21
「も、桃?」
花音が使っているのは、無香料か石鹸の香りの汗拭きシートくらいだし、桃の香りのものは使っていない。
不思議に思いながらも、上半身を半分ひねって片手で瑛司の胸を押し、距離を取ろうとする。
「そう。一番近いのが桃かな。汗かくと、甘さがちょっと濃くなって、ぐっとくる」
「全然自分じゃ分かんない。ホント?く、臭くない?」
花音は、瑛司を押さえている方とは反対の手で、パタパタ顔を仰ぎながら、赤い顔で瑛司をじとりと見る。
「だから臭くないって。例えば、俺は俺の姉ちゃんのにおいは、なんかダメなんだよ。姉ちゃんも俺のにおいはダメ。だからさ、姉弟は遺伝子的に惹かれ合わないようになってんじゃないかなーと思ってるんだけど」
花音のお腹に回した手は離さないまま、瑛司が言った。
花音に兄弟はいないが、確かにここのところ、父にはにおいが分かるほどの距離に近づきたくない。
「へー、遺伝子的に…」
「お、知りたがりの花音さん、興味出てきた?」
「それは本当だったら面白いね。帰ったら調べてみる」
「それはそうと、そろそろ、その体勢キツくない?」
「手を離してくれれば大丈夫なんだけど」
そう言うと、ようやく瑛司は手を離して、
「花音、俺のにおい試してみる?」
と首を差し出すように傾ける。
「へ……さ、さすが変態は言うことが違うね…斜め上から来る…」
すかさず距離を取って、パタパタと両手で顔を扇ぎながら、若干引き気味で花音は返した。
「いやいや、花音の知的好奇心をそのままにしておくのもさ」
「知的好奇心…?」
花音は首をかしげる。
「そうそう、知的好奇心。仮説が立ったんだから、検証が必要だろ?」
「…瑛司くんは汗かいてないの?」
「若干、汗ばんできたかも。でも一応、さっき汗拭きシートで拭いたし、Tシャツも着替えたけど」
「…汗ばんできた自分を差し出そうなんて、なかなか度胸あるね…」
「ほら早く。もっと汗かく前に」
瑛司は両手を広げて、おいでとポーズをとる。
「あれ、私、瑛司くんのことホントに好きなんだっけ?」
花音は冗談混じりに、眉を寄せてもう一段深く首をかしげる。
「だから、嗅覚でも確かめてみればいいだろ」
「でた、超理論」
「久々だろ」
「性急さを反省したんじゃなかったっけ」
「これは、花音の知的好奇心の探求だから」
花音は、思わず小さく吹き出した。
このくだらない、しょうもないかけ合いも、困ったことに嫌いじゃないのだ。少し前に、変なことを言って嫌われるのではと恐れたあの時を思うと、こんなやり取りができていることにひどくホッとする。
「探求って。…仕方ないね。このおかしなことを言う人が、私が好きになっちゃった瑛司くんだった」
膝立ちでまた少し近づいた花音を、瑛司の手が迎えに来る。
「…思ったよりちゃんと俺に毒されてきてる気がするな」
「主謀者に言われても…」
花音は少しずつ近づき、思い切って自分の意志で瑛司に手を回した。
「あれ…瑛司くんが小さい」
「うん、…花音が膝立ちのまま来たからな」
「初めて瑛司くんを上から見たかも」
「…どんな感じ?」
そう言いながら、瑛司が花音を見上げる。
「なんか…不思議な感じ?」
「…こんだけ近かったら感じるだろ、におい」
「うーん、なんか、カラー剤?のにおいかなあ」
「あ、そうか、忘れてた」
さすがに直に頭を嗅ぐのは求められてもいないし、する気もないが、昨日染めたばかりのせいか、少し近づいただけでも微かに薬品的なにおいを感じる。
でもたぶん、瑛司が目指した体勢はこういうことじゃなかったはずだ。
「てか、この体勢、なんか違うね?初心者すぎてごめん…」
「これはまあこれでいいけど」
瑛司はそう言いながら、体勢を変えて膝をつくと、真正面から花音を抱きしめた。
「これでどう」
少しだけ瑛司がかがむようにすると、花音の鼻の位置が瑛司の首元にくる。
「……なんか、男の人のにおいって感じ」
「生理的に大丈夫そ?」
「…なんか、比較対象がお父さんしかいなくて非常に残念なんだけど、結構好きなにおいなのかもデス」
語尾に近づくにつれごにょごにょとなる花音に、瑛司が、「よかった」と笑う。そして、
「な、本能的に必要としてるからだと思わない?」
と言う。
「…帰ったらエビデンスを調べてみます…」
本能的に、という言葉になんだか恥ずかしさが増してしまったので濁して答え、
「でもにおい確認するために抱き合うって、私たちやっぱり変かも」
と話を逸らして離れようと身じろぎする。
「じゃあ何のためなら変じゃない?」
抱きしめたまま瑛司が答える。
「何のため…?」
暑さのせいなのか、ドキドキのせいなのか、瑛司のにおいに当てられたせいなのか、頭が少しぼんやりしている気がする。
「例えば、愛情を確かめたり、キスするためなら普通?」
「それはまあ」
すると、瑛司が少しだけ上半身を離し、花音と目を合わせると、請うような表情をする。
「花音、いい?」
その言葉に、胸がギュッとなる。
性急なのに、強引なのに、こうやって花音の気持ちを確認してくれて、心が翻弄される。
花音のYESを確認すると、
「好きだよ」
と言って、瑛司は軽く触れるキスをした。
まだまだ慣れない人生三度目のキスに、花音の心臓が早鐘を打つ。
顔が熱い。部屋が暑い。
もう、なんだかよく分からないが、とにかくあつい。
花音は、瑛司の胸元に手を預けたまま、瑛司を見上げるようなかっこうで、ぼうっと熱に浮かされていた。
「…ヤバいかも」
離れたばかりの花音の下唇を、瑛司が親指で優しくなぞるように触れる。
そっと触れられているだけなのに、全ての動きを封じられたような気分になる。
「もう少しだけ、いい?」
もう一回のキスを請う言葉に、こくんと頷く。
瑛司は、なぞっていた親指で少しだけ花音の下唇を下に押し下げ、その瞬間に、優しく深いキスを重ねてきた。
どうやって息をしたらいいのか分からない。頭がキャパオーバーでうまくいかない。文字通り溺れたようになった花音は、そのまま、くたりと瑛司の腕の中に崩れた。
「わっ!花音!」
「あ、あつい〜」




