はじめてのダンス
先に立ちあがったのはカイネルードだった。
ルティナに手を差し伸べて、立ちあがらせる。大広間から楽し気な音楽が鳴り響いているのが遠くに聞こえる。
物見台からは街の様子を見下ろすことができる。
空は宝石をこぼしたように星が輝き、街にも遠慮がちに炎魔石の明りが輝いている。
夜は静かで、カイネルードと二人きりの空間は、ルティナにとってはなんだか懐かしかった。
よく、窓から忍び込まれたものである。
カイネルードは扉から入るよりも窓から侵入することがお気に入りで、ルティナはその都度驚いてはいたが、本当の意味で拒絶などしていなかった。
いつカイネルードが来てもいいように、窓の鍵はかけなかった。
それは、疎遠になってしまったこの四年も、ずっとそうだった。
そんな自分に気づくたびに、羞恥といたたまれさなで胸が痛んだ。
去っていく友人を追いすがるようなことはしたくない。
そんなことをして拒絶されるのは、どうしようもなく、怖い。
「ルティ。そろそろ行こうか。俺は君と踊りたい。君のはじめてを、俺にくれるか?」
「クワイエット家の娘として、練習はしてきましたけれど……うまくできるかどうか」
「うまくなくてもいい。俺も下手、という可能性もある。楽しければいいんだ、ダンス、などというものは」
「……でも、私、カイネルード様に恥をかかせてしまうかもしれません」
「カイネ」
「え……」
「カイネと、呼んで欲しい。常々他人行儀だと思っていたんだ。でも、殿下と呼ぶなと既に君には言ってしまったから、次はカイネと呼べとは、なかなか言い出せなくてな」
「……カイネルード様は、なんでも、思ったことを口にする方だと思っていました」
「そう見えるか?」
ルティナは頷く。
カイネルードはいつも輝いていて。明るくて。前向きで。完璧で。
なんて――思っていた。
けれど、ルティナはカイネルードの全てを知っているわけではない。
部屋に籠っていたルティナが知っているのは、ルティナの元に遊びに来た時のカイネルードの姿だけだ。
「では、そう思っていてくれ。ルティ、カイネと呼べ。呼ばない場合は、何か罰ゲームを……」
「罰ゲーム、ですか」
「あぁ。何がいいかな。君が俺をカイネルードと呼ぶたびに、口付けを許可する場所が増えるというのはどうだろう。はじめは、指先に。それから、手首に。……腕に、首に」
「……それは、困ります。首は、いけません」
そこには傷がある。魔物憑きの傷が。
傷跡が残ってからは首飾りを外していない。首飾りで隠れているから、見ることができるのは侍女のセシアナだけだ。
傷が残っていることを、家族とカイネルードは知っている。
けれど、見せたことはない。
それは不幸を呼び寄せる傷。触れたりしたら、カイネルードも不幸になってしまう。
「首にも、唇にも。体中に、口付けたいが」
「……首は、いけません」
「冗談だ。しないよ、お姫様。まだ、しない。……君は十五だから、さすがに俺は、急ぎ過ぎているな」
首の傷について、カイネルードは触れなかった。
カイネルードに手を引かれて、大広間に戻ると、二人の訪れを待っていたかのように中央のダンスホールから踊りに興じていた若い貴族たちが壁際に戻っていく。
明るい音楽が一度やみ、カイネルードに手を引かれてルティナは広間の中央に立った。
皆の視線が、肌に突き刺さる。
両親やクオンツが、心配そうにルティナを見ている。
カイネルードはルティナの手を握りなおして、腰を体に引き寄せる。
ぴったりと寄り添うと、耳元に唇が寄せられた。
「大丈夫。俺だけ、見ていろ。他には誰もいない。俺と、二人だけだ」
その声が、言葉が、体にじんわりと染みていく。
心臓が、今までにない以上に脈打って、呼吸が苦しくなる。
けれどそれは、恐怖からではない。なんともいえない甘美さが指先まで広がっていく。
はじめての感覚に、ルティナは戸惑う。
これと近い感覚を、いつか味わっただろうか。
あれは――カイネルードだけが、ルティナの友人だと言ってくれた時。
魅了などあってもなくても、そんなことは関係ないと言って――窓から入ってきてくれた。
失くしてしまったと思い込んでいた友人が、戻ってきてくれた。そのあまりの甘美さに、喜びに、瞳が潤む。
ルティナは気づかれないように、カイネルードの胸に顔を埋めた。
それからもう一度顔をあげると、「カイネ様」と名前を呼んで、小さく頷いた。
楽隊が音楽を奏で始める。それは皇家の祝いの場で演奏される楽曲で、華やかながら厳かで、絢爛であり上品な美しさを感じさせるものだ。
カイネルードに身を任せて、家庭教師に教えられたステップを踏む。
クオンツと練習をすることはあったが、それはあくまでも自室の中だけだった。
クオンツは「上手だ、ルティ」といつも褒めてくれたが、どこかで披露するなど、考えたこともなかった。
「ルティ。楽しいな。大丈夫? 怖くはないか」
「……大丈夫です。カイネ様だけ、見ています」
「あぁ。ずっと、そうしていてくれ」
意識をそらすと緊張で体が動かなくなってしまいそうになる。
ルティナは必死に、カイネルードの空色の瞳を覗き込んでいた。
晴れた日の青空のような瞳だ。ルティナにとっては眩しすぎる、きらめきを讃えたそれに、今はルティナだけがうつっている。
体がふわりと浮かび上がるような、不思議な感覚だった。
音楽が鳴りやみ、カイネルードに合わせてゆったりと足を止める。
お辞儀をしてその場から立ち去ろうとするが、カイネルードはルティナを離さず動かなかった。
カイネルードのための拍手の波の中で、ルティナはじっとしていた。
皆の邪魔をしないように。カイネルードの邪魔にならないように。
拍手がなりやんだころ、もう一度、今度は明るい曲調で音楽が鳴り始める。
ルティナやカイネルードに近づこうとしていた若い貴族たちの足が、ぴたりと止まった。
「ルティ、もう一曲だけ付き合え」
「カイネ様、他の女性たちが、カイネ様と踊りたがっています」
「俺は君だけでいい。ルティも、他の男と踊るなどはしてはいけない」
そんな人はいない。
ルティナを誘うような男性は、クオンツかカイネルードぐらいだ。
けれどそれを口にするまえに、ルティナはカイネルードによって、くるくると回された。
回る世界が楽しくて、自然と笑みが浮かぶ。
ずっと緊張していた。頭の中によくないことばかりが思い浮んで、いっぱいだった。
けれど。カイネルードと踊っていると――少しだけ、楽しいと思えた。




