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チキンのトマトハーブ煮込み 前編

昨夜、百合ママのバーで突きつけられた問いが、ずっと胸の奥で重く響いていた。

『本当に向き合いたい相手は誰なの?』

答えなんて、最初から決まっていたのだ。自分のずるさから逃げず、今日こそ彼女としっかり向き合おう——そう心に決めて足を向けたはずだった。

それなのに、『Shed』の扉を開ける隆一の足取りは、どこかぎこちなかった。カランコロンとドアベルが軽やかな音を立てる。

「いらっしゃいませ、隆一さん!」

カウンター越しに迎えた玲奈の笑顔に、隆一の胸がトトンと小さく跳ねる。

今日の玲奈のエプロンは、落ち着いたシンプルなネイビー。その下には、柔らかそうなアイボリーの薄手ハイネックリブニットと、裾が揺れるダスティピンクのフレアスカートを合わせている。髪は後ろでひとつにまとめられ、首を傾げるたびに小さなアンティークゴールドのピアスがチラリと揺れていた。

(……相変わらず、いちいち可愛らしいんだよな)

昨夜の覚悟と、これまでの甘酸っぱい記憶が混ざり合い、隆一は照れ隠しに軽く咳払いをした。

「あー……玲奈ちゃん。今日のエプロンも似合ってるよ。なんだか大人っぽくて良いな」

「えへへ、本当ですか? ありがとうございます! ちょっとシックにまとめてみたんです」

嬉しそうに目を細める玲奈。二人の間に流れる空気は、ここ最近の出来事を経て確実に柔らかく、どこか甘やかさを帯びていた。

「ご注文、どうされますか?」

「じゃあ、黒板にあった『ごろごろチキンのトマトハーブ煮込み』をバゲットで。それと、いつもの瓶ビールを」

「はい! トマト煮込みと瓶ビールですね。限定10食なんですけど、隆一さんの分はしっかりキープしてありますからね!」

パッと花が咲くような笑顔で厨房へ向かう玲奈の後ろ姿を見送りながら、隆一はカウンター席でほっと息をついた。

やがて運ばれてきたのは、丁寧に煮込まれたチキンと鮮やかな根菜や秋野菜が深皿に盛られた一品。トマトの甘酸っぱい香りとハーブの爽やかな風味が立ち上り、添えられたキャロットラペとポテトも食欲をそそる。

冷えたグラスに自分でビールを注ぎ、一口煽る。喉を鳴らして流し込んだ後、熱々のトマト煮込みを口に運んだ。ほろりと崩れるチキンと濃厚な旨味が、冷たいビールと完璧なハーモニーを奏でる。

「うまいな……ビールが進みすぎる」

「ふふ、良かったです! ビールに合うようにハーブの効かせ方を工夫したんですよ」

カウンター越しに身を乗り出す玲奈。距離が近く、ふんわりと彼女から甘い香りが漂う。隆一は再び直視できなくなり、目線を少し泳がせながら「ああ、最高の組み合わせだよ」と答えた。

その時だった。

カランコロン、と勢いよくドアベルが鳴り響いた。

「あ〜! 朝晩は冷えるのに、昼間は歩くと結構あったかいね〜! 喉カラカラだよ〜!」

「ちょっと静かにしなよ、お店なんだから(笑)」

賑やかな声とともに店に入ってきたのは、30代半ばほどの女性二人組だった。いかにも休日に子育てや家事の合間を縫って、束の間の息抜きにやってきたといった風情のママ友同士らしい。

二人はボックス席に腰を下ろした。

中でも目を引いたのは、手前の女性・亜美だった。薄手のトレンチコートを脱ぐと、中にはVネックの柔らかなシアーカットソー。鎖骨ラインが美しく覗き、インナーのキャミソールが透ける大人の色気がある。ボトムスは落ち感のあるベージュのハイウエストワイドパンツで、洗練された秋スタイルだ。

奥の女性・真理は、深みのあるブラウンの長袖リブニットに黒のキャミソールワンピースを重ねた、シックで親しみやすいカジュアルスタイル。

「いらっしゃいませ!」と玲奈がメニューを差し出すと、亜美が隆一の手元を目ざとく見つけた。

「あ、ちょっと見て! お隣のお兄さん、昼からビール飲んでる! めっちゃ美味しそうじゃない!?」

「本当だ〜! 喉鳴らして飲んでたよね。いいな〜、私たちも飲んじゃう?」

「飲んじゃおう! すみません、私たちにもその瓶ビール1本グラスは2つと、ポテトと……あとトマト煮込み二つください!」

「は、はい! 瓶ビールですね、少々お待ちください!」

明るいノリで注文を終えた亜美が、羽織っていたコートを畳みながら隆一の方へ顔を向けた。その揺れるゴールドのロングピアスと、ふわりと香る香水の匂いに、隆一は思わず背筋を伸ばしてしまう。

「お兄さん、美味しそうに飲むからつられちゃったわ〜。休日の昼間から飲むビールって、なんでこんなに背徳的で美味しいのかしらね?」

「え、あ、はは……そうですね。休日の昼飲みは最高の贅沢ですから」

本当なら、今日こそ覚悟を決めて玲奈と向き合うつもりだった。しかし、直前の距離の近さと昨夜からの緊張にドギマギしていた隆一にとって、この賑やかなママ友たちの介入は、照れ隠しと気まずさを誤魔化す絶好の逃避場所になってしまったのだ。

「ですよね〜! 私たちも普段は家事だ子育てだでバタバタしてるから、こういう時間が奇跡みたいなもので!」

「お兄さん、よくこのお店来られるんですか? 落ち着いてて良い雰囲気ですよね」

真理も笑顔で会話に加わってくる。

「ええ、料理も美味しいですし、落ち着くのでよく来ますよ。今日のトマト煮込みも絶品です」

「あら、じゃあ大正解だったわね! ねぇお兄さん、せっかくだしこっちに来て乾杯しましょ!」

「えっ、あ、はい。じゃあ……」

亜美がノリノリでグラスを掲げる。隆一は断る理由もなく、グラスにわずかに残っていたビールを注ぎ足し、二人と軽くグラスを合わせた。

「乾杯〜!」

「ぷはぁ〜! 美味しい! お兄さん、ビール進みすぎじゃない? もうグラス空になりそうよ!」

「あはは、確かに……すみません、玲奈ちゃん、ビールもう一本もらえるかな?」

隆一は照れくささを紛らわすように、まんまとママ友たちのペースに乗って会話を弾ませてしまった。仕事の話や、この店の居心地の良さについて、ノリよく応対していく。亜美が「わかる〜!」と体を少し密着させて来るのを、隆一はさりげなく離れるようにした。

——だが、隆一は完全に失念していた。

この様子を、すぐ目の前のカウンター越しから、じっと見つめている人物がいることを。

「……はい、瓶ビールのおかわりです」

トンッ。

カウンターに置かれたビールの音が、露骨に重かった。

隆一がハッとして顔を上げると、そこにはネイビーのエプロン姿の玲奈が立っていた。

先ほどまでの柔らかい笑顔は影も形もない。アイボリーのニットの胸元の上でキュッと固く腕を組み、ダスティピンクのスカートをかすかに揺らしながら、氷のように冷ややかなジト目で隆一を睨みつけている。

(……あ、あれ? 玲奈ちゃん……?)

「……隆一さん、すっごく楽しそうですね」

玲奈の声は、地声より半音低く、ゾクッとするほど静かだった。

「えっ、いや、あの……」

「注文のキャロットラペとポテトです。……ドン」

お皿がテーブルに叩きつけられるように置かれる。キャロットラペのニンジンが揺れた。

ママ友二人は「わーい、美味しそう! ありがとうございます〜」と盛り上がっており、玲奈の妙な空気に気づいていない。しかし、隆一にははっきりと分かった。玲奈の背後に、メラメラと黒いオーラが立ち上っているのが。

(まずい。めちゃくちゃ怒ってる……!? )

隆一の冷や汗が止まらなくなる。亜美が「お兄さん、顔色悪くない? 酔っぱらっちゃった?」と無邪気に覗き込んできたが、隆一はもうそれどころではなかった。

目の前で玲奈が、ぷくーっと頬を膨らませて、あからさまにそっぽを向いたのだ。その瞳には、かつて隆一が陸という若い男に抱いたものと全く同じ——いや、それ以上に濃密な「嫉妬の焔」が燃えさかっていた。

(え、ちょっと待て……もしかして玲奈ちゃん、嫉妬してる……のか!?)

それから15分ほど、隆一にとって針のムシロのような時間が続いた。ママ友たちは満足そうに料理とビールを平らげ、「あ〜美味しかった! また来ますね〜!」と嵐のように去っていった。

ドアベルがカランコロンと鳴り、店内には重苦しい沈黙が降臨する。

後編は明日朝 投稿します

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