきた。
出産間近で大変な時期に、心配を掛けて本当に申し訳ないと思いながら2人を眺める。
沢山のタオルや水を持ち行ったり来たりする姿は、昔とちっとも変わっていなかった。
さっきまではショックで息をするのもやっとだったが、じわじわと安心感とともに涙が溢れてくる。
「あぁ……泣いてる!やっぱり救急車を呼ばなきゃ!」
パールが電話を手に取りアワアワし始めた。
バスタオルを大量に持ったサムが駆けつける。
「タオル使う?拭いて!あ、僕が拭こうか?」
「ありがとう。もう大丈夫だから、救急車も呼ばなくていいよ。
パール、そのお水、もらっていい?」
「本当に大丈夫!?自分で飲める?」
同い年なのに、昔から僕のことを弟だか、子供扱いする。
そういった事も懐かしく、久しぶりに2人の顔をしっかり見た気がした。
数回深呼吸をし、心と身体を落ち着ける。
「心配と、ご迷惑をおかけしました。
ありがとう、僕はもう大丈夫。
今まで……本当にごめんなさい。」
「スマラグ、気にしなくて……」
「本当よ!今までどれだけ心配したことか!
一体あなたの奥さんはどうなっているの!?
あなただけじゃない、いろは君だって大変なことになっているっていうのに!」
「そのことなんだけど、僕は今まで本当にどうかしてた。
今、目が覚めたような気分なんだ。
自分が死ぬって時になってようやく気がつくなんて、本当に自分が恥ずかしい。」
「え?死ぬってどういう事?
いつも通り、体調が回復したら退院できるんだろう?」
サムが問う。
僕は家で聞いたシルエの会話の内容を2人に話した。
「通報しよう。」
「僕もさっき聞いたばかりで、何も証拠がないんだ。
僕はもう彼女が出した食べ物は口にしないようにする。
入院して体調が良くなるのも、食事を一定期間取らないようにしたからだと思う。
それに、病死に見せかけるつもりみたいだし。
慎重に動きたい。そして何より、いろはを彼女から引き離さないと。
もう、シルエの事は信じられない。」
「私、あなたのこともまだ信じてないわよ。」
「パール……そういう言い方は……」
「いや、パールの言うとおりだよ。僕は信用を失ってしまった。
シルエを盲信し、沢山の人に迷惑を掛けてきた。
自分の息子にすら、まともに向き合ってこなかった。」
「……あなたがいろは君を大切にしているのは知ってるわ。
あなたが退院した後の、いろは君の様子を見たら明らかだもの。」
「僕が入院中は普段と違うの…?」
パールは今まで見てきたこと全てを話してくれた。
僕が入院している間は、シルエが当たり前にいろはのお世話をしていると思っていた。
僕が家に帰った時は、いろはは身ぎれいにしているし、何も言わない。
うちの子は周りより少しだけ成長がゆっくりで体が弱いだけだと思っていた、自分が情けなく、恥ずかしかった。
まさか、僕が居ない間、育児放棄されていたとは。
よくよく考えてみると、いろはの身支度や食事は全部僕がしている。
普段シルエに任せっきりだから、家にいる間は僕がやって当たり前だと思っていた。
入院中のいろはの状況を思うとぞっとしてたまらない。
少し前に、見るに見兼ねると、いろはをしばらく預かりたいと両親から言われた事があったが、ろくに話も聞かずに断ったのだ。
シルエの『私がしっかり見てるから大丈夫』という言葉だけをを信じ、いろはを危険に晒していたということに今更気づく。
僕は今まで何を見てきたのか。
いや、何も見ていなかったのか。
シルエの言いなりのままに親友や両親と距離を置き、自分の息子の事すらまともにできていない。
思っていた、聞いていたというだけで、きちんと彼の状況を理解していなかった。
息子はもう4歳だ。
生まれてからずっと、今も、彼はひとりぼっちか。
……いろはは今どこにいる?
今日は土曜日で保育園も休みのはず。
あの家にいるのか?
あのおぞましい話をしていたシルエの側に??
「いろはを、いろはを家に置いてきてしまった。戻らないと。」
先ほどとは比にならない程体が冷め切っていた。
自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。
立ち上がろうとするとパールが言う。
「今、いろは君はうちにいるわ。」
「……え?」
「セヴァとお昼寝中よ。
実は、あなたが入院を繰り返すようになって少ししてから、週末はうちに遊びに来てくれるようになったのよ。
あなたの奥さん、いろは君がうちに居るのを知らないと思うわよ。
何度連絡しても繋がらないの。」
「ああ……パール、本当にありがとう。
僕は本当に……父親失格だよ……」
「辛いのはわかるけど、泣き過ぎよ。様子を見に行く?」
「いいの?僕が行っても。」
「当たり前じゃない。パパでしょ、あなた。
それに、あの女からいろは君を守るって決意したばかりじゃないの。」
サムを見ると、僕以上に大泣きしていた。
タオルに顔を埋める彼をそっとしておき、部屋へ案内される。そこは水族館のようなインテリアの、可愛い男の子の部屋だった。
ベッドへそっと近づくと、小さな男の子2人がくっついて眠っていた。
セヴァ君は、少し見ない間に随分と大きくなっている。
隣で眠るいろはを見て、また涙が溢れてくる。
いつも見ていると思っていた息子の姿を、今この瞬間、初めて真っ直ぐに「見た」気がした。
セヴァ君と比べると、ずいぶんと小さく、細い。
ピンク色で、ふわっとツヤのあるセヴァ君の頬とちがい、いろはの頬は血色がなく骨ばっており、痩せている。
思わず声を出して起こしてしまいそうになり、部屋から飛び出した。
泣き叫びたい気持ちをぐっと堪える。
しっかりしろ、しっかりしろ。と心のなかで自分に言い聞かせていた。
スマラグ、やっと目を覚ましました。




