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卒業式が始まった。
みんなとおしゃべりしながら写真を撮っていた間は大丈夫だったのだが、誰とも話さなくなった入場のあたりから、花音の頭と体は完全に二つに分離していた。歩いて入場し、式典に参加しているのは花音の肉体だけで、頭はそわそわと落ち着かない。体育館の時計は、既に発表時刻の九時を回っている。
せめて発表が明日だったら、と思いながら、花音はここにいるのにいないような、ふわふわとした心持のまま、卒業証書授与をやり過ごしてしまった。
しばらくして、近くの誰かが大きく洟をすする音が耳に入ったとき、はっとして、幽体離脱していた魂が体に戻ってきた。校長の式辞の最中だ。
「…AI時代のこの激動の昨今、以前にも増して正解が分からない世の中を、皆さんは歩んでいかなければなりません。その道のりを歩み切る力を、皆さんは本校での探求をはじめとした学びを通して培って……」
校長先生、本当に培えたと思いますか。
校長の言葉に、何席か離れたところに座る瑛司をちらりと見やった。
もうきっと全部地毛の色なのだろう、茶黒で綺麗にセットされた髪が少し目元にかかって、品があるのにどこか色気がある。サボり魔だったことがあるなんて思えない、すっと伸びた背筋。
私たち、これからどうなっていくんだろう。世の中は、これからどうなっていくんだろう。
答えの出ない問いが頭の中に薄雲のように浮かんで、流れて消えた。
式が終わると、退場して最後に教室に戻る。体育館を出たところから、少しずつおしゃべりが始まって、さざ波のようにざわめきが広がっていく。
そのとき、花音のポケットに入っているスマホが振動した。
時田家グループに通知が入っている。父からだった。
『花音、合格!おめでとう!』
その言葉と一緒に、父がアクセスした合格画面のスクリーンショットが送られてきた。
両親は、我慢できなかったらしい。
続いて母から、キャラクターが紙吹雪を撒くスタンプが送られてきた。
「…帰ってから見るって言ってたのに…」
花音は小さく呟きながら、目頭が熱くなるのを感じた。それと同時に、体中の力が一気に抜けて、たたらを踏む。
教室が見えた頃、どんどん崩れて列とも言えなくなった列から離れ、廊下の壁にもたれて返事を打った。
『お父さん、お母さん、ありがとう』
即座に、父からデフォルトの喜びスタンプ、母からはうるうるした瞳の犬のスタンプが送られてくる。親の反応速度に笑ってしまった。
その花音の肩に、トンと誰かが肩を寄せてくる。
そんなのはもちろん瑛司だった。
花音は瑛司を見上げ、
「受かってたって」
と小声で言うと、瑛司が目を大きく開いて、口を無言でパクっと動かして、言い止める。
まだ、合否が分からない周りへの配慮だろう。
それが分かったので、花音がにっこりと笑みだけ作ると、瑛司が涙目になっていた。
「え…?な、なんで瑛司くんが…」
人の合格発表で泣くなんて想定外過ぎて、花音の頭は処理落ちする。自分の目頭まで来ていた涙はその衝撃で引っ込んだ。
すると、瑛司の頭が花音の肩にゴツンと降ってくる。
通り過ぎる幾人かの目を感じて、花音の顔は一気に朱に染まった。
でもさすがにこれは不可抗力だ。誰だって赤面するだろう。公衆の面前で何をしてくれるのか。
「ちょ、ちょっと…」
花音が困惑した声を出して押しやると、瑛司は、花音の耳元で「ホントによかった。おめでとう」と囁いて頭を上げた。それから、潤んだままの目で花音を見て、温かくて大きな手のひらでそっとその背中を押す。
「ごめん、行こう、教室」
瑛司の涙目に驚きが冷めやらない花音を、押すようにして瑛司が後ろにつく。花音の頭の後ろで、洟をすする音が聞こえた。
教室での最後の時間、冴えない担任と言われてきた畑中先生が、いつも通りのボソボソとした声でしゃべり始めた。ひょろりとした体躯に、いつもどこか汚れた眼鏡をかけていて、いつもどこか独自の世界にいる、世界史担当の教師だ。
おしゃべりをしている生徒もいて、少し聞き取りづらい。
「…私は歴史科の教員ですから、これからを生きる皆さんに、最後に歴史の観点から話を一つ…。歴史上、人間は新しい発明がもたらした変化を止められたことはありません。人は、一度吸ってしまった蜜の味を、忘れられないのかもしれません。一人ひとり、という視点では、違うかもしれませんが。例えば、田舎で自給自足の暮らしに回帰される方もいますしね」
盛り上げるのがうまい隣のクラスの担任が、拍手を受けている音が聞こえて、意識が一瞬そちらに取られる。
「…さて、今起きている、これから起きる変化は、どうなるのでしょうか。止めるべきという声もあがっているようですが、皆さんも既に随分と恩恵も受けていることでしょう。
長い歴史のうち、人間が、人生を計画的に、これをやれば必ずあれになれる、というのが見えていた時代の方が本当は少ないんじゃないでしょうかね。かくいう私ですが、自分があなた方の年頃には、今ここにいることなんて想像だにしませんでした。
そういうことが、人生には起こります。私の時代はあなた方の生きる今よりもっと想像しやすかった時代だったのに、そういうことが起きたのです。ここから先の時代は、もっとそうでしょう。大変ですよね。
もしも、何か大きな渦に飲まれたら、転んだり、倒れるかもしれません。そうしたら、自分を守って休みましょう。ただ、休んだら再び歩くのです。杖をついても、誰かにおぶさっても、どんな形でもいい。みなさんの人生は続くのです。ご卒業おめでとう」
餞の言葉として、分かりやすい感動の言葉を選ばないし、はっきり何についてとも言わない担任の言葉は、実に「彼らしい」ものだった。
中には最後まで担任を軽く見ている者もいて、一体このまとまらない餞の言葉は、この中の幾人の心に届いたのだろうか。
それでも、今の花音の琴線にそっと届いた。




