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たちばな

 私はゆっくりと開く玄関の扉から手足を使って後ずさりをした。私は扉の間から見える景色をずっと見ていられなくて、顔を逸らして、目を閉じた。自分の心臓の音が聞こえる。心臓の音はドクンドクンと大きく、速くなっていく。その心臓の音に反して、扉はゆっくりと開く音がする。私は後ずさりを止めて、体を縮めた。


「由里~、帰ったなら、手、洗ってきなさい。」

 私はその声を聞いて、扉の方へ目を向けた。扉の隙間からは、さっきのワンピースの老婆ではなく、由里のお母さんの顔が見えていた。


「お母さ~ん。」

 由里はポロポロと涙を流しながら、お母さんの足に抱き着いていった。


「どうしたの?」

「【タチバナ】が、【タチバナ】が……。」

「……【タチバナ】? まさか、何も見ていないでしょうね?」

「さっき、そこの曲がり角から、声が聞こえてきて、……何もいないのに。」

 私はその言葉を不思議に思った。


「えっ、由里、見ていないの? ワンピースのおばさんが立っていたじゃない?」

「見ていない!」

 即答だった。由里はそのまま由里のお母さん足で泣き続け、喋らなくなった。


「大丈夫だから、幽霊は見えなかったら、何もしてこないわよ。見えない子には、きっと何もしない。それに、お母さんがいるから、守ってあげる。」

 由里のお母さんは由里の頭を撫でながら、そう言った。由里のお母さんの慰めは、私には効かなかった。なぜなら、私は幽霊を見てしまったからだ。


「夏美ちゃんも何も見えていないでしょ?」

「……う、うん……。」

 私は、由里を安心させるためじゃなく、自分に見えていないと言い聞かせるために、嘘をついた。


「ねっ、夏美ちゃんも何もないって言っているじゃない。カラスか何かよ。きっと、【タチバナ】じゃない。」

 由里のお母さんは、由里の恐怖を和らげるため、そのようなことを何度も言い続けていた。私は玄関の地面に腰を付けたまま、こんがらがった現状に頭を悩ませていた。


「夏美ちゃん。しばらく、うちにいておくといいわ。こんな暑い中、歩いてきたんだもの、疲れたでしょ。リビングはクーラーも効いているから、しばらく休んでおくといいわ。」

「……はい。」

「それと、念のため、私が夏美ちゃんのおうちへ送っていくわ。」

 由里のお母さんは、由里をなだめながら、家の中へ入っていった。由里のお母さんがリビングの扉に手をかけた時に、私は一つ質問をした。


「あの、由里ちゃんのお母さん? ……【タチバナ】ってなんですか?」

 由里のお母さんは、その言葉を聞き、バツの悪そうな顔で、私の顔をじっと見る。そして、由里の方を見た。由里は私の質問を聞いてか、余計に泣き出した。


「よしよし、大丈夫よ。怖くない。」

 由里のお母さんはバツの悪そうな顔から笑顔に戻し、由里を慰めた。由里のお母さんはそのままゆっくりとリビングに入っていった。


「夏美ちゃんもそんなところに立ってないで。リビング、涼しいわよ。」

 由里のお母さんは、私の質問を意図的に無視した。おそらく、これ以上、由里を不安にさせないためだろう。それに、聞かなくとも、なんとなく【タチバナ】の正体は分かる。


 幽霊だ。


 それも、危険な幽霊。見たら、呪われるような幽霊だ。私はそのことを理解すると、心の中で、何も見ていないと何度も呟いた。


 しかし、呟けば呟く程、見たもの全てを呪い殺しそうな血走った恐ろしい目が、鮮明に心の中に残っていった。

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