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「あのさ」
抱きしめ合って、顔の見えないまま、瑛司がボソっも話し始めた。
「手放すとかは無理で…そうじゃなくて、実は…ちょっと魔が差しかけた」
「…差しかけた?」
魔が差したのではなくて差しかけたという言い方に引っかかってオウム返しする。
「落ちてちょっと自暴自棄と言うか…」
「…それで、相応しくないとか言って離れようとしたんじゃなくて?」
「いや、その逆というか」
「逆?」
「俺、自暴自棄、親、不在、花音家来る」
片言で単語を並べた瑛司に、ああ、と花音は理解した。完全に頭から抜けていた。
「よし、一旦離れましょうか」
さっきまでの切迫感が一瞬で霧散する。
わざと丁寧語にして、抱きしめていた手を緩めて離れようとした花音を、
「差しかけただけ。差してない」
と言って、瑛司が花音のウエストのあたりを掴み直して抱き留める。
「ぅひゃ!」
くすぐったい。脇腹はやめてほしい。
「暁斗たちはヤってるんだよなーとか」
ペシペシと瑛司の手を払うように軽く叩く。
「あれ、なんで俺我慢してるんだっけなーとか」
手は離れるどころかじわりと上がってくる。
「だからくすぐった…わわ、ちょ、ちょっと待って!」
瑛司の指が胸の下あたりで止まったかと思うと、瑛司の額がガクンと花音の肩に乗しかかり、瑛司はそこで長くて大きなため息を吐いた。
「欲しい。もう全部食べたい」
「さ、差してる差してる!魔が差してる!」
「まだ差してない」
「私のライフがもうゼロです!」
そんな心の準備は出来てないよ!
「分かってる。絶対今じゃないって」
「お、お分かりなら何よりです?」
花音は焦りで顔が熱くなり、変な汗が滲みそうだ。
「花音の初めては、卒業してから、花音がいいと思ったとき。それまで絶対なし崩しみたいにしない。大切にする。優しくするって、前決めた」
「う、うんうん、ありがとう。彼氏の鑑だねっ」
そう言いながら、花音はペシペシと軽く手をはたいて離れるように合図する。
「…受かるしかない。花音と離れたら心配」
花音を捕まえて、その肩に頭を預けたまま、突然瑛司が改めて決意を固める。
「…今、話どういう展開?」
「今日、絶対に花音は心配して来てくれただろ?」
「そりゃそうだよ。さっき言ったじゃん。お見舞いの気分だったよ」
「俺に魔が差しかけたの気づかなかっただろ?」
「そんな余裕なかったよ!本当に心配したんだからね!」
「うれしいけど、だから心配。誰かに本気で罠にかけられたら騙されそうで」
「何それ。怖いこと言うのやめてよ…」
「花音より俺の方が怯えてると思う」
「え」
瑛司はようやく頭を上げて、花音と目を合わせた。
「とにかく、花音も俺も第一志望に受かる」
「う、うん」
「絶対だ」
「うん」
「そうすれば、会いやすい距離だから大丈夫」
「ちゃんと周りに彼氏いますって言って、隙を見せないように」
「突然の指導…」
「誰かが具合悪いとか言ってても、何があっても一人暮らしの男の部屋には行かないこと」
「そんなの分かってるよ!そもそもそんな展開にならないし」
「今こうしてここにいるのに?」
「だって、瑛司くんは特別でしょ」
花音のセリフに、瑛司はまた頭をがくりと落とした。
「…気づかないうちに罠の中にいるうさぎを、捕まえずに逃がしてやるような気分」
「…うさぎって。…無闇な殺生は良くないからね…。正しい判断だよ」
花音はそう言って、そっと離れる。花音の肋骨の下辺りを掴んでいた手が名残惜しそうに離れた。
「ね、せっかくお菓子とか買ってきたんだから、食べない?」
花音は、そう言って、袋からガサゴソと次々にローテーブルに取り出す。
「ほら、なんかもう『きっと勝つ!』『合格!』みたいな受験に便乗した商品が色々と出てて…」
「…すごいな…商魂逞しい」
「それに乗っちゃう私も私だけどね。もう、願掛け、おまじない、非科学的でもなんでも、できることは全部やりたい気分。うちの親もやたらと踊らされて買ってきてくれるの」
花音は、家のお菓子置き場にある、やたらと合格祈願しまくるパッケージたちを思い出して苦笑した。
「そういえば、うちも母親がなんか買ってきてあったかも」
「どこの家も同じかな。あ、あとね、このチョコ」
そう言って、花音がシンプルなホワイトチョコレートの包装箱を開け始める。
「あ、知ってる。昔からあるよな」
「私、最近なんかこの味がいいんだよね。勉強中の糖分補給にちょうどよくて、今ハマってる」
「へえ」
内袋を開けて一つ取り出すと、花音は一瞬だけ迷って、
「はい、えーっと、あーん?」
と言って瑛司の口に放り込んだ。
「あー、うん、糖分が脳に染み渡る」
瑛司はそう言いながら、屈託のない笑顔を向ける。ようやくちゃんとした笑顔が見られてホッとしたものの、笑顔の分、目の下の隈のような影が際立って見えた。
それを目に留めた花音は、少し切ない気持ちになって笑い返し、
「私も食べよ」
と、同じホワイトチョコレートを一粒口に放り込みながら視線を外した。
口の中に甘さが広がり、ほっぺたのあたりがじわりとして、少しだけホッとする。
「一時間勉強したら、これを一粒ご褒美に」
「なるほど。俺もやろうかな」
瑛司から視線を外したまま、花音は先程の瑛司の話を引っ張ってくる。
「さっきのうさぎね」
「うん?」
「きっと逃げたりしないでずっと瑛司くんのところにいるから、心配しなくていいよ」
瑛司を安心させたくて、そう言った。
「……そのうさぎは魅力的だし、素直で危なっかしくてさ。他の奴に見つかって攫われないか、心配なんだ」
「……ただのうさぎだし、もう瑛司くんに懐いて離れられないんじゃない」
「それでも、外に出すなら、野うさぎじゃなくて俺のうさぎですって分かるように首輪をつけておかないと」
「……何の話?」
話の向かう方向が少しずつずれていく。瑛司の言葉が向かうその方向性にどきりとする。
「うさぎの話だろ?」
念押しに圧を感じる。瑛司はこのままうさぎの話で続けるつもりらしい。
「う、うん…」
「せっかく捕まえられたから、本当は外に出したくないけど、そのうさぎは世界を知るのが大好きなんだ。しかも最近勇気を出して穴倉から出てきたばかりで、今この世界を味わい始めてるところ」
「…それは、ぜひとも自由に世界を見せてあげてほしいかな」
「そうなんだよ。でも、安全のためにもやっぱり首輪くらいはつけておいた方がいいんじゃないかな」
「…首輪をつければ安心できるの?」
花音がそう問うと、
「……俺自身の問題もあると思う。めちゃくちゃ執着してるのは、自覚してるから」
瑛司は、少し気まずそうに答えながらも、その目がギラりとした気がした。
「……闇だね、闇が見える」
花音は、この危なっかしい空気を打破するように、わざと嗄れた声を出して、例の占い師ポーズをとった。
「…花音…何それ」




