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「あ、お父さん着いたみたい。花音ちょっと出て」
母より一足先にカーテンの取り付けを終えた花音が、慣れない玄関を開けに出る。
「いや、ごめん、遅くなった。やっぱりシーズンだな。引っ越しトラックがたくさんいたよ」
軽トラから下ろした段ボール箱を抱えた父が入ってきて、入れ替わりに花音が次の箱を取りに出る。
三月末は引っ越し業者はどこも値段が高く、時田家は、大手量販店からまとめて購入した家電を直送してもらい、母と花音は電車で現地入り、そのほかの荷物は父が軽トラックを借りて運ぶことにしたのだった。
花音と二人がかりでベッドの組み立てを終えた父が、肩口で額に滲んだ汗を拭った。
「意外と暑いな」
「最初足元寒いくらいだったのにね」
花音は父にペットボトルのお茶を渡して自分も飲んだ。
「力仕事するとどうしてもね。一旦お昼にしましょ」
母が先程コンビニで調達していた蕎麦を三つ、まだ大して冷えていない冷蔵庫から取り出した。
「冷たいのしか無いなんてと思ったけど、正解だったね…あ、肝心のローテーブルがまだよ」
「もういいよ、ここで食べようよ」
花音は父の横にへたり込んでいた。
結局、床の上に三人で輪になって、蕎麦のパックを広げる。
「引っ越し蕎麦か。それらしくていいね」
三つならんだ蕎麦のパックの一つに手を伸ばした父に、
「あ、違う違う、お父さんのこっちだって」
と花音が交換する。
「え?俺だけ違うの?」
「お父さんのは、がっつり天ぷら蕎麦にしたのよ」
「ふーん。ありがとう。ん、紅生姜はいらないな」
「そんなこと言ってないで、ちゃんと食べちゃって」
いつも通りの父母の掛け合いに、花音は苦笑する。
束の間の休息の後、ひたすら段ボールを開けて収納してを繰り返し、日暮れにようやく引っ越し作業を終えた。
「とにかく、火の元と戸締まりはしっかりな」
「ただ食べるんじゃなくて、バランスよく栄養とってよ」
「大丈夫、分かってるよ。ありがとう。気をつけて帰ってね」
疲れた顔の父と最後まで心配混じりの顔の母を外で送り出し、花音は一人の部屋に戻った。
猫の額のような玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がる。玄関脇の小さなキッチンに置かれた水切りマットに、母が洗った三人分の蕎麦の容器が伏せられているのが目に入って、そっと目を逸らした。
部屋に進むと、柔らかい薄緑色のカーテンに、アイボリーのローテーブル、新しい布団カバー、全て自分で選んだ優しい色合いなのに、自分の部屋には思えない。実家から持ち込んだいつもの顔なじみの小物もたくさんあるのに、みんななぜだか余所余所しい。
しんと静まりかえった部屋に、隣なのか上なのか、他の住人が立てる物音が聞こえてくる。
鼻の奥がツンとして熱くなった。花音は、目を二度ほど瞬きして水分を飛ばすと、イヤホンをして音楽アプリを開く。ちょうど好きなバンドの新生活プレイリストを見つけて、少し大きめの音で再生し始めた。
『引っ越し終わったよ』
そう瑛司にメッセージを送って、少しして返ってきたのは、
『おつかれ!一人暮らしの城はどう?』
『今、祖父母の家だから、またあとで連絡するな』
という返事だった。
そうだった。今日は合格祝いしてもらうって言ってた。
花音は、無意識にため息をついて、動画アプリを開く。短い情報が次々と脳を刺激しては消え、刺激しては消える。
しばらくして、ふと花音は思いつき、マップで瑛司の引っ越し予定先のマンションを表示した。経路を見ると、ここから約一時間程度で行けるとある。
大丈夫、そんなに遠くない。
電車の路線を確認し、自宅から駅までのストリートビュー、そして、降りた駅からマンションまでを画像で一通り追っていく。
花音は、瑛司が作ってくれた二人の専用アプリを開いて、少し躊躇った後、『行きたいところリスト』に瑛司の住む予定のマンションを示すマップを貼り付け、スマホを置いた。
車線が多くて、混んでいる道は移動のタイミングが難しい。運転に神経を集中させていた啓介は、隣りから聞こえてきたぐすんという音に、横目でちらりと妻の夏音を確認した。
「…ティッシュある?」
「大丈夫。危ないから運転に集中して」
夏音は、窓枠に肘をついて外を見たまま答えた。
「…なっちゃん、あれかけてよ」
啓介は、備え付けの簡易なオーディオセットの下に無造作に放り込んだ自分のスマホを顎で指した。
久しぶりに名前で呼ばれたことにぴくりと反応した夏音が、啓介のスマホに手を伸ばす。
「あれね。…久しぶりだね」
夏音は、音楽アプリを開いて啓介のとあるプレイリストを開く。
「今日こそ、それでしょ」
啓介の言葉尻に被さって、パッヘルベルのカノンが流れ始めた。
「なんだか音があんまり」
「レンタルの軽トラなんだから、繋げただけラッキーだよ」
夏音らしい感想に啓介が苦笑する。
カノンが終わると、次のカノンが始まる。色々なアレンジのカノンがまとまったアルバムだった。
「このアレンジいいよな、優しくて」
「私は次の次の、ポップでかわいいアレンジが好き」
「そうだった」
道路のちょっとした凹凸もダイレクトに感じてガタンガタンと大きく揺れる。衝撃音に、大き目にかけた音楽が時折かき消される。
「ふっふふ、揺れすぎ。曲に集中できないんだけど」
「それくらいがいいんだろ」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
花音と瑛司の一年間、楽しんでいただけましたでしょうか?
この物語のどこかが心に残っていたら嬉しいです。
感想などありましたら、ぜひお聞かせください。




