オムライス
カランコロンと、軽やかな音が秋の澄んだ空気に溶けていく。
土曜日の14時前。ガラス扉の向こうに、聞き覚えのある少しゆっくりとした足取りが見えた瞬間、私の胸はトトンと跳ねた。
「いらっしゃいませ、隆一さん!」
「やあ、玲奈ちゃん。……うわぁ、すっかり秋らしい格好だね。テキパキ働く姿も素敵だけど、今日の服もすごく似合ってるよ。なんだか大人っぽくて綺麗だな」
カウンター越しに差し向けられた隆一さんの柔らかな笑顔と温かい声に、私の耳たぶが瞬時にカッと熱くなる。
今日の私は、朝から何度も鏡の前で着替えて悩み抜いたコーディネートだった。9月の下旬になり、昼間は過ごしやすいけれど風に少し冷たさが混じる季節。テラコッタカラーのシアー長袖カットソーに、アイボリーのサスペンダー付きビスチェを重ね、ボトムスにはふんわりと揺れるカーキのフレアスカートを合わせている。
私の体型は昔から華奢で、薄着だとどこか透けて頼りなく見えがちだ。だからこそ、大人っぽい秋色を取り入れつつ、ビスチェで胸元に立体感を出して可憐さを演出してみたのだけれど……。
(……っ、ダイレクトに褒められると、やっぱり恥ずかしすぎて直視できない……!)
「あ、ありがとうございます……! ちょっと秋を意識してみたんです。えへへ、気付いてもらえて嬉しいな」
カウンターの脇、飾り棚の端には、先日着ていて隆一さんに「熊の咆哮」と笑われてしまったあのヒグマのエプロンが、お店のちょっとしたマスコットのように畳まれて飾ってある。隆一さんから見える位置にそっと置いておいたのは、私のささやかな抵抗であり、内緒のお茶目心だった。
そのすぐ横で、今日のために新調したシックなネイビーのエプロンの紐をキュッと結び直し、私は必死に平静を装う。隆一さんはいつもこうして、私の小さな変化にさらりと気付いて、下心を感じさせない素直な言葉で褒めてくれる。その落ち着いた大人の包容力が、たまらなく心地よかった。
「それで……今日も瓶ビールですか?」
「うん、ビールと」
隆一さんがカウンターの上の黒板メニューに視線を送る。私は「待ってました」とばかりに、いたずらっぽく微笑んだ。
「ふふ、実はですね……今日、隆一さんに絶対に食べてほしい限定メニューがあるんです。試作を重ねた自信作なんですけど、食べてみませんか?」
「ほう、玲奈ちゃんの自信作? それは気になるな。ぜひそれをお願いするよ」
「はいっ! 瓶ビールと、特製ランチですね。すぐにお持ちします!」
冷えた瓶ビールとグラスを出して、ほど良く泡が出るように丁寧にビールをグラスに注いで厨房へと向かった。
準備したのは、秋の深まりを感じさせる『大人の贅沢オムライス』。 じっくり炒めた玉ねぎとチキンのケチャップライスを、贅沢に卵3個を使ってふわとろの半熟に包み込む。その上に、前日から煮込んでいた牛すじの特製デミグラスソースをたっぷりと回しかけ、仕上げに隠し味として、ほんのひとさじの甘酸っぱいケチャップを中央にちょこんと落とした一品だ。
そして出来立て熱々のオムライスをトレイに乗せ、隆一さんの待つカウンター席へ運ぶ。
「お待たせしました! 『大人の贅沢オムライス』です!」
湯気が立ち上る深皿を置いた瞬間だった。
「……うわぁ!!」
目の前に置かれた皿を見つめた隆一さんの顔を見て、私は思わず息をのんだ。
普段の隆一さんは、いつだって物静かで落ち着いた「頼れる大人の男性」だ。静かにビールを傾ける姿にはどこか洗練された哀愁すら漂っている。
なのに——今の隆一さんは、まるでプレゼントを開けた子供みたいに、両目をキラキラと輝かせていたのだ。
「オムライス……! いや、まさか『Shed』でオムライスが食べられるなんて思わなかったから、すごく嬉しいよ。しかもデミグラスソースなんて、めちゃくちゃ美味しそうだ……!」
あまりの食いつきぶりに、私は驚きつつもクスッと笑ってしまう。
「ふふ、隆一さんって、もしかしてオムライス好きなんですか?」
「大好きなんだよ。子供の頃から好物でさ……でも、大人が一人で外食で頼むのって、ちょっと照れくさいじゃない? だからすごくワクワクする」
言いながら、隆一さんは自分ですっとグラスにビールを注ぎ、喉を鳴らして一口煽った。そして、待ちきれないといった様子でスプーンを握り締め、ふわとろの卵とデミグラスソース、ライスの部分をすくって口へと運ぶ。
次の瞬間。
「……!! う、うまい……!!」
隆一さんは丸くした目をさらに大きく見開いて、感動の声を漏らした。
「玲奈ちゃん、これ最高だよ! 卵はとろとろだし、デミグラスのコクがすごい……! あ、でも後味に爽やかな甘酸っぱさがあって、全然重たくない。ビールにも完璧に合うよ!」
「本当ですか!? 隠し味に八丁味噌とマーマレードを少し効かせたんです。気に入ってもらえて良かった〜!」
「うん、めちゃくちゃ美味い。手が止まらないよ」
そう言うと、隆一さんは本当に美味しそうに、夢中でスプーンを動かし始めた。大きな口で頬張り、もぐもぐと咀嚼しながら、幸せそうに目を細めている。
その無防備で素直な表情から目が離せなくなってしまう。
(……なに、これ……)
胸の奥が、ドクンと大きく波打った。
いつも頼りになる、大人でスマートな隆一さん。 でも、いま私の目の前にいるのは、大好物を前にして無邪気に目を輝かせている、まるで少年のような隆一さんだ。
その落差——あまりにも可愛らしいギャップに、私の心臓がうるさいくらいに跳ね上がっていく。ただの「素敵なお客さん」だったはずの存在が、一気に熱を帯びて私の胸の中へ飛び込んできた感覚だった。
(こんな顔もするんだ……可愛すぎるよ、隆一さん……)
熱くなる顔を隠すように、私はカウンター越しに隆一さんの手元をじっと見つめていた。と、その時。夢中で食べている隆一さんの口元に、小さな赤い点がついているのが目に入った。
仕上げに落としたケチャップが、右の口角にちょこんとついてしまっている。
「ふふ、隆一さん。口元、ついてますよ」
「え? あ、嘘。どこ……?」
焦った隆一さんは、左の頬を手の甲でゴシゴシと擦った。まったく見当違いの場所だ。
「違います、反対です。右の口角のところ」
「えっ、こっち? あれ、取れた?」
今度は顎のあたりを擦っている。見当違いな動きをする隆一さんがおかしくて、愛おしくて、私は気づけばペーパーナプキンを1枚手に取り、カウンター越しにすっと身を乗り出していた。
「もう……違いますってば。じっとしててください」
「えっ、玲奈ちゃ——」
私が手を伸ばすと、隆一さんは驚いたように身体を固くした。
あまりにも顔と顔の距離が近い。隆一さんの長いまつ毛や、ほんのり小麦色をした肌の質感までハッキリと見える距離。ふわリと混ざり合う、ビールの香りと隆一さん自身の落ち着いた男性的な匂い。
(っ……! 私、何やってるの……!?)
自分の行動の思い切りの良さにハッと気づいたけれど、もう後戻りはできなかった。息を止めたまま、ペーパーナプキンを隆一さんの口元へと添える。
ふっと、ナプキン越しに隆一さんの唇の柔らかさが指先に伝わった。同時に、私の指先が、隆一さんの温かい頬の皮膚にほんの少しだけ触れてしまう。
「……取れました」
「あ……ありがとう……」
手を引くと、隆一さんの顔は、口元についていたケチャップ以上に真っ赤に染まっていた。耳まで火が通ったように赤くして、視線を泳がせながら慌ててビールを煽っている。
そして、当の私もまた、顔から火が出そうなくらい真っ赤になっていた。指先に残る温かい感触が、電気のように全身を駆け巡っていく。
「あ、あの! お水、お持ちしますね!」
逃げるように厨房へ戻り、冷たい水をグラスに注ぎながら、私は激しく打つ胸をそっと手で押さえた。
カウンターの向こうでは、隆一さんが照れくさそうに咳払いをしながら、残り少なくなったオムライスを大切そうに味わっている。
大人の頼もしさの中に隠された、無邪気で愛らしい素顔。 それを自分だけが見られたという事実が、たまらなく愛おしい。
(どうしよう……)
すっかり秋めいて涼しくなったはずの店内で、私の熱くなった頬は、いつまでも冷めてくれそうになかった。




