煮魚
カランコロンと、澄んだ秋空に扉のベルが可愛らしく響いた。
10月最初の土曜日。私は鏡の前で入念にセットしてきた前髪をそっと整え、カフェ『Shed』のドアをくぐった。今日は大好きな玲奈先輩の働く姿を見にきたのだ。
今日の私のコーディネートは自分でもかなりの自信作。鎖骨を綺麗に見せるオープンショルダーのシアーブラウスに、ドット柄のリボン。細身な体型を活かしたトレンド感たっぷりの大人ガーリーで、完璧にキメてきた。
大きな瞳を輝かせて店内を見渡すと、カウンターの奥から玲奈先輩がパッと表情を明るくして迎えてくれた。
「いらっしゃいませ! あ、絵里ちゃん!」
「先輩〜! 来ちゃいました!」
深みのあるボルドーのニットに細かなチェック柄のスカート。そこにマスタード色のカフェエプロンをキュッと結んだ姿は、秋の温もりを感じさせると同時に、先輩の持つ儚げな透明感をさらに際立たせている。相変わらず可愛いなぁ、なんて癒やされていた——その時だった。
カウンターの端に、明らかに店の雰囲気にそぐわない男が座っていた。
ボサッとした無精髭に、どこか哀愁を漂わせた中年男。そして手元には、昼間から傾けられている瓶ビール。
(……えっ、ウソでしょ? こんなところで昼から堂々と酒飲んでるオヤジ……? なさすぎるんだけど)
玲奈先輩がこんなオヤジの相手までしなきゃいけないなんて災難すぎる、と私は心で盛大に眉をひそめた。
「絵里ちゃん、いらっしゃい。そこの席どうぞ。今日のおすすめランチはね……『秋鯖と大根の生姜醤油煮定食』だよ!」
「……はい? 煮魚定食……!?」
思わず素でツッコミを入れてしまった。いくらなんでもメニューが渋すぎるでしょ!?
すると隣から「ほう……! ぜひそれをお願いするよ」と落ち着いた低い声。隆一と呼ばれたその男性が、少年のように目を輝かせて注文していた。
「お待たせしました、絵里ちゃん。ハーブティーと……」
玲奈先輩が私の席へドリンクを運んできてくれた時だった。私が上着を脱ごうと動いた拍子に、椅子に置いていたお気に入りのバッグがすべり落ちそうになった。
(あ、やば——)
思わず目を瞑った瞬間、すっと伸びてきた大きな手にバッグが受け止められた。
「おっと、危ない。大事な鞄が傷つかなくて良かった」
隆一さんだった。私のバッグを優しく椅子の上へと戻すと、押しつけがましさの欠片もない微笑みを浮かべる。
「あ、ありがとう、ございます……」
予期せぬ至近距離にドギマギする私をよそに、隆一さんは運ばれてきたハーブティーの湯気に目を細めた。
「可愛らしいお茶ですね。玲奈ちゃんの優しい雰囲気に似て、お友達もすごく華やかで素敵だ」
——え?
私は一瞬、耳を疑った。
若くて可愛い私に対して、鼻の下を伸ばしてすり寄ってくる男なら今までごまんといた。でも、このおじさんの言葉には下心が微塵も感じられない。ただ純粋に、『玲奈ちゃんの大切な友人』として、敬意と温かみを持って接してくれているのが伝わってきたのだ。
やがて運ばれてきたのは、照りの入った大きな秋鯖と、出汁がしっかり染み込んだ大根。丁寧に温め直された香ばしい醤油の香りが広がっていく。
「うわぁ、美味しそうだ……!」
隆一さんは嬉しそうに箸を手にした。私は冷ややかな視線を送りつつ盗み見る。どうせ身をぐちゃぐちゃにして汚らしく食べるに決まって——
(……え?)
私は思わず息をのんだ。
箸使いが、驚くほど美しい。身の柔らかい鯖の皮目にすっと箸を入れ、骨と身を鮮やかに切り離していく。一切の無駄がない洗練された所作で、美しい姿を保ったまま口へと運んでいくのだ。
無精髭のワイルドな見た目とは裏腹な、育ちの良さを感じさせる綺麗な食べ方に、私の目は釘付けになった。
「お会計をお願いするよ、玲奈ちゃん」
完食した器の上には、骨だけが綺麗に揃えて残されていた。隆一さんは満足そうに微笑むと、スマートにお札を置いた。
「あれ、隆一さん。今日はいつもより早いですネ?」
「うん、今日はちょっと用事があってね。美味しかったよ、ごちそうさま」
隆一さんはそう言うと、静かに席を立った。
去り際、私と少しだけ目が合うと、『後よろしく』と伝えるような軽いウインクが送られてきた。
理由なんて一切口にしなかったけれど、私には分かってしまった。
彼は、私と玲奈先輩が「女子同士の積もる話」をしたいのだと察して、野暮な長居をせずにスッと席を譲ってくれたのだ。 若くてこんなに可愛い私に下心を出すこともなく、見栄を張ることもない。さりげない気遣いができる「本物の大人」。
ガラス扉が閉まり、隆一さんの背中が秋空の中に消えていく。
トトン、と胸の奥が妙な高鳴りを上げた。昼間からビールを飲むイケてないオヤジだなんて、前言撤回だ。あまりにも、格好良すぎるじゃないか。
「絵里ちゃん? どうしたの、フリーズして?」
お冷を運んできてくれた玲奈先輩の声で、私はハッと我に返った。顔がカッと熱くなるのが分かる。
「あ、あの……! 玲奈先輩……!」
「え? なに?」
「あ、あの……さっきの……あのおじさん……っ! 一体何者なんですか……!?」
必死に平常心を装おうとするものの、声が上ずってしまう。
照れくさそうに「隆一さん? うちの常連さんだよ」と答える玲奈先輩の横顔を見ながら、私は激しく打つ心臓を押さえていた。
(どうしよう……私、あの人に一目惚れしちゃったかもしれない……!)




