怒れるヴァレリー
ルティナの体を支配していた脱力感や吐き気が、そして、じりじりと臓腑を焼かれるような激痛が消えていく。
喉を押さえてけほけほと咳き込みながら、ルティナは上体を起こした。
いつの間にか、ルティナの前にはウリちゃんがちょこんと座っていた。
ウリちゃんが黒マメシバの姿からするすると、夜空に星をちりばめたような美しいドレスを着た女性の姿へと変わっていく。
黒髪は地面につきそうなぐらいに長く、ドレスの裾もまた魚の尾ひれのように長い。
両足を胸に引き寄せて座った姿勢で空に浮かび上がるその女性は、その手にウリちゃんを抱いていた。
長い爪を持つ嫋やかな指先が、ウリちゃんの黒い背を撫でる。
「あなたは……」
『妾は、ヴァレリー。こうして姿を現すのははじめてじゃな、妾の可愛いルティ』
「ヴァレリー様……!」
大精霊ヴァレリーの姿は、男性像として描かれている場合がほとんどである。
そのため、ルティナは驚いた。
ヴァレリーとは美しい女性の姿をしている。その背中からは、翡翠色をした蝶々の羽がはえている。
『妾はウルリカの目からいつもお前を見ていた、ルティ』
「ウルリカ……ウリちゃんのことですか?」
『そうじゃ。ウリちゃん。ウルリカは妾の作りし聖獣』
ウリちゃんがヴァレリーの手からひらりと降りて、ルティナに駆け寄ってくる。
その腕にすっぽりおさまると、愛おしそうにルティナに小さな顔をすりつけた。
「一体なんだというんだ……! ルティナ、今すぐこいつらを消せ! 君は僕のもの、僕のものになるんだ……っ、僕が、この国の皇帝に……!」
青ざめ震えていたアルヴァイスが、支離滅裂なことを怒鳴る。
目の前の光景が見えていないのか、それとも見えていて、自棄になっているのか。
ルティナの腕を掴んで、その場で押し倒そうとする。
ぎらぎらと輝く瞳は正気を失い、荒い息はまるで獣のようだ。
『諦めの悪い。我が愛し子を傷つけた罪、お主を許すと口にしたルティナに免じて許してやろうと思うたが、やめた』
冷酷な声音でヴァレリーが告げる。
長い指が真っ直ぐに、アルヴァイスを指さした。
『骨を砕き、肉を切り刻んでやろう。人の形が残らないぐらいにぐちゃぐちゃにして、スープにして魔獣の餌にしてやろう』
アルヴァイスの出現させた炎の蛇を、宝石を全身に散りばめた貴婦人の姿をした輝きのアルディージャが軽く摘んでふっと息をふきかけて、その炎を消してしまった。
ただの蛇になった大蛇が、塵のように消えていく。
蛇の炎に盾を焼かれた、豊満な体を銀の鎧に包んだ時守のヒルデガードが、手にしている大剣をアルヴァイスに向ける。
その大剣の先にアルヴァイスの体をひっかけると、空へと掲げた。
まるで、先の尖った大樹の先端に吊るされているように見える。
アルヴァイスは暴れたが、大剣から逃れることができない。
アルヴァイスを、十三の使徒たちが取り囲んでいる。
その姿は、贄にされた無力な子ウサギのようにも見えた。
『できる限り殺さずに、いたぶれ。久しぶりの愉快な催しじゃ。長く味わいたいものよ』
「やめてください、ヴァレリー……!」
ルティナは――アルヴァイスを憎んではいない、怒ってもいない。
けれどたとえ、そこに憎しみや怒りがあったとしても、残酷なことをして痛めつけるというのは間違っていると感じる。
そんな光景は見たくない。アルヴァイスの命を奪って得られるものなどなにもない。
「お願い、やめて!」
『何故じゃ。こやつは、お前を貶めようとしたのじゃぞ、ルティナ』
「分かり合えないことなんて、たくさんあります。私を嫌う人たちも、たくさんいます。けれど、私はだからといって、アルヴァイス様や他の方々を憎もうと思いません。皆、ただ必死に生きているだけなのですから……!」
『甘い子じゃ』
「もちろん、アルヴァイス様のおっしゃるように、力ある者が力をつかわなくてはいけないときは、あるのでしょう、きっと。でも、今はその時ではありません。だから!」
「――ルティナ、やめなさい!」
騒ぎを聞きつけたのだろう、校舎に残っていた生徒たちが、先生たちが、ルティナに駆け寄ってくる。
その瞳は、非難の色に彩られていた。
状況を見ていない者たちには、ルティナが闇の魔法を使い、ステラをいたぶり、アルヴァイスを害しようとしているように見えるのだろう。
非難の色と、畏怖と恐怖。そして嫌悪。
数々の視線にさらされて、ルティナの体は勝手に竦んでしまう。
心が、委縮してしまう。
大丈夫だと言い聞かせても、心に染みついた恐怖は消えていかない。
「ルティ!」
その中から、力強い声と共に真っ直ぐにルティナに駆け寄ってくる人がいる。
駆け寄り、思い切り抱きしめて、皆の視線からルティナを隠した。
ルティナはその大きな背中に手を回して、その逞しい胸に顔を埋める。
「カイネ様……っ」
「遅くなって、すまない……!」
謝罪を口にするカイネルードに、ルティナは首を振った。
カイネルードに抱きしめられてその声を聞くだけで、春の日差しに雪が溶けるように、凍えた心があたたかく蕩けていった。




