第9話 公聴会の朝
あの朝と同じ広間だった。
春のステンドグラスの光が夏の光に変わっているだけで、白い石壁も、高い天井も、列席者が並ぶ壇上の席も、何も変わっていない。数ヶ月前、この場所で婚約破棄を告げられた私が、今日は技術鑑定者として同じ石畳を踏んでいる。
人生は、時々こういう皮肉な巡り合わせを用意する。
広間には重い空気が満ちていた。国王陛下が奥の玉座に着座し、両脇に宮廷の重臣たち。正面には記録官と、公聴会を主導する王立監査局の調査官エーリッヒ。三十代半ばの堅い顔立ちの男で、開廷前の短い打ち合わせでも一切の雑談がなかった。証拠が全てだという姿勢が、声にも背筋にも表れている人だった。
参考人席にゲオルク・ベーレン。いつもの穏やかな笑みを浮かべ、悠然と座っている。隣には杖師ギルドの法務担当らしき男が控えていた。
証人席にクラウス。
目が合った。
広間を挟んで十数歩の距離。あの喧嘩の後、一度も言葉を交わしていない。研磨石のメモだけが、あの日以降の唯一の接点だった。
クラウスが、小さくうなずいた。
口は動かなかった。表情も変わらなかった。ただ、あの灰色の瞳がまっすぐにこちらを見て、一度だけ顎を引いた。
——見ている。
それだけで十分だった。守るのでも、代わりに戦うのでもなく、見ていてくれる。今の私に必要なのは、それだけだった。
視線を前に戻した。指先の冷えが、少しだけ和らいだ気がした。
*
「それでは、王宮用魔法杖の品質に関する公聴会を開廷いたします」
エーリッヒの声が広間に響いた。
「技術鑑定者、リーネ・アシェンバッハ。証言台へ」
立ち上がる時、膝が一瞬だけ震えた。一瞬だけ。歩き出してしまえば、あとは足が勝手に動いてくれた。前の人生で何十回も経験した品質報告会と同じだ。緊張は最初の三歩で消える。
証言台に立ち、資料を広げた。三週間かけて一人で整理し直した証拠資料。あの工房の夜で、マルタのスープを飲みながらまとめ上げた全て。
「第一の証拠。暴走杖の核魔石についてご報告いたします」
分解した暴走杖の核魔石を、布に包んだまま証言台に提示した。
「宮廷納入品の規定ではA級以上の核魔石が使用されることとなっていますが、本品の結晶密度および魔力残響パターンは、いずれもC級品の特徴と一致します。経年劣化によるA級からC級への品質低下は数十年を要しますが、本杖の納入記録は五年前です。劣化ではなく、製作時点での品質の齟齬と判断いたします」
広間がざわついた。エーリッヒが手を上げて静粛を求める。
「第二の証拠。冒険者ギルドに登録された杖の品質比較データです」
トマスが正規の手続きで提供してくれた記録だ。ギルド登録杖師の製品性能が数値として蓄積されている。私の杖の出力効率と、宮廷納入杖の公称スペックを並べると、同じA級魔石を使用しているはずなのに性能差が生じている。
「公称スペックと実測値の間に有意な乖離が見られます。核魔石の品質差がその主因と考えられます」
ゲオルクの表情は穏やかなままだった。崩さない。けれど、こちらを見る目の奥に、第六話の調査室で見たのと同じ冷たい光がちらついている。
「第三に、騎士団副団長クラウス・ヴェルナーの証言を求めます」
クラウスが立ち上がった。証言台に歩く姿は、軍人らしく無駄のない所作だった。
「三年前の辺境任務中に、支給杖が暴発した。部下二名が死亡した」
声は平坦だった。事実だけを述べる声。けれど広間の空気が変わった。「死亡」という言葉が石壁に反響して消えるまでの数秒間、誰も動かなかった。
「暴発した杖は宮廷からの支給品であり、王立杖師ギルド長の製作と記録されている」
クラウスはそれだけ述べて、席に戻った。短い証言だった。けれどその短さの中に詰め込まれた重さを、この広間の全員が感じ取ったはずだ。
エーリッヒが立ち上がった。
「以上の証拠に基づき、王立監査局として、宮廷納入杖の品質に関する全面的な追加調査を国王陛下に勧告いたします」
勧告。公聴会が「調査すべき」と正式に認めた。ここまで来れば——。
「発言をお許しいただきたい」
ゲオルクが立ち上がった。穏やかな声だった。穏やかだが、よく通る。二十年間この宮廷で培った声の使い方だった。
「技術的な議論は重要です。しかし、その前に——鑑定者の適格性について、確認させていただきたい」
空気が変わった。
「リーネ・アシェンバッハ殿は、元アシェンバッハ公爵令嬢です。婚約を破棄され、ご自身の意思で公爵家を離れられた方です」
広間にざわめきが走った。知っている者もいただろう。けれどゲオルクの口から、この公式の場で改めて語られることの重みは別だった。
「公爵家を離れ、辺境で杖師を始められた方が、宮廷の杖に疑義を呈しておられる。——私は問いたい。この鑑定に、個人的な感情が含まれていないと、誰が保証できるのでしょうか」
胸を刺されたような感覚があった。
違う。証拠は感情とは無関係だ。核魔石の品質は物理的事実であって——。
「加えて、リーネ殿は王立杖師ギルドの認定資格をお持ちではありません。冒険者ギルドの登録のみで、宮廷納入品の鑑定を行う権限が本来あるのかどうか——」
ゲオルクの視線が列席者を巡った。同情を集める目線の配り方だった。「私は攻撃したくないのだが」と言外に匂わせる、巧みな仕草。
広間が揺れている。証拠の重さと、鑑定者の素性と、どちらに傾くべきか迷っている空気。
拳を握った。証言台の下で、誰にも見えないように。
反論したい言葉が喉の奥に溢れていた。でもここで感情的になれば、ゲオルクの思う壺だ。「ほら、やはり個人的な恨みだ」と言われる。前の人生で学んだ。会議で感情を出した瞬間に、論点が「内容」から「態度」にすり替わる。
黙った。唇を引き結んで、正面を見据えた。
国王陛下が、初めて口を開いた。
「双方の主張を認める」
広間が静まった。玉座からの声は低く、よく通った。
「追加調査を許可する。宮廷の他の杖についても品質検査を行うこと。——ただし」
陛下の視線がこちらに向いた。威圧ではない。けれど王の視線には、それだけで人を正す力がある。
「鑑定者の適格性についても、次回の公聴会で改めて判断する。リーネ・アシェンバッハ、それでよいか」
「——はい、陛下」
声は震えなかった。震えさせなかった。
*
公聴会が閉廷した後、回廊を歩きながら拳を解いた。爪の跡が掌に赤く残っていた。
追加調査は認められた。証拠は公の場に出た。核魔石がC級品だったという事実は、もう誰にも消せない。
でも——ゲオルクは証拠ではなく、私の過去を撃ってきた。
婚約破棄。公爵家離脱。無資格。個人的な恨み。
全て事実だ。事実だからこそ、反論が難しい。
次の公聴会では、証拠の量だけでなく、私自身の信頼性が問われる。「この人間の言うことは正しいのか」と。
廊下の窓から差し込む夏の光が、石壁に長い影を作っていた。
あの広間で、クラウスがうなずいてくれた。ただそれだけのことが、まだ胸の中にあたたかく残っている。
彼は次の公聴会でも証人として立つだろう。でも——最後に証言台で私の言葉の正しさを証明するのは、私自身でなければならない。
誰かに守ってもらうのではなく。
誰かの代わりに戦ってもらうのではなく。
自分の手で、自分の杖で、証明する。
拳をもう一度握り直した。今度は爪を立てずに、静かに、確かに。




