8-04. 記憶――決闘①
私は、ぼーっと窓の外を眺めていた。もしかしたら、今この瞬間にも、猫ちゃんが遊びに来てくれるかもしれない、と期待して。
(でも、猫ちゃんは――消えちゃった)
見間違いであって欲しかった。けれど、目の前から、消えた瞬間を今でも鮮明に思い出せる。
宙に舞い散る、たくさんの羽根。まるで、魔物が絶命する時と同じように、その後には何も残らなかった。最初から、猫ちゃんなど、存在しなかったかのように。
『ぼくの力をあげる。グレーテルが愛した人たちを、守れる力を。その魂に刻んであげる』
最期の言葉の意味を、何度も考えた。けれど、私は未だにその意味を理解できていない。
「ただいま!」
バタン、と大きな物音がして、私は驚いて跳ね上がる。振り返れば、そこには数ヶ月ぶりに会う兄さん――ヴァランタンの姿があった。
「兄さん?! おかえりなさい! 帰ってくる前に、手紙をくれれば良かったのに! 母さんは、今、教会に行ってるわ」
「送ったはずなんだけどな? 届かなかったか!」
私は駆け寄って、兄さんを抱きしめた。兄さんも、しっかりと抱きしめ返してくれる。
騎士として働いている兄さんは、国境や砦に何ヶ月も出征することが多い。母さんも、帰ってくることを知っていれば、ご馳走を用意して待っていただろうに。
「それより、マルガレーテ。――ファウスト、という名に聞き覚えはあるか?」
出征から帰ってきたばかりの兄さんが、どうして、その名前を知っているのだろうか? 不意を突かれた私は咄嗟に言葉が出ず、黙り込んでしまう。
兄さんは、そんな私の肩を掴んだ。
「噂を聞いたぞ。お前の恋人だって」
私は、こくり、と小さく頷いた。それを見た兄さんの表情が曇る。
「……良くない噂も、聞いた」
「それは、みんなが勝手に言ってるだけよ。ファウストは、優しくて、良い人だもの」
もともと、彼はこの街の人間ではない。どこかからやってきた、旅人だ。魔術師であり、錬金術師でもあると本人は言っていたけれど、この街では馴染みのない職業だ。
特に、錬金術師には『墓場の死体を漁って材料にする』などという、とんでもない偏見が元からある。私も最初は怖かった。けれど、今はそんな噂は笑い飛ばせる。
あの優しくて、理知的なファウストが、そんなことをするはずがない。
やるとすれば、いつもファウストの近くにいる、あの黒尽くめの――
「やっぱり心配だ! 可愛い妹が誑かされているかもしれない! オレは今からファウストに会ってくる!」
「あ、ちょっと! 兄さん!」
止めようと伸ばした手は、するりと、かわされる。
兄さんは、出征から帰宅した格好のままで、飛び出して行ってしまった。
このままだと、暴走する予感しかしない。追いかけないと。
◆
「ちょ、ちょっと、待って! 確かに僕は、グレーテルの恋人だけど、いきなりお義兄さんと決闘なんて……」
「お義兄さんと呼ぶな! いいから、剣を持て! マルガレーテに相応しい男か、オレが見極めてやる!」
通りに響き渡る声に、頭が痛くなってくる。目の前の人垣の中心に、きっと兄さんとファウストがいるはずだ。なんとか前に出ようと身体を滑り込ませるが、なかなか通して貰えない。
「魔術師だか、錬金術師だか知らないが、他所から来た怪しげな男に大事な妹を任せられるか!」
「――余所者であることは認めるけど、決闘する必要なんてある? お互い怪我をするリスクを取ってまですることではないし、剣を交えたからと言って、僕の素性が明らかになる訳でもないよね?」
「うるさい! 決闘だ!」
こうなったら、兄さんは止められない。昔から短気で喧嘩っ早いのだ。
人垣をかき分けて、ようやく前に出る。視界に飛び込んできたのは、剣を構える兄さん。一方、ファウストはいつも傍にいる黒い人に耳打ちし、片手で黒い剣を受け取っていた。
(猫ちゃんが言ってた――悪魔)
じっと見つめていると、黒い人もこちらに気付いたらしい。紫色の、深い闇のような瞳が私を捉えた。
慌てて視線を逸らす。まずは、二人の決闘を止めないと。
「兄さんも、ファウストも! 無意味に喧嘩するのは止めて!」
「止めるな、妹よ! これは男同士の勝負!」
間髪入れずに返ってきた返事に、私はこめかみを抑える。
「グレーテル、お義兄さんが決闘で落ち着くなら、僕は勝負しても構わないよ」
「でも、ファウスト……あなた、剣技なんて出来るの?」
「ぐっ……鋭い指摘だね。さすが僕のグレーテル」
「マルガレーテはお前のものじゃないぞ!」
すかさず噛み付く兄さんをひと睨みする。途端にしゅん、と項垂れてしまった。
「兄を応援してくれないのか?」
「私はファウストを応援するわ」
一歩下がって、二人から距離を取る。お互いに決闘をする意思があるなら、私が止めても無意味だろう。諦めに近い気持ちで、成り行きを見守るしかなかった。
ファウストが黒い剣を構える。兄さんも、すでに構えていた剣を握り直した。
場に緊張が走る。つられるように、私も息を詰めた。静寂の中、ファウストのつま先が地を踏みしめ、ざり、と音を立てる。
それが、始まりの合図だった。
真正面から、剣がぶつかり合い、甲高い音が響く。間を入れずに、何度も、何度も。
何よりも驚いたことは――ファウストが兄さんを押している、という事実だった。
(実戦に慣れてるはずの兄さんを圧倒するなんて……ファウストって、本当に何でも出来るのね)
思わず見惚れてしまう。この腕前なら、さすがの兄さんも認めざるを得ないだろう。
ふと、視線をずらして黒い人を盗み見る。黙って佇んでいるだけに見えたが、よくよく目を凝らすと、指先が僅かに動いていた。
(何をしてるのかしら……?)
人差し指が、くいっと上にあがる。それに合わせるようにファウストが跳んだ。両手で剣を構え、重力を乗せて兄さんに打ち下ろす。
次に、指が横に動く。兄さんの突きを避けるように、ファウストの身体が横に流れる。
(まさか)
嫌な予感に、こめかみに一筋の冷や汗が流れる。
(あの黒い人は、ファウストを操ってるの?)




