7-06. めちゃくちゃ苦手なアレ
台車を押して扉をくぐっていく神官たちに続き、グレーテルもそっと歩みを進めた。メフィストの魔法は確かに効いているらしく、神官たちはグレーテルに気づく素振りも見せない。
扉の前に立つディートリヒに軽く一礼して、神官たちが去っていくのを見送る。背中が小さくなると、グレーテルはディートリヒの隣に寄り、小声で急ぎ足に報告した。
「神官様たちは、棺の中にいた女の子を台車に移して連れて行きました」
ディートリヒの目は油断なく神官たちの背を追いながらも、どこか緊張が解けたように肩の力を抜いた。
「まさか、一緒に中へ入るとは……肝が冷えました」
そして、感謝の意を示すように頷く。
「ありがとうございます、グレーテル様」
その「様」付けが、やはり気になる。場違いな質問だと思いつつも、グレーテルは我慢できずに口を開いた。
「あの……なんで、様付けなんですか?」
ディートリヒは淡々と、しかし真摯な口調で答えた。
「ファウスト様の伴侶となる方ですから」
グレーテルは意味を飲み込めずに、ぴたりと固まる。
「は、伴侶……?」
「えぇ。前世では、あの悪魔のせいで、ご結婚まで至らなかったと聞き及んでおります」
グレーテル自身には、ファウストと結婚する気など全くない。とはいえ、ディートリヒにそれを言い切ってしまうのも気が引けた。戸惑うグレーテルをよそに、ディートリヒは続ける。
「ファウスト様は、貴方様のことをずっと案じ、幼少の頃から探し続けておられました。仮面舞踏会で御身を危険に晒すと分かっていても、民草を集めたのは、一重に貴方様と再び出会うためです。これまでも、いろいろと手を尽くしてきて、この度、やっと成功したのです。あの方の苦労を、わたくしはずっと間近で見てきました。……幸せになって欲しいのです」
グレーテルは返答に詰まる。けれども、ディートリヒは最初から答えは期待していなかったように、言いたいことだけ言い切ると、左手でついてくるように示した。
「尾行しましょう」
「え、でも、ディートリヒさんは……」
「わたくしは、魔法が無くても問題ありません。こういった訓練も受けています」
そう言って、ディートリヒは音もなく動き出す。グレーテルも、ためらいながらその背を追った。
(前世、ってかなり突拍子もない話だと思うんだけど……)
グレーテル自身も、マルガレーテの記憶のことがなければ、与太話として片付けていただろう。
騎士服をきっちりと着こなしたディートリヒの背を、グレーテルはじっと見つめる。
(ディートリヒさんは、ファウストのことを信じてるんだ)
こんなにも強い信頼を寄せられるファウストという人物は、一体どんな人なのだろう。今まで近づくと気分が悪くなるせいで、きちんとその人となりについて考えたことがなかった。けれど、先ほどの言動からは、理知的で冷静な人物像が見えてくる。
(なんとなく……苦手意識を持ってたけど、ちょっと失礼だったかも)
前世の恋人であることは間違いない。自分の魂が、それを訴えかけている。
メフィストを攻撃したことについては、一言もの申したい気持ちもあるが、二人のやり取りを見ていると、親しげにも見える。そこには確かに、グレーテルの知らない時間に積み重ねられた、メフィストとファウストの関係があるように感じた。
(もう少し、公平な気持ちでファウストと接するべきかもしれない)
先導していたディートリヒが歩みを止め、グレーテルを手で制す。そして、身をかがめると、植栽の低木の陰へと潜り込んで行く。
グレーテルはその様子を見て、自分はどうするべきかと悩む。メフィストの魔法があるから、身を潜めずとも問題はないはずだ。
何より、茂みの中に入るのは、気が引けた。アレがいる。絶対に、苦手なアレがいるはずだ。
その時、神官の一人が声を上げた。
「大司教様!」
ガラガラと台車を押して、中庭を横切る三人を、緋色の法衣を纏った恰幅のいい男性が出迎えた。
「おぉ……天使候補は無事に運び出せたのか?」
「はい。ファウスト様は、ちょうど、別のまじないの確認に行っておられるようです」
大司教はふん、と鼻を鳴らす。
「……まぁいい。さぁ、候補者を馬車に移そう。もう少ししたら、アウレリア様も――」
「もう来てるわ」
艶やかな声に振り返ると、黄金の髪と緑の瞳を持つ女性が立っていた。輝かんばかりの美貌に、グレーテルはくらりとする。
「アウレリア様」
大司教が頭を垂れる。女神の視線がグレーテルに向き、胸の奥がざわついた。見透かされている気がする。
魔法を掛けて貰ったとはいえ、もし、万が一、あの女性が本当に女神であれば、見破られてしまいそうな予感がした。
ゆっくりと膝を折ってしゃがむと、そっとディートリヒの隠れる茂みに身を寄せる。ディートリヒはちらりと視線を投げてきたが、言葉はなかった。二人は息をひそめ、耳を澄ませる。
「今回こそ立派な天使になれるといいのだけれど……」
憂うような声音は、心の底から人間が天使になれると信じているようだった。
「何百年と思うようにならず、成果を焦るお気持ちは分かりますが、教会としては協力を惜しみません」
「あら、ありがとう。でも……未だに魔法を使えるようになった子はいないのよね」
(何百年……? 魔法を……使う?)
グレーテルは引っかかりを覚える。連れ去った人々が、魔法を使えるように何かしているのだろうか?
つい昨日、魔法を使ったグレーテル自身にも何か関係があるかもしれない。そう思って、自然と地面に手をつき、身を乗り出した時だった。
――カサッ。
何かがサッと右手を這う。
とても嫌な予感がした。絶対に見ない方が良い。けれども、反射的に視線が吸い寄せられた。
茶色い、アレが手の上を這っている。まるで、挨拶でもするように、ゆらゆらと長い触覚が揺れていた。
最悪だ。よりにもよって、アレの中でも一番遭遇したくない、めちゃくちゃ苦手なアレがいる。
「きゃぁぁぁぁ!」
思わず振り払った手が、ディートリヒの顔面を殴打する。
「ぶぇっ……!」
負の連鎖は止まらない。たまらず、二人は茂みから飛び出した。
そこに、大司教とアウレリアの冷ややかな視線が降り注ぐ。
「……護衛騎士が、主人から侍女を寝取ったのか?」
「あらやだ、不潔」




