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「あ…、お手洗いの場所教えて貰える?」
そう言って椅子を引いた花音に、
「出て左の奥だけど……待って、新しいタオル出すから行くわ」
と、瑛司も一緒に席を立つ。
「そっちがトイレな。中でも手洗えるけど、こっちに広い洗面台と鏡あるから、よかったら使って」
と、花音の背中をそっと押して、洗面スペースに案内する。
大きい鏡のついた広めの空間で、花音の家では朝押し合い圧し合いなので、単純にうらやましい。そしてなんだか清潔感のあるいい香りがする。
瑛司は後ろ手にドアを閉めると、
「で、タオル、えーっと、これでいいかな」
と言って、引き出しからタオルを出して花音に手渡し、お礼を言う花音の唇に少し身をかがめるようにして軽くキスを落とす。
「ちょっとだけ」
そう言って瑛司が微笑んだので、花音は返事の代わりに自分から瑛司の胸に飛び込んだ。
「あれ、積極的?」
少し驚きながら嬉しそうにする瑛司に、顔を埋めたまま、
「ちょっとだけね」
と返す。
いつも瑛司が先を行くというだけで、花音だって、そういう気持ちにならないこともないのだ。
「じゃ、もう一回?」
瑛司が、鏡の方に向かって話す。
声の向きにつられてそちらを向くと、鏡の中の瑛司と目が合った。
「あ、ねえ待って。ちょっと並んでみて」
もう一度口づけしようとした瑛司を制して引き剥がし、洗面台の大きな鏡に向かって横並びになる。
「へー、なんかこうやって見るとちょっと新鮮!瑛司くん、身長何センチ?」
「一番最近測ったので、百七十八ちょいかな。花音は?」
「私は百六十二とか三とか?」
「ちょうどいいな」
鏡越しに目を合わせてそう微笑む瑛司に、
「瑛司くんは何センチ差であってもそうやってうまいこと言いそうだけど」
と、また鏡越しに返す。
「いやだってほら」
瑛司はそう言って、花音と向かい合わせになると、花音の顎にそっと指をかけて上を向かせ、
「こういうのするには、これくらいがちょうど良い」
と、花音を見つめる。
「これ、好きじゃない?」
「な…な…なんでっ」
初めての触れ方をされているはずなのに、される前から好きだとバレているのが、心底恥ずかしい。
赤くなった顔のまま、焦って目だけを逸らすと、逆にそんな自分たちの姿がしっかり鏡に映っているのが見えてしまう。この上ない羞恥心が沸き上がって、一層顔が熱くなる。慌てて逆方向に目をやると、
「あ、分かった」
と、瑛司が言い、
「見て、花音」
指先でそっと花音の顎を鏡に向けて見せようとするので、花音はとっさに力いっぱい目を閉じて瑛司の体をぐっと押しやった。
「んなっ!やだよ!恥ずかしい!」
何をするんだ、この男は!
心臓が暴れて胸が破れそうだ。
「え?だめ?俺が最高に好きな花音の顔教えようと思ったのに」
瑛司はちょっと残念そうに言って、降参のように両手を上げると、
「変態が過ぎるよっ!」
と責める花音の言葉をさらりと流して抱きしめ直し、花音の頭に顎を乗せて、ニコニコしながら続ける。
「やっぱ花音が心配する赤面症とは違うよなー、これ。さっき暁斗に見せたのとコレは別物。花音が人前で注目されたりして赤くなるのは、ほんのりだし、そもそも、前より格段に回数も減ってるし、全然当たり前の範囲だろ?そのうちそこまで気にしないで済むようになって、気づいたら大丈夫になってるんじゃないかな」
「あ、え、ほんと?」
話の流れとは違うところからの思いもよらないコメントに、花音は頭の上の瑛司の顎を押しのけるようにして見上げた。
「さっき暁斗とだって、普通に話せてたし」
「それは、瑛司くんと一花がいたおかげで…」
「ごくごく自然に友達同士の会話が出来てたよ」
「あ、ありがとうございマス?」
「暁斗たちに見せたあの赤面は、ごくごく普通の誰でもなるヤツで、俺とのときに出るのとは違うしな」
瑛司は、機嫌良く、そして刷り込むようにそう言い直した。
「そう?」
「そう。ああ、花音ちょっと落ち着いてきちゃったな」
瑛司は名残惜しそうに花音の頬をついと親指でなぞると、
「前も言ったかもだけど、さっきみたいな、俺に反応して、上気して、目が潤んでる花音はさ、めちゃくちゃ色気があるっていうか。俺だけのものにしたいって思わせられるっていうか。とにかく、ただの赤面より、何万倍も俺のこと煽ってくるんだよな」
瑛司は、まるでやれやれ、とでも言うような口ぶりでそう言った。
「煽ってないし!言語化しないで!」
「いや、だって花音がせっかく鏡あるのに見てくれないから、言葉で説明してるだけ」
「私が悪いみたいに言う不条理!」
そこで瑛司はふっと表情を一層緩ませて、柔らかい唇で花音の前髪に触れた。
「そろそろ行かないと暁斗にいじられるな。背比べしてたって言っとくよ、それでもいじられそうだけど」
と、洗面スペースのある部屋を出て行った。
恥ずかしさと嬉しさと困惑と驚きの感情がごちゃごちゃに混じった状態で残された花音は、行き場のない気持ちを抱えてその場にしゃがみこんでしまった。
「ううぅ…」
やっぱりどうしても、どこか瑛司が一枚も二枚も上手で、翻弄されるのはいつも花音なのだ。
「童貞って嘘な気がしてきた……」
初心者であるならば、花音ほどではなくとも、多少不慣れ感が出てしまうものではないのか。それとも、それほどまでに育った環境の違いが大きいのだろうかと、先程の瑛司の父母のやり取りを思い出す。
「わ、わからない……」
心臓と表情が落ち着くまでに、もう少し時間が必要だった。




