おかゆ
「鍵、開いてますから……勝手に入ってください……」
電話越しに聞いた隆一さんの弱々しい声と部屋番号を頼りに、私は息を切らしながらアパートの階段を駆け上がった。
築年数の経ったアパートの202号室。ドアの前で大きく息を整えてから、そっとドアノブに手をかける。カチャリと音を立ててドアが開くと、静まり返った部屋の空気が肌に触れた。
「隆一さん……? 入りますね……」
靴を脱ぎ、おかゆの入った保温バッグを抱え直して中へ進む。
間取りは2DK。けれど、お世辞にも『綺麗に整頓されている』とは言えない部屋だった。
ダイニングのテーブルには飲みかけのペットボトルや読みかけの資料が残されていて、椅子には脱ぎっぱなしのジャケットが引っかかっている。
そして壁際で異彩を放っていたのは、イマドキ珍しい大きなデスクトップパソコンと、ゴツい黒のデュアルモニターだった。画面は真っ暗だが、ごちゃごちゃとした配線やキーボードの脇には、私にはタイトルすらまともに読めないような難しい専門書や厚い文庫本がうずたかく積み上げられている。
普段お店で見せる穏やかな姿とは違う、仕事に没頭する男の人らしいリアルな生活感。そのプライベートな空間に足を踏み入れただけで、胸が少しキュッとした。
奥の和室のふすまが、少しだけ開いている。
畳の匂いが漂う和室には、部屋の大部分を占めるように大きなベッドがどんと置かれていて、その上で隆一さんが小さくなって横たわっていた。
「……玲奈、ちゃん……?」
足音に気づいた隆一さんが、重そうなまぶたをゆっくりと開ける。額には冷えピタが貼られていて、頬は熱のせいで真っ赤だ。
「本当に、来ちゃったんだ……ダメだよ、インフルなんだから。うつったらどうするのさ……」
ガラガラの掠れ声で、申し訳なさそうに眉を八の字にする隆一さん。その弱り切った姿を見た瞬間、さっきまでの葛藤や不安はどこかへ吹き飛んでいた。
「うつってもいいです。そんなことより、隆一さんのほうが大事ですから」
そう口にしてから、自分が照れくさいくらいストレートな言葉を言ったことに気づいたけれど、もう撤回はしない。私はベッドの脇にパイプ椅子を引き寄せて腰かけた。
「熱、何度あるんですか?」
「さっき測ったら……38度8分……」
「そんなに……! つらいですね。……でも、よかった」
「え……?」
隆一さんが不思議そうに私を見上げる。
「嫌われて来なくなったわけじゃないって分かって……本当に、安心したんです」
ぽつりと溢れた本音に、隆一さんはハッとしたように目を見開いた。それからどこか切なそうに目を細めると、布団の中から大きな手を少しだけ伸ばしかけ——ハッとしてそれを引っ込めた。
「嫌うわけ……ないだろ。あんな……格好悪い告白しといて、逃げるわけない……」
隆一さんは口元を布団で覆いながら、苦しそうに、でもまっすぐに私を見つめた。
「あのさ……玲奈ちゃん。今日、本当は……ちゃんと返事、聞くつもりだったんだ。返事がどうであれ、玲奈ちゃんを困らせたくなかったから。……でも、こんな姿になっちゃって。……情けないな、俺」
自嘲気味に笑う隆一さんの瞳は、熱でうるんでいながらも真剣だった。
1週間前、「好きだ」と言われてからずっとグルグルと考えていた答え。
今日、来ないかもしれないと不安になって泣きそうだった時間。
隆一さんの声を聞いた瞬間の安止と、「駆けつけたい」と思った真っ直ぐな衝動。
——もう、迷いなんてどこにもなかった。
私はマスクの上から自分の胸に手を当て、逃げずに隆一さんの目を見つめた。
「情けなくなんて、ないです」
「玲奈ちゃん……?」
「私、今日……隆一さんが来なくて、もう二度と会えないかもって思ったら、胸が千切れそうなくらい怖かったんです。それで、自分の気持ちに気づきました」
呼吸を整えて、言葉を一つひとつ紡ぐ。
「私……隆一さんのことが好きです。店主と常連さんとしてじゃなく、ひとりの男性として……隆一さんの側にいたいです」
静かな部屋に、私の声だけが響いた。
隆一さんは固まったように目を見開いていたけれど、やがて顔を真っ赤にして(それは熱のせいだけじゃないと分かった)、片手で目元を覆った。
「……夢じゃ、ないよね……?」
「夢じゃないです。ほら、熱で頭がのぼせてるんじゃないですか?」
照れくささを隠すように少し笑うと、隆一さんは「参ったな……」と弱々しく笑い、心底愛おしそうに私を見た。
「めちゃくちゃ嬉しい……。本当なら、今すぐ起き上がって抱きしめたいよ……」
「ダメです。インフルなんですから、おとなしく寝ててください」
「うん……うつしたくないから、今は我慢する。……元気になったら、ちゃんと抱きしめさせてね」
「……っ、はい。だから今は、早く良くなってください」
心臓がはちきれそうなのを誤魔化すように、私は立ち上がった。
「持ってきたおかゆ、温めてきますね。枕元に置いておくので、自分で食べられそうですか?」
「うん、ありがとう。玲奈ちゃんが作ってくれたものなら、絶対に食べる」
「無理は禁物ですよ。すぐ準備してきますね」
台所へ向かう私の足取りは、ここに来るまでの不安が嘘のように軽かった。
黒くてごついデスクトップパソコンや積み上げられた専門書を横目に、小さなキッチンで鍋におかゆをあける。
「あ〜ん」をしてあげるような甘いシチュエーションにはならなかったけれど、うつさないようにと必死に我慢してくれた隆一さんの優しさが、たまらなく愛おしかった。
(早く元気になってね、隆一さん)
お湯が沸く静かな音を聞きながら、私はマスクの下で、こっそりと幸せな微笑みを浮かべた。




