牛すじのデミグラスソース煮込み 前編
土曜日の朝。鏡の前で、玲奈はため息をつきながら何度目かの着替えを終えていた。
(……これでよし。派手すぎないし、素っ気なすぎもしない。……よし!)
選んだのは、ふんわりとしたライトグレーのモヘアニットに、落ち着いたネイビーベースのロングチェックスカート。髪はゆるく下ろしてサイドをひとつだけピンで留め、大人っぽさと可愛げの絶妙なラインを狙った。ネイビーのエプロンを上から付けると、すっかりいつもの『Shed』の店主の姿だ。
けれど、胸の奥はちっとも「いつも通り」ではなかった。
あの日——1週間前。「好きだ」と言い捨てて顔を真っ赤にしていた隆一の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
(バカ……! 急にあんなこと言うなんて、ズルい……っ。今日、どんな顔して隆一さんに会えばいいの……!?)
返事なんて、YESもNOも決められるわけがない。気まずさと、恥ずかしさと、ほんの少しの甘い期待で、玲奈の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
開店時間を迎え、厨房で仕込みを進める。今日の限定ランチは、隆一が好きな肉料理を意識した『牛すじと秋野菜の赤ワインデミグラス煮込み』。ビールにも絶対合う自信作だ。
カランコロン——。
ドアベルが鳴るたびに、玲奈の肩が跳ねる。 「いらっしゃいませ!」と声を張るが、入ってくるのは近所の常連さんやカップルばかり。
13時を過ぎ、いつも隆一がふらりとやって来る14時が近づく。 カウンター越しに仕込みの手を動かしながらも、玲奈の視線はチラチラと入口のドアに向かっていた。心臓がうるさいくらいにドックンドックンと音を立てる。
(来たら……どうしよう。「この前のことだけど」って言われたら? それとも、何事もなかったみたいにビール注文されるのかな……)
しかし——14時半を過ぎても、15時を回っても、ドアベルが鳴ることはなかった。
仕込んだデミグラス煮込みの鍋から、静かに湯気が立ち上っている。隆一のためにキープしておいたカウンターの端の席は、ぽっかりと空いたままだ。
(……来ない)
16時。店内から客が引き、しんと静まり返る。
胸の奥が、ぎゅっと冷たく締め付けられた。
(なんで……? あの告白、やっぱりただの場紛れの冗談だったの……? 気まずくなって、もうこの店に来づらくなっちゃった……?)
さっきまでの「どう接していいか分からない」という葛藤はどこかへ吹き飛び、代わりに押し寄せてきたのは、耐えがたいほどの不安と焦燥感だった。
もう二度と、あの優しそうな笑顔が見られないかもしれない。 あの低い声で「玲奈ちゃん」と呼んでもらえないかもしれない。
(やだ……そんなの、絶対にやだ……っ)
自分が思っていた以上に、隆一の存在が大きくなっていたことに気づき、玲奈の目頭が熱くなる。涙がこぼれそうになった、その時だった。
リンリーン、リンリーン——!
静かな店内に、電話のベルが甲高く響き渡った。
ハッとして受話器に飛びつく。 「はいっ! 『Shed』です……!」
『あ……玲奈ちゃん……?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、待ち焦がれていたあの声だった。けれど、いつもよりずっと掠れていて、今にも消えそうなガラガラ声だ。
「っ、隆一さん!? どうしたんですかその声! 今日、来ないから……っ」
『……ごめん、本当に行けなくて。昨日の夜から急に熱が出ちゃって……今、病院から帰ってきたんだけど……インフルエンザだった……』
「え……インフル……?」
『……今日、限定ランチ取っておいてくれたよね……せっかく準備してくれたのに、すっぽかす形になっちゃって、本当にごめん……』
苦しそうな息遣いの合間に、申し訳なさそうに謝ってくる隆一。
その声を聞いた瞬間、玲奈の緊張の糸がプツンと切れた。 嫌われたわけでも、逃げられたわけでもなかった。ただの体調不良だったのだ。
安堵感が一気に押し寄せ、それと同時に、胸の奥から愛おしさと少しの怒りが込み上げてくる。
「……バカ」
『え……?』
「隆一さんのバカ! 紛らわしいですっ……! 連絡もなしに来ないから……私、私……っ!」
受話器を両手で強く握りしめ、玲奈は溢れそうになる涙を必死で堪えた。
「もう来なくなっちゃったんじゃないかって……すごく、すごく心配したんだから……っ!」
受話器の向こうで、隆一が息をのむ気配がした。
『……玲奈ちゃん……』
「……熱、高いんですか? ご飯は? 何か食べられてますか?」
『あ、いや……ゼリー飲料をちょっと飲んだくらいで、横になってる……』
「わかりました。お店、すぐ閉めます。何か消化に良いもの作って持っていきますから、お家のアパートの部屋番号、教えてください!」
『えっ!? いやいや、インフルだし玲奈ちゃんにうつしたら申し訳ないよ!』
「いいから! 黙ってベッドで寝ててください!」
玲奈は少し強引に言い放つと、隆一から部屋番号を聞き出して受話器を置いた。
エプロンをパッと外し、手際よく保温容器におかゆとスープを詰めていく。 さっきまでの憂鬱や恥ずかしさは、もう綺麗さっぱり消え去っていた。
今あるのは、「早く隆一さんの元へ駆けつけたい」という、まっすぐな気持ちだけだった。




