すうつのおじさん
私はそのまま由里の家のリビングで、一時間ほど休んでいた。由里は泣き疲れたようで、リビングのソファで眠ってしまった。私は出されたお菓子やオレンジジュースに手をつけずに、一時間あの老婆の存在に怯えていた。その間に由里のお母さんは何度か外の様子を確認し、一度外へ出て、二人の手提げ袋を取ってきたりした。
由里の様に泣くことはなかったが、発散できないで私の心の中に渦巻く恐怖は、今まで体験してきた物を遥かにを超えていた。だが、友達の母と言う絶妙な関係性と先ほど質問の無視は、私の心中を打ち明けることに足がすくませるのには十分だった。
なので、私は黙ったまま、由里が眠るソファの横で、静かに座っているしかなかった。だが、友達のいない友達の家に、その友達の母と二人きりと言うのは、とても居心地が悪く、段々と恐怖心よりも居心地の悪さが勝っていった。
「あのー、そろそろ由里ちゃんも寝ちゃったので、帰ろうかなと思うんですけど……。」
「あらそう、ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに、じゃあ、送っていくわね。」
「……いや、いいです。」
この時の私は、幽霊の存在よりも幽霊の存在を隠す人間の方が怖く思っていた。夏休みの始まりに心躍らしていた状況から幽霊を見たという恐怖に叩き落され、私の冷静な心は狂ってしまった。自分以外信じることができない恐怖が幽霊の恐怖を超えていた。自分の見ている世界が否定されるという体験は、子供の私に世界への酷い疑念を与えた。
「……でもねえ、……もしかして、夏美ちゃんのご両親、話していないのかしら……。」
「?」
由里のお母さんが何かを語り出そうと、口を開いた時、ちょうど由里が薄目を開いて、目を覚ました。
「……夏美ちゃん、帰るの?」
「うん。」
「そう、さよなら。」
由里はさっきまでの出来事をすっかり忘れてしまったように、呑気な顔で、私に手を振り、もう一度眠り出した。
私は由里に手を振った後に、一人でリビングを出た。由里のお母さんは私を引き留めようとしたが、突然何かに気が付いたように、私に手を振った。
「じゃあ、また、いつでも遊びに来てちょうだいね。」
そう言う由里のお母さんの顔は、笑顔だったが、何か裏を感じさせるようなものだった。
私はリビングの扉を閉めて、玄関の鍵を開け、外へ出た。私は玄関の鉄柵の扉を開けて、ゆっくりと曲がり角を覗き込んだ。そこには誰もいなかった。一応、反対側も見てみるが、誰もいない。私は何度か首を振って、周りに誰もいないことを確認した。
私は少し早歩きで、曲がり角へ向かった。度々後ろを振り返りながら、安全を確認する。そして、曲がり角を曲がり,自分の家へと目を向けると、道の真ん中に誰かが立っていた。私はその人にぶつかりそうになって、立ち止まる。
「ご、ごめんなさい。」
私は咄嗟に謝った。相手はワンピースの幽霊ではなく、黒いスーツを着た男の人の背中だった。頭には黒いハットをかぶっていて、とても身長が高い。180cmはあるだろうか。そのスーツの男は、私の声に気が付いて、私の方へ振り返った。
その男の人の顔は、ベテラン俳優の様な渋い顔をしていたが、威圧感のある顔ではなく、優しさがにじみ出ている顔だ。その男の人は帽子を脱いで、頭を下げた。その男の人の髪は、ちゃんとあって、黒々している。とても若々しかった。
「いや、こちらこそすまない。道の真ん中で立ち尽くしてしまって。これでは邪魔になってしまう。」
そう言って、男の人は道の真ん中から横に移った。私はその男の人に小さく会釈して、家へと歩き出した。その男の人は、私の方を見ながら、ちらちらと私の家の奥の道を見ていた。私はその視線が気になった。なので、私も道の先に視線を向けた。
するとそこには、白いワンピースの老婆が立っていた。
私はもの凄く驚いて、足が止まる。手提げ袋を握りしめ、後ずさりをした。老婆は私からも私の家からも遠い場所に立っている。だが、確実にさっきの老婆だと確信できる。私は気づかれないように、静かに老婆を見つめていた。
老婆は足を動かしていないのに、段々と近づいているような気がして、怖かった。近づいて来ていると感じるたびに、頭の中で、老婆のあの目で睨まれているように思えた。私は何もできずに立ち尽くす。ただ、老婆が気が付かないように、息を殺した。それでも、恐怖が呼吸を荒くした。
私は制御できない恐怖に、余計に恐怖した。この場から逃げ出したいが、気付かれてしまう恐怖と戦っていた。時間がとても長く感じた。
「君は見えるのかい?」
道の横によけた男の人が、私にそう問いかけた。私はその言葉に驚いて、顔を男の人に向けた。




