7-07. 喋る犬
「誤解です……」
とりあえず訂正だけはしておいて、グレーテルは目だけでアレの行方を追った。
大司教とアウレリアが目の前にいようと関係ない。アレが再び現れ、再度グレーテルの身体に触れようものなら、間違いなく叫ぶ自信があった。
(あぁ……まだ、いる……)
茂みの近くにアレはいる。触覚をゆらゆらと揺らしながら、まるで獲物を窺うように止まっている。
その横で、地面に伏していたディートリヒが、深いため息とともに立ち上がる。そして、周囲を一瞥し――足を振り上げ、アレを容赦なく踏みつけた。
ミシッ。
小さく潰れる音がする。
(う、うわぁ……)
グレーテルは畏怖と尊敬の入り混じった目でディートリヒを見上げた。自分には絶対できない所業だ。
「お怪我はありませんか?」
尋ねられて、グレーテルはハッとした。
「ご、ごめんなさい! ディートリヒさんこそ、大丈夫ですか? 私、思いっきり殴りましたよね……?」
「問題ありません」
ディートリヒの少し赤くなった鼻先から、たらりと赤い筋が流れる。
「……大丈夫じゃないですね」
「問題ありません」
ディートリヒはぐいと袖口で鼻血を拭うと、大司教とアウレリアに向き直る。その奥では、三人の神官が怯えたように身を寄せ合っていた。
「さて。大司教様」
ディートリヒの声が低く響いた。
「奥にいる神官たちが守っている荷物――中身を改めさせて頂けますか?」
大司教は憤然とした様子で首を横に振る。
「一介の護衛騎士ごときが、私に指図をするのか?」
「王家の墓への冒涜行為と思われる事案ですが」
静かに言い返したディートリヒの声に、背後の神官三人の肩がびくりと跳ねた。そこに、ふふっと軽い笑い声が降ってくる。グレーテルは声の主である、アウレリアを見つめた。
「厄介者の王子様の護衛騎士でしょ、あなた。悪いことは言わないわ。見なかったことにしなさいな」
「取引をするのであれば、相応の誠意を見せて頂きたい」
ディートリヒが一歩も引かずに言い返す。その言葉に、大司教が激昂し、声を荒げた。
「貴様! アウレリア様に誠意などと……っ!」
「落ち着きなさい」
艶やかな声でアウレリアが制する。はぁ、と吐き出されたため息には、どこか甘い香りさえ混ざっているようだった。
「私ね、女神なの」
言いながら、アウレリアは懐から護身用のナイフを取り出す。赤や青の宝石をあしらった指輪をはめた五本の指が柄に触れ、カチャカチャと小気味よい音を立てた。
「奇跡を見せてあげるわ」
アウレリアがゆっくりと鞘からナイフを抜く。
そして、ためらいもなく――自分の左腕を切りつけた。
「そんな……っ!」
予想外の自傷行為にグレーテルが思わず声を上げる。ディートリヒも正気を疑うように、目を見開いた。
だが、大司教と神官たちだけは、落ち着いた態度でアウレリアの奇行を見守っている。
ぽたり、と赤い血が腕を伝って地面に落ちる。けれどもその直後、傷口はみるみるうちに塞がっていき、跡形もなく消えた。
「怪我が……治ってる……」
唖然として、グレーテルは呟く。その反応を楽しむように、アウレリアはゆっくりと微笑んだ。
「ふふ。驚いた? これが――女神の力よ」
◆
メフィストとファウストは、誰もいない王家の墓の扉の前で歩みを止めた。
「何かあったんだ」
ファウストは扉に走り寄って、躊躇いなく開け放つ。棺が並んでいるだけで、中には誰もいなかった。
「メフィスト、グレーテルはどこに?」
「お前の護衛騎士の心配をしてあげなよ」
「ディートはアレでも強いから」
メフィストが、指をパチンと鳴らす。一瞬でその姿は小さな黒いトイプードルへと変わった。
「はぁ……何度見ても思うけど……なんでそんな無害そうな犬に変身できるのか……」
ファウストが眉をひそめる。メフィストは小さな濡れた鼻をふん、と鳴らした。
「暴力を働くリスや、怒鳴り散らすヘビと比べたら、実際、無害だよ」
「犬のまま喋らないで。違和感がすごい」
メフィストはグレーテルの痕跡を探る。人間の姿よりも、犬の姿の方が耳や鼻が利くのだ。
居場所はすぐに分かった。
「こっち」
メフィストはそのまま駆け出す。ファウストは慌てて、その後を追った。
「ちょっと……案内する気ある?」
「ないよ」
人間が追いつくには無理がある早さで、メフィストは進んでいく。目的地はそう遠くはなかった。
辿り着いた先では、ディートリヒとグレーテルが教会の人間と対峙していた。
グレーテルの姿が認知されていることにメフィストは気づく。次いで、鼻につく嫌な匂いが漂ってきた。目線を向ければ、そこには潰れたアレがいる。
(……あぁ、叫んじゃったのかな)
内心で苦笑しつつ、グレーテルが踏み潰せるはずがないことに思い至る。おそらく、やったのはディートリヒだ。守ってもらったのだろうか?
(あんまり、いい気分じゃないね)
走る速度を緩め、呆然としているグレーテルに近づいた。
「大丈夫?」
声をかければ、グレーテルは我に返って喜びの声を上げた。
「メフィスト!」
そして、そのまま抱き上げる。
「来てくれてよかった……! 今、アウレリア様が……」
「アウレリア?」
メフィストはグレーテルの視線の先にいる、教会側の女性を見つめる。けれども、その魂はどこからどう見ても人間のものだ。
「はぁ……追いついた。どういう状況?」
肩で息をしながら、ファウストが問いかける。メフィストはグレーテルに抱っこされたまま、正直に答えた。
「人間がアウレリアを騙ってる」
「女神様の偽物?」
「で、でも、今、傷がすぐに治って……」
「あの……ファウスト様」
常時であれば、ディートリヒは決して主人の会話中に口を挟まない。けれども、この時ばかりは、たまらず声を上げた。
ファウストが、首を傾げる。
「なに? ディート」
「どうして犬が喋ってるんですか?」
沈黙が落ちる。
全員の視線がグレーテルの腕の中にいるメフィストへと向いた。神官はもちろん、大司教やアウレリアも例外ではない。
至極もっともな疑問だった。




