アルヴァイス・サラデイン
──逃げ出してしまった。
友人になろうと親しげに話しかけてくれたステラから、心配して探しに来てくれたカイネルードから。
息を切らしながら駆け込んだ薔薇園の奥の、行き止まりのような場所にあるガゼボの椅子に、ルティナは座り込んだ。
魔力を持った薔薇たちの濃密な香りがあたりには充満している。
ルティナは体の中に魔力をおさえこんでいる。そのせいか、時折、外から感じる魔力に当てられて魔力酔いを起こしそうになる時がある。
心が弱っている時には、特にそうだ。
世界が反転するような目眩に胸をおさえて、深く座り込む。
自分が、情けない。
カイネルードを信じたいと思ったのに。強くならなくてはと、考えていたのに。
すぐに、心が揺らいでしまう。なんて弱いのだろうと、己を責めて、恥じることを繰り返している。
「……大丈夫?」
がさりと、薔薇の葉が揺れる。カイネルードが追ってきたのかと思った。
けれどガゼボにゆっくりと入ってきてルティナの顔を覗き込んだのは、カイネルードにどこか面差しが似ている青年だった。
燃えるような赤毛に、金の瞳をしたどことなく神秘的な雰囲気のある男だ。
ルティナの隣に無遠慮に座って、青ざめているルティナの背をゆっくりと撫でる。
「気分が悪い? この首飾りのせいだね。妖精薔薇は強い魔力回復効果があるから。この中にいると、体が勝手に外からの魔力を吸収する。ルティナは、首飾りで魔力を封じているのでしょう。だから、僕たちにとっては心地よい場所でも、息苦しさを感じるんだよ」
青年は、ルティナの首にある宝石に触れた。
そして、その宝石を指先でやんわりと撫でる。
「あ、あの、ごめんなさい。触らないで、いただけますか……? 首は、その……」
「知っているよ。昔、兄上を守って傷がついた。君は、魔物憑きで、不吉な魅了の魔女の、ルティナ」
「……はい」
「僕は君にずっと、会いたかった。クワイエット家の黒真珠と呼ばれていることを知っている?」
なんのことかわからずに、ルティナは困り果てた。
青年は、ルティナの隣に。足が触れ合うほど近くに座っている。
それは、いけないことだ。男性と二人きりになることは、よいことではない。その上肌を触れ合わせるなど、淑女としての恥である。
ルティナは青年から逃れようとしたが、青年はルティナの首飾りの宝石を、強く握っている。
頭をそらせると、首に、首飾りが食い込む。ルティナにとっては大切なものだ。
封魔の首飾りが壊れてしまえば、ルティナは魔力を抑えられない。
封魔の首飾りは、これ一つしかない。魔道具について研究してきたルティナだが、封魔の首飾りの作り方はさっぱりわからなかった。
この人は誰だろうと、記憶を辿る。ふと思い当たった人物の名を、思わず呟いた。
「アルヴァイス様……」
「覚えていてくれた? 嬉しい。一年前の舞踏会で、兄上と踊る君はとても可憐だった。クワイエット公爵家から外に出ることのない君があまりにも美しかったものだから、皆は君を、クワイエット家の黒真珠、と」
「……お願いです、離してください」
「兄上のせいで傷を負った君が、兄上の婚約者になるなんて。残酷だね」
ルティナがアルヴァイスの手を宝石から外そうとすると、アルヴァイスはもう片方の手をルティナのそれに重ねた。
まるで、至近距離で手を握り合っているような格好になり、ルティナの背筋に悪寒が走る。
ルティナに触れる男性は、父とクオンツとカイネルードだけだった。
そこには信頼関係があり、怖いとは思わなかった。
けれど、アルヴァイスは怖い。その長い指先も、美しい面差しも、どこか恐ろしい。
「僕は、この場所が好きなんだ。散策していたら、君の姿を見かけて。兄上と、ステラ姫もいた。知っている、ルティナ。兄上はね、ステラ姫と結婚をするように、言われていたんだよ」
「……結婚を?」
「そう。隣国との友好関係のために。皇帝はどれほど妻を娶っても構わないから、ステラ姫を第一妃にして、想い人を第ニ妃にするようにという命令があったんだ。ちょうど、父上と同じように」
「皇帝陛下……」
皇帝は、アルヴァイスの母を寵愛している。
正妃ミラではなく、いつも連れ歩いているのはアラベルである。
その噂は、ルティナも知っている。
皇帝は本当はアラベルを正妃にしたかったのだろうか。
「けれど、ほら、兄上は優しい人だからね。君に傷をつけたことを、後悔しているんだ。魔物憑きで、魅了の魔女の君はきっと、良縁に恵まれない。誰も、君と結婚をしようとはしないだろう。だから、君を自分の婚約者にしなければと、罪悪感から思い込んでいるようだった」
「……っ」
アルヴァイスは憐れむように「兄上は、王妃ミラが愛されていない姿を見知っているからね。君を妃に据えて、他の女性を娶るようなことはしたくないと。本当は、ステラ姫が好きだったのに」と続けた。
アルヴァイスから離れようともがいていたルティナの体から、すっかり力が抜けてしまった。
そうだったのかと、愕然とする。
あの悪夢の意味は、そういうことだったのかと。
カイネルードは、ルティナの傷の責任を取ろうとしてくれているのだ。
「ルティナ、あの二人の姿を見ただろう。このまま兄上の婚約者でいると、君はきっと不幸になる」
「……アルヴァイス様。ご忠告、ありがとうございます」
「話せてよかった。美し君の顔が曇るところは見たくない。ルティナ、何かあったら僕のところにおいで。きっと、力になれる」
アルヴァイスの言葉は、甘い毒のようにルティナの脳を揺さぶった。
「アルヴァイス、ルティから離れろ」
怒りに満ちた声が、不意に響いた。
いつの間にか現れたカイネルードが、アルヴァイスの手を捻り上げている。
アルヴァイスはルティナからぱっと手を離すと、痛そうに眉をひそめた。
「兄上。婚約者を一人にするなんて、よくありませんよ。いつだって僕のような悪い男が、愛らしい姫君を狙っているのですから」
「お前やアラベルが何を企んでいるのかは知らないが、もしルティに危害を加えたりしたら、命がないと思え」
「あぁ、怖いな。それではね、ルティナ。また、話そう」
アルヴァイスはカイネルードの手を振り払うと、その手をひらひらと振りながら、ガゼボから出ていく。
カイネルードはルティナの両肩を強く掴んだ。
それから、その体を引き寄せて、痛いぐらいに強く抱きしめた。




