ペペロンチーノ
10月第二週の土曜日。
私はいつものようにカフェ『Shed』の開店準備を終え、カウンターでお湯を沸かしていた。
「……来るかな、絵里ちゃん」
思わず小さく呟いてしまう。
先週のあの様子──あれは完全に“恋に落ちた顔”だった。隆一さんが帰ったあと、絵里ちゃんはずっと頬を赤くして、ハーブティーの湯気をぼんやり見つめていたのだ。(まさか、あの二人が……?)と想像した瞬間、胸の奥がくすぐったくなる。
だって、あの絵里ちゃんが。
流行の服を完璧に着こなして恋愛経験も豊富で、私のことを「先輩は清楚で可愛い〜!」と甘えてくるあの絵里ちゃんが。よりによって──昼間からビールを飲む、あの無精髭の常連さんに。
(取られたくない……、私だって今日は気合を入れたんだから)
胸元にワンポイントが入ったホワイトの長袖カットソーに、フリルが可愛いダークネイビーのデニムビスチェとパンツ。その上から、深みのある茜色と金色の紅葉が散りばめられた秋らしいカフェエプロンをギュッと結ぶ。
そんな時、カランコロンと秋の澄んだ空気に乗って扉のベルが響いた。
「やあ、玲奈ちゃん。今日もお邪魔するよ」
低い、けれど耳に心地よい大好きな声。隆一さんだ。無精髭に少し哀愁を漂わせた佇まいは相変わらず格好良い。
「隆一さん! いらっしゃいませ!」
自分でもわかるくらい声が跳ね上がってしまった。隆一さんはカウンターの端の席に腰を下ろす。
「玲奈ちゃん、今日のファッションは秋晴れみたいで気持ちが良いね」
「ふふ、隆一さんにそう言っていただけると嬉しいです! 今日も気合を入れて準備してきたんですよ。ランチの方もですよ」
「それは楽しみだ」
「今日のランチはですね……香ばしいホワイトソースと濃厚なチーズが自慢の『たっぷり秋キノコと濃厚ベシャメルの熱々ドリア』ですよ! 旨味がぎゅっと詰まったポルチーニやエリンギ、しめじを贅沢に使っていて、隆一さんに食べてもらいたくて張り切って作ったんです!」
自信満々にメニューを説明した私に、隆一さんは固まった。引きつった苦笑いを浮かべ、困ったようにぽつりと漏らす。
「……玲奈ちゃん、本当に申し訳ないんだが……俺、キノコが大の苦手なんだ。とりあえず、いつもの瓶ビールをもらえるかい?」
「……えっ!?」
思わず大きな声を上げて固まってしまった。
キノコが……大の苦手?
(ええーっ!? せっかく隆一さんの喜ぶ顔が見たくて何日も前から試作して、今朝も早くから秋キノコをたっぷり仕込んだのに……!)
心の中でガーンとショックの音が響く。隆一さんのために用意した渾身の特別メニューだったのに、まさか大嫌いな食材だったなんて。脱力しそうになりながらも、まずは「はい、いつもの瓶ビールです」と冷えた瓶ビールとグラスをカウンターにお渡しした。
一口ビールを美味しそうに飲んだ隆一さんを見つめながら、私は気を取り直して声をかける。
「隆一さん、ペペロンチーノはいかがですか? ビールにも合いますよ!」
「いいね! ニンニクてんこ盛りで」
普段は完璧で隙のない大人の男性なのに、キノコが苦手なんてギャップが可愛すぎる。
キッチンに入り、ペペロンチーノのフライパンを握る。香ばしいニンニクの香りを立たせながら、私は手早く仕上げていった。
「お待たせしました、隆一さん。ペペロンチーノです!」
運ばれてきた皿を見て、隆一さんの手がピタリと止まった。
ニンニクの香ばしさの奥から漂う、微かな秋の香り。そして、綺麗に盛られたパスタのあちこちに忍ばせた、旬のエリンギとしめじの薄切り。
「……玲奈ちゃん?」
「ふふ、秋の味覚ですから。隆一さんにも旬を味わっていただかないと。麺と一緒に食べやすいよう、小さめにカットしておきましたからね?」
いつも余裕たっぷりな隆一さんが眉を八の字にして、冷や汗を浮かべながら私をじっと見つめてくる。逃げ場を塞ぐような私の満面の笑みに降参したらしく、諦めたようにフッと目元を緩めた。
「……君はなかなか意地悪だな」
(……やっぱり、すごく可愛い!)
いつものポーカーフェイスが崩れ、冷や汗を浮かべる隆一さん。普段は見せないその不器用で愛くるしい表情を独り占めできている優越感に、胸の中で小さくガッツポーズをした。
「……いただきます」
覚悟を決めた隆一さんがフォークを握る。一口食べると、苦笑いを浮かべながら言った。
「まいったな。でも……絶品だよ。君が作ってくれたなら、全部いただくしかないね」
そう言って、隆一さんは少しだけ顔をしかめつつも、綺麗にペペロンチーノを完食してくれた。私のイタズラを受け止め、残さず食べてくれるその優しさに、胸がキュンと熱くなる。
「苦手なはずなのに……魔法みたいに綺麗に食べてくださるんですね」
「魔法、か。確かにそうかもしれないね。でも、一番の理由は料理人の心意気に応えたいからだよ。せっかく作ってくれたんだ、残したら男がすたる」
隆一さんは私の方を見て、悪戯っぽくウインクしてみせた。そのさりげない大人の余裕と優しいフォローに、私の顔が一気に熱くなるのを感じた。
「も、もう! 隆一さんたら……! 次回はちゃんとキノコ抜きの、とびきり美味しいメニューを考えますからね!」
「はは、それは助かるよ。楽しみにしている」
「ごちそうさま、美味しかったよ」と満足そうに笑い、隆一さんはお会計を済ませて店を後にした。去り際の背中を見送りながら、私はまだ熱の冷めない自分の頬を手で包み込む。
その直後、カランコロンと再び扉のベルが可愛らしい音を立てた。
「玲奈先輩〜! こんにちはっ!」
華やかな秋物のワンピースに身を包んだ絵里ちゃんが、少し緊張したような、期待に満ちた笑顔で店に入ってきた。店内をパッと見回し、カウンターの隅──つい先刻まで隆一さんが座っていた席へ視線を走らせる。
「あ……今日は、隆一さん来てないんですか?」
どこか落ち込んだように語尾を低くする絵里ちゃん。その素直すぎる反応を見つめながら、私は胸の奥でフフッと小さく勝ち誇った。
(ごめんね、絵里ちゃん。遅かったわね)
いつもおしゃれで可愛くて、恋愛上手な絵里ちゃん。だけど──。
「隆一さんなら、ちょうど今帰られたところよ。私の作ったペペロンチーノを、すっごく美味しそうに完食してくれてね」
あえて「私の作った」を強調しながら、優しく微笑んで答える。
隆一さんの誰も知らない意外な弱点を知っているのも。
イタズラで困らせて、あんなに愛おしい表情を引き出せたのも。
そして、私のために苦手なものを完食してくれる特別な関係なのも──全部、私なんだから。
「えぇーっ! 一足違いだったんだ……ショック〜」とカウンターに突伏す絵里ちゃんに「ハーブティーでも淹れようか?」と声をかけながら、私はエプロンの結び目をキュッと結び直し、とびきり甘い優越感に浸っていた。




