8-05. 記憶――決闘②
どうしよう。
どうしよう。どうしよう!
頭の中が真っ白になる。
ファウストと兄さんは、相変わらず剣を打ち合っている。周囲の人々は、歓声を上げたり、野次を飛ばしたりしているが、黒い人がしていることには、誰も気づかない。
――私が。
私だけが、ファウストが操られていることに気づいている。
(いつから操られてたの? もしかして、決闘を受け入れた時には既に……)
この決闘で、もしファウストが大怪我をし、命を落とすようなことがあれば。
(悪魔は――魂を手に入れられるのかしら?)
呼吸が止まった。心臓が痛いほどに跳ね、全身が恐怖と焦燥で震える。
(駄目……! 絶対に、駄目!)
失いたくない。ずっと、そばにいたい。例え、魂だけになったとしても、共に在りたいと願っている。
(どうしたらいいの? 二人の間に飛び込む? それとも、あの悪魔を直接止める?)
ファウストを。私の、愛する人を。絶対に失いたくない。
(――猫ちゃん)
もし、本当に私が愛した人を守る力をくれたというのなら。
(お願い、猫ちゃん……っ!)
無意識のうちに、祈りがこぼれ落ちた。
「ファウストを守って!」
淡い、紫色の光が弾ける。
黒い人が、弾かれたように後ろに仰け反った。操り糸が切れたように、ファウストは身体のバランスを崩し、剣を握った右手を突き出すように前に倒れ込む。
兄さんが、予期しない動きに驚いたように一瞬固まる。
その瞬間。ファウストの剣が、真っ直ぐに兄さんの左胸を貫いた。
混乱したファウストが慌てて剣を引き抜く。同時に、赤い色が舞い上がった。兄さんは、仰向けのまま地に倒れ込む。
すべては、一瞬の出来事だった。
「やりすぎだ! メフィスト!」
「俺じゃない。何か別の力が働いて――」
ファウストと黒い人が言い争っている声を聞きながら、私はふらふらと兄さんへ歩み寄る。震える手で、倒れた兄さんへ手を伸ばし、膝をついた。
「あぁ……そんな……。どうして、兄さんが……」
溢れ出る赤色を止めようと、両手で必死に押さえる。ぬめりとした生暖かさが指の隙間からこぼれ、少しずつ、兄さんが失われていく。
「マルガ……レーテ……」
兄さんの右手が、弱々しく伸びてきた。私はその手を掴み、頬に押し当てる。
そして、再び祈った。
(あぁ……お願い、猫ちゃん。あなたのくれた力が本物なら――)
そっと目を閉じる。まぶたの裏に、可愛らしい小さな黒い子猫の姿を思い描く。
(兄さんを助けて)
淡い、紫色の光が私と兄さんを包み込む。
遠くの方で、誰かの驚いたような、悲鳴のような声が聞こえた気がした。
柔らかな光は、兄さんの左胸に集まると、ゆっくりと吸い込まれるように消えていく。
赤色は、もう流れていなかった。
私は確かめるように、服の上からそっと触れる。そこにあったはずの傷口は、完全に塞がっていた。
「怪我が……治ってる」
呆然として、ぺたぺたと兄さんの胸を触る。
「マルガレーテ……今のは? お前が……?」
「わ、私……? 私が?」
ばしばし、と叩いてみても、傷口は開かない。まるで、最初から何もなかったように、肌はなめらかだった。
もう一度、ばしりと叩いてみる。
「おい、痛いんだが」
「だって、ここに、傷があったはずなのに」
兄さんが身体を起こし、地面に座り込んだまま、ぼりぼりと頭を掻く。どこにも不調はなさそうだ。
そこへ、息を切らしたファウストが駆け寄ってくる。私は黒い人――悪魔を探したが、人混みに紛れたらしく、その姿は見つけられなかった。
「グレーテル、今のは? お義兄さんの怪我を、君が治したように見えたけど……」
猫ちゃんがくれた、愛した人を守る力。きっと、この力が兄さんを救い、ファウストを悪魔の支配から解放してくれたのだ。
ファウストに猫ちゃんの話を伝えようと、顔を上げる。けれど、それよりも先に兄さんが剣を握り締めて、勢いよく立ち上がった。
「お義兄さんと呼ぶにはまだ早い! もう一度、決闘だ!」
私は反射的に立ち上がり、その後頭部を叩く。
「死にかけた人が、馬鹿言わないで!」
これだけ元気なら、放っといても心配はないだろう。私はほっと息をつく。
「兄さん、先に家に帰――」
「おい、今の見たか?」
ざわざわと、周囲のざわめきが大きくなる。私はハッとして、決闘の野次馬をしていた人々を見回した。
決闘が終わったにも関わらず、誰もがその場に留まり、こちらを見つめている。中には、あからさまに私を指差し、こそこそと囁き合う人もいた。
自分がみんなの前で何をしたのか気付き、私は震え上がる。――魔法を使ったように、見えたはずだ。
「マルガレーテ」
艶やかな声に名前を呼ばれ、思わず振り返る。
そこには、黄金の髪と緑の瞳を持つ女性が立っていた。
「司祭様」
緊張で口の中が乾いていく。いつ見ても、美しい方だ。神聖で、厳かな雰囲気さえ感じる。母さんが通う教会で何度もお会いして、仲良くして頂いていた。
――何を言われるのだろうか? 魔女だと糾弾される?
司祭様は、そっと微笑むと、私にだけ聞こえるようにこそっと耳打ちした。
「あなたを見ていた人々が、その奇跡のような力で、怪我や病気を治してもらえるかもしれないと期待し始めています」
私は息を呑んだ。自分の想像と、正反対の言葉だった。
「心配しないで、マルガレーテ」
司祭様が、慈母のような穏やかさで私の肩を抱く。その手は優しいのに、どこか逃がさないように添えられている気がした。
「その力は、きっと天使の力。あなたのことは教会が守ります」




