四年間の真実
◇
誰かが心配そうに「ルティ」と呼ぶ声がする。
それはあまりにも必死で、切実で、その声だけで皮膚に浅く傷がつき、じわりと鮮血が滲み溢れていくかのようだった。
「ルティ、ルティ……っ、すまない、ルティ……!」
どうか泣かないでほしい。
──私は、私の役目を果たした。
それだけではない。
──私は、あなたを守りたい。
ごく限られた狭い世界の中で、あなたはいつだって輝いていた。
切ないほどに大切で。
──大好きだから。
◇
ふと目を覚ますと、そこは学園寮の部屋のベッドだった。
ルティナの長い黒髪が、白いシーツの上に広がっている。
制服はゆったりとした寝衣へと替わっていた。
ルティナは自室にいることが多かったが、それでも昼間から寝ているようなことはなかった。
クオンツの言いつけを、生真面目に守っていたのだ。
勉学に励め。運動をしろ。本を読め。クワイエット家の娘であることを忘れるな、と。
まだ日が高いうちから寝てしまうなんて──と、慌てて起き上がると、くらりと頭が揺れた。
「ルティ、よかった。目を覚ましたのだな」
「……カイネ様」
ベッドサイドに、カイネルードが座っている。
倒れそうになったルティナを支えて、再びベッドに寝かせると、顔にかかった髪を優しく払った。
そこでルティナは、庭園のガゼボでのことを思い出して、顔を真っ赤に染めた。
記憶が頭の中を埋め尽くす。閉じた瞼の裏に、ルティナに触れるカイネルードの艶美な唇が思い浮かぶ。とろけそうな、熱を帯びた瞳も。
それは青空ではなく、透き通った水をたたえる深い湖のようだった。
「軽度の、魔力酔いを起こしたようだ。妖精薔薇のせい……だけでもないな。俺のせいでもある。だが、反省はしていない」
ガゼボの中でのカイネルードは、いつもとは違う雰囲気だった。
だが今は、いつもの快活さを取り戻したように、楽しそうに笑っている。
「愛しているから触れたい。それは当然のことだろう? 俺はルティに触れた。それを反省するというのもおかしな話だ。俺がそうしたいから、したのだから」
「……あの、あまり、言わないでください」
「なぜ?」
「恥ずかしいですから……」
「ルティは、謙虚で照れ屋で可愛いな。だがもっと自信を持ってもいい。君が望めば、俺は君になんでも──しよう」
カイネルードの腕が、ルティナの枕元に置かれる。
覆い被さるようにされると、長い金の髪がカーテンのようにルティナの顔を外界から隠した。
ごく自然に、唇が重なる。
柔らかく、少ししっとりしている。ルティナの小さい唇など、すぐに食べられてしまいそうなほどに、カイネルードの口は大きい。
啄むように触れて、鼻先が軽く触れ合う。
カイネルードはこの上なく嬉しそうな顔をしながら、そっと離れていった。
「……好きだよ、ルティ」
「……っ、あ、ぁの……」
「君のペースに合わせて歩いていきたいと思っていたが、もう待たない。ルティ、俺から目を逸らすな。俺だけを、見ていろ」
──溺れてしまいそうだ。
しっかり掴まっていないと、激しい濁流に流されて、どこかに沈んでいきそうになる。
「ルティ、ステラのことは悪かった。四年前俺がエルナン王国に行ったのは、婚約を断るためだった。……ステラはエルナン王国の王女だ。エルナン王国と我が国の立場は平等で、危ういところで平和の均衡が保たれている」
「……はい。存じあげております」
「ステラを娶るのは、エルナン王国との和平のため。だが、俺にはルティ以外を娶る気などなかった。……あの頃は、俺は自分の無力さにうちひしがれていた。クワイエット公爵にも、嫌われていたしな」
ルティナの記憶では、カイネルードはあまり、自分のことを話さない少年だった。
それはカイネルードが自分で言っていた通り、己を格好良く見せたいという、少年なりの意地だったのかもしれない。
いつも明るく、悩みなどなさそうで、「俺はなんでもできる」「万能だからな」と胸を張っている自信家。
遊びに行こう、ルティがいないとつまらない──と、ルティナを攫っていく少年に、寡黙な父は何も言わなかったが、気が気ではなかったのだろうか。
「エルナン王国に、婚約を自分で断りに行けと言われてな。それで、あちらの国に。もちろん、俺の拒絶はあちらの国を怒らせた。断るのならば、魔法を使わずに剣のみで俺に打ち勝て──と、ステラの父、エルナン国王に言われた」
「……カイネ様、ワイバーンは」
「ワイバーンは……一つの目標だった。ワイバーンを素手で殴り倒せることができれば、エルナン国王にも勝てるだろうという、師からの指導でな」
どこか照れたように、カイネルードは言う。
そして「ルティには、秘密にしておきたかった。君は優しく繊細だから、ステラの話を聞いたらきっと気に病むだろう。俺とは結婚できないと言うだろうと思って」と付け加えた。
「……魔法に頼りきりになるのはよくないと、考えていた頃だった。肉体的にも強くなって、ルティを守れる男になりたいと。だから、俺にとっては丁度よかった」
そうして、無事にエルナン国王に打ち勝って、正式に婚約の申し出を拒否できたのが一年前。
エルナン王国での二年間では、エルナン国王に勝てなかったのである。
二年して、カイネルードはサラデインに呼び戻された。
貴族学園に入学するためだ。
学園に通いながらも、魔物討伐に赴き力をつけて、ひたすらに己を鍛えていた。
そして、無事にワイバーンを殴り倒せるようになり、エルナン国王と最後の決闘を行った。
ようやく勝つことができた。
婚約を断るためにエルナン王国に出向き、国王との決闘に勝つために、四年の歳月を費やしていた。
カイネルードはエルナン国王からの「カイネルードの意思は固い。娘との結婚は、白紙にしよう』という親書を預かり、皇帝に叩きつけたのである。
そこで皇帝は、それならばと──ルティナとの婚約を認めたわけである。
「そんなにルティと結ばれたいのなら、ルティを第二妃にするように言われた。だが、俺は、妻はルティ一人だけでいい。他の女性など、いらない」
「カイネ様、それでは、皇帝としての責務が……」
「もし子ができなくても、そんなことは構わない。精霊の加護などなくとも人は生きていける」
「ですが」
「幸い、俺には兄弟が多い。だから、いざとなれば誰かから養子をもらえばいい」
カイネルードはそこまで考えて、ルティナに婚約を申し込んでくれたのだ。
それなのにルティナは、カイネルードを疑ってばかりいた。
悪夢の話を、するべきだろうか。
秘密にしておくのは、ここまで話してくれたカイネルードに対して、不誠実ではないのか。
ルティナが口を開く前に、カイネルードが言葉を続けた。
「婚約を白紙にする代わりに、ステラはどうしてもサラデインに留学をしたいと言ってな。……流石に、あまり冷たくもできなかった。だが、ルティが不安になるというのなら、もう彼女とは一切、話をしない」
「い、いえ、そこまでは……。私が、いろいろ一人で、考えてしまって。ステラ様は、私と友人になってくれると言ったのに。優しくて、明るくて、いい方でした。ですから」
「だが、何かあったら俺に言え。俺も、彼女のことは正直、よくわからん」
そもそも女性のことがよくわからないと、カイネルードは困ったように言う。
「俺は、ルティしか見ていなかったからな。大体、頭の中の九割がルティのことでいっぱいで、あまり他人に構っている余裕がないんだ」
「そんなふうには見えません」
「それは、そういうふりをしているだけだよ」
カイネルードはそう言って、珍しく困ったように、恥ずかしそうに笑った。




