ナポリタン
「——仕事の日より真剣に髭を剃るとはな。まったく、四十にもなって若い子の言葉を気にするとは」
約束の土曜日。鏡の前で丁寧にカミソリを当て、ツルツルに仕上げた顎を撫でながら、隆一は一人苦笑した。
『Shed』のドアを押すと、店内には香ばしいケチャップと焦がしバターの匂いが満ちていた。この匂いを嗅ぐと、ようやく週末が来たと実感する。
「——あ! 隆一さん、いらっしゃいませ。……ほんとに髭、剃ってきてくれたんですね!」
カウンターの奥から玲奈が顔を出した。ぱっと花が咲くように瞳が明るくなる。今日の彼女は、前髪を少し分けた清楚なヘアスタイルに生成りのニット。下は、歩くたびに柔らかく揺れる膝上丈のネイビーのフレアスカート。派手さはないのに、どこか品がある。
その胸元には、例の“威圧感MAXのリアルなヒグマ”エプロンが堂々と鎮座していた。
「言っただろ、剃ってくるって。とりあえず瓶ビールひとつ」
運ばれてきた瓶ビールとグラスを受け取ると、玲奈が「私に注がせてくださいね」と嬉しそうにグラスを傾ける。
黄金色の液体の上に、きめ細やかな白が完璧な黄金比率で重なった。泡の立ち加減は丁度いい。
「で、今日のランチは? この香りからするとナポリタンかな?ひとつ頼むよ!」
「ふふ、正確!今日は『Shed特製・喫茶店の濃厚ナポリタン』です! 隠し味に生クリームをちょっとだけ入れてるんですよ。すぐ作りますね」
玲奈がパタパタと厨房へ入っていく。しばらくすると、芳ばしいケチャップの香りと共に熱々の鉄板が運ばれてきた。
鉄板の上でジュージューと音を立てるナポリタン。フォークで巻いて口に放り込む。
もちもちとした太麺に絡む、香ばしいケチャップの甘みとバターのコク。隠し味の生クリームのおかげで角が取れたまろやかな味わいが、口いっぱいに広がる。
その濃厚な余韻を、キリッと冷えた瓶ビールの苦味と炭酸で一気に洗い流す。……最高のスパイラルだ。
「……相変わらず美味いな。25歳でこのクオリティのカフェを一人で切り盛りしてるのは大したものだ」
素直に感心したその時、奥の扉がガチャリと開いた。
シンプルな装いなのに、布の質感や色の組み合わせが絶妙な女性——この店の本当の主であり、夜の顔であるスナックのママ・百合が姿を見せた。
百合は、昼間でもどこか“夜の気配”をまとっていた。落ち着いた黒のロングワンピースに、光沢のあるグレーのトップスを重ねている。
立っているだけで視線を奪う存在感があり、「大人の余裕」という言葉がそのまま形になったようだった。
手にした赤や黒のラインが入ったチェック柄のバッグをカウンターへ置く姿すら、不思議と絵になる。
夜の店で客を迎える時の落ち着いた佇まいと、昼の柔らかい空気の中でも変わらない芯の強さが、そこに滲んでいた。
百合がカウンターに立つと、店の空気が一段階だけ引き締まる。玲奈の清楚で明るい雰囲気とは対照的に、百合は静かで、深くて、どこか影のある美しさをまとっていた。
「まあ、隆一さん。今日も寄ってくれてたのね」
「お疲れ様です、百合さん。昼も居心地がいいですよ」
「そう? この子が急に『カフェやりたい!』なんて言い出した時はどうなるかと思ったけど……隆一さんみたいな常連さんがついてくれて安心したわ」
表の看板に掲げられた店名は『Shed』。夜は百合が営むスナック、昼は姪の玲奈が間借りして営業するカフェ——それがこの店の仕組みだ。
「ちょっと、百合おばさん! 隆一さんに余計なこと言わないでください!」
玲奈が頬を膨らませる。その仕草すら清楚で、どこか子どもっぽくて、見ていて飽きない。
百合はくすりと笑うと、夜の営業準備を進めるようにカウンターの奥へと入り、仕切りになっていたロールカーテンをすっと引き上げた。
昼の柔らかい空気とは一線を画す、夜の主役・ウイスキーのボトルがずらりと姿を現す。
「余計なことじゃないわよ。隆一さん、この子ね、今朝から『今日は隆一さんが髭剃ってくる日だから!』ってそわそわして、エプロン何度も付け直してたのよ。その熊と話しながら」
「ゆ、百合ママーーーっ!? なんで言うんですかそれ!!」
玲奈は顔を林檎のように真っ赤にし、ヒグマのエプロンを引っ張り上げて顔を隠そうとした。その拍子に、ふわりとスカートの裾が揺れ、すらりとした脚が一瞬だけのぞく。
白すぎず、細すぎず、健康的でまっすぐな脚。清楚な女の子の自然な美しさがそこにあった。……まずい。
視線を逸らし、瓶ビールを持つ手に力が入る。四十男の理性が、こういう瞬間に試される。
「事実よ。隆一さん、あんまり焦らしちゃダメ。玲奈ちゃん、わかりやすいんだから」
「百合さん、勘弁してください……。俺はただの客ですし、もう四十の男ですよ」
咳払いで誤魔化す。
しかし百合ママは、人生経験豊富な目で二人を見比べ、すべてを見抜いたように妖艶に微笑んだ。
その笑みに、俺はまたビールを一口飲むしかなかった。




