第8話 守ることと、奪うこと
閉鎖命令の翌朝から、私は戦っていた。
査察員が置いていった書類を端から読み、規約の条文を一つ一つ確認する。前の人生で就業規則と労働基準法を照らし合わせた経験が、ここでも生きた。
反論の軸は二つ。
一つ、冒険者ギルドに登録された杖師による個人販売は、王立杖師ギルドの管轄外であり合法。二つ、騎士団の杖メンテナンスは軍の公式発注ではなく、クラウス・ヴェルナー個人からの私的依頼であり、「軍用杖の業務」には該当しない。
反論書をまとめ、トマスを通じて査察員に提出した。査察員は渋い顔をしたが、条文上の反論としては筋が通っている。閉鎖を強行すれば冒険者ギルド側との管轄争いになる。膠着状態に持ち込めた。
けれど「膠着」は「解決」ではない。
工房は名目上の閉鎖こそ免れたものの、「調査中」の札がかかったままだ。新規の客は足が遠のき、預かり杖の返却も滞っている。じわじわと首を絞められる感覚が、毎日少しずつ重くなっていった。
異変に気づいたのは、閉鎖命令から八日目の朝だった。
査察員が、突然態度を変えた。
前日までは「ギルド長の通達ですので」と一歩も引かなかった男が、急に「まあ、冒険者ギルド登録の件も考慮しますと……」と言い始めた。目が泳いでいる。何かに怯えている顔だったが、それは私に対する怯えではなかった。もっと別の方向からの圧力を受けた顔だ。
そして工房の外に、見慣れない人影があった。
最初はグラーツの住人だと思った。でも二人、三人と増えている。工房の周囲を、さりげなく、しかし明らかに警戒の目で巡回している。体格が良い。姿勢が良すぎる。一般人ではない。
騎士団の人間だ。
「……クラウスさん」
工房の裏手にある宿屋の二階。巡回任務の合間にグラーツに滞在しているクラウスを訪ねた。
扉を叩くと、すぐに開いた。いつもの無表情。けれど私の顔を見た瞬間、わずかに身構えたのが分かった。来ると予想していたのだ。
「単刀直入に聞きます」
「ああ」
「査察員の態度が変わったのは、あなたが騎士団の法務に掛け合ったからですか。工房の周りにいるのは、あなたが手配した護衛ですか」
クラウスは否定しなかった。
「ゲオルク側の動きが早すぎた。放置すれば工房を潰される可能性があった」
淡々とした説明だった。事実を並べている。判断は合理的だったのだろう。騎士団の法務が「軍の依頼は個人契約であり杖師ギルドの管轄外」と公式に見解を出せば、査察員は引かざるを得ない。護衛を配置すれば物理的な嫌がらせも防げる。
合理的で、正しくて、効果もあった。だからこそ胸の奥がざらついた。
「——相談してほしかった」
声が震えたのは、怒りだけではなかった。
「私の戦いを、相談もなしに奪わないでください」
クラウスの表情が動いた。ほんの少しだけ——眉の間に皺が寄った。
「危険だった。放っておけなかった」
「放っておいてほしかったとは言っていません。一緒に考えてほしかったと言っているんです」
言葉が溢れていた。止められなかった。
「ずっと同じだった。公爵家にいた頃もそう。私の代わりに誰かが決めて、私の代わりに誰かが動いて、私はいつも結果だけを受け取る側だった。"お前のためだ"って——その言葉を何度聞いたか分からない。でも誰かのためにって言いながら、結局私から奪っていたのは、私が自分で何かを決める機会だった」
クラウスが黙った。
反論しなかった。いつものように短い言葉で切り返すこともしなかった。ただ、灰色の瞳が僅かに揺れているのが見えた。
「あなたは優しい人です。でも——守ることと、奪うことは、紙一重なんです」
最後の一文を言い終えた時、喉がひりひりと痛んだ。
長い沈黙が落ちた。
宿屋の窓から差し込む夕陽が、二人の間の床に細い線を引いている。
「……俺は」
クラウスが、初めて言葉を探すのに苦労している様子を見た。あの寡黙は言葉を選ぶ余裕があるからこその寡黙だったのだと、今になって気づく。余裕がなくなった時、この人はこんな顔をするのだ。
「俺は——三年前に、守れなかった」
声が低かった。低いだけではなく、硬かった。
「杖が暴発した時、俺はすぐ隣にいた。手を伸ばせば届く距離にいた。なのに、何もできなかった」
部下の二人。あの任務の話だ。
「それからずっと——目の前で誰かが危険に晒されている時に、動かないという選択が、できない」
クラウスの拳が、膝の上で白くなっていた。
分かってしまった。この人の「守りたい」は、優しさだけで動いているのではない。三年前の喪失が、背中を押している。守れなかった記憶が、「今度は守る」という強迫に変わっている。
だから——分かってしまったからこそ、ここで引くわけにはいかなかった。
「それでも。相談なしに私の代わりに動くのは、やめてほしい」
声は震えていたけれど、目はそらさなかった。
クラウスが私を見た。私もクラウスを見た。どちらも正しくて、どちらも傷ついていて、だから今ここで「分かった」と言えない。
その沈黙を破ったのは、扉を叩く音だった。
「副団長、王宮より召還命令です。公聴会の証人として出頭を求められています」
クラウスの部下の声。公聴会——あの報告書が動いたのだ。
クラウスが立ち上がった。外套に手を伸ばし、一瞬だけこちらを見た。
何か言おうとした気配があった。口が開きかけて、閉じた。
「……行かなければならない」
「はい」
「リーネ」
「はい」
「——気をつけろ」
それだけだった。それ以上の言葉は出なかったのか、出さなかったのか、分からない。
クラウスが宿屋を出ていく足音が遠ざかっていく間、私は椅子に座ったまま動けなかった。
*
工房に戻ったのは、日が完全に落ちてからだった。
暗い工房の作業台の上に、見覚えのないものが置いてある。
研磨石。手のひらに収まるくらいの大きさの、深い緑色をした上質な石だった。その下に、紙片が一枚。
クラウスの字だった。硬くて角張った、軍人の文字。
「切れ味の良い石を見つけた。使え」
いつ買ったのだろう。巡回の途中で見つけたのか。それとも——私と喧嘩した後に、わざわざ探しに行ったのか。
研磨石を両手で包んだ。冷たい石の感触が、掌の中で少しずつ温まっていく。
涙が出た。
声は出さなかった。ただ、頬を伝って顎の先から落ちるのを止められなかった。怒っている。悲しい。でもそれだけじゃない。こんな喧嘩をした後でも、この人は私に「使える道具」を残していく。花でも手紙でもなく、杖を削るための石。
ひどく不器用で——ひどく、まっすぐだ。
しばらくそうしていた。どれくらい経ったか分からない。
涙が止まった頃、工房の戸口にマルタが立っていた。いつからいたのか。何も言わず、温かいスープを作業台の端に置いて、静かに帰っていった。
スープを一口飲んで、深く息を吐いた。
その時、作業台の隅に封書が置いてあることに気づいた。マルタが持ってきてくれたのだろう。宛名は私。差出人は——王立監査局、調査官エーリッヒ。
封を切った。
『リーネ・アシェンバッハ殿。貴殿の提出された技術報告書を精査した結果、王立杖師ギルド製品の品質に関する公聴会を開催する方向で検討が進んでおります。つきましては、証拠資料の整理にご協力いただきたく——』
手紙を握る指に力が入った。
公聴会。あの報告書が、動いている。「参考資料」として棚上げされたはずの報告書が、監査局の目に留まったのだ。
作業台の上の研磨石を見た。
クラウスは公聴会の証人として王都に呼ばれた。私は証拠資料の整理を求められた。
同じ場所を目指しているのに、今は離れている。
でも——今やるべきことは、はっきりしていた。
研磨石を棚に置き、新しいノートを開いた。暴走杖の分析データ、核魔石の品質比較、冒険者ギルドの性能記録。全てを体系的にまとめ直す。
一人で戦う。
一人で立てることを証明しなければ、あの人の隣に立つ資格がない。
夜が明けるまで、ペンを止めなかった。




