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婚約破棄された杖職人令嬢、実は唯一の天才だった件  作者: 九葉(くずは)


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第7話 元婚約者の未練と、隣に立つ人

王宮での調査を終え、明日にはグラーツへ発つ。


最後の半日を使って、王都でしか手に入らない精密工具を見て回ることにした。核魔石はもう買えないが、工具の流通までは止められていない。クラウスは騎士団の報告書提出があるとかで、午後に合流する手筈だった。


工具店の並ぶ通りを歩いていた時、すれ違った貴族の令嬢二人の会話が耳に引っかかった。


「——あの元公爵令嬢、杖を作っているらしいわよ」

「聞いた聞いた。カーラ様が仰っていたわ。素人の見よう見まねで、危険な杖を冒険者に売りつけているんですって」


足が一瞬止まりかけた。止めなかった。


カーラ・ベーレン。ゲオルクの娘で、ヴィクトルの新しい婚約者。名前は知っている。社交界で顔が広い令嬢だという話も。その彼女が、私の杖を「素人の危険物」と触れ回っている。


腹は立った。でも立ち止まって言い返したところで、社交界の噂戦に勝てるとは思えない。火に油を注ぐだけだ。


ふと、通りの向こうに目が止まった。侍女を二人従えた若い令嬢が、こちらを一瞥して通り過ぎた。華やかな亜麻色の髪に、ベーレン家の紋章を留めたブローチ。あれがカーラ本人だろう。すれ違いざまに侍女に何か囁いて、くすりと笑った。聞こえない声、見せるための微笑み。こういうやり方で人を削る技術に長けた相手だ。


必要なのは噂ではなく、実績。


そう言い聞かせて工具店に入ろうとした時、背後から聞き覚えのある声がした。


「リーネ」


振り返って、息が詰まった。


ヴィクトル・ハイデン。ハイデン侯爵家嫡男。七年間の元婚約者。


あの春の朝以来、一度も顔を合わせていなかった。


社交界の寵児にふさわしい整った容姿は変わらない。柔らかな笑みを浮かべ、かつて私に向けていたのと同じ声音で名前を呼ぶ。でも、その笑みが胸に届く場所は、もうどこにもなかった。


「久しぶりだね。王宮の調査に来ていると聞いた。少し話がしたい」


聞いた。誰から聞いたのか——おそらくカーラ経由で宮廷の動きが伝わったのだろう。


「……何の話でしょうか、ヴィクトル様」


「単刀直入に言う。あの時の判断は間違っていた」


微かに目を伏せて、ヴィクトルは言った。声の調子まで完璧に制御されている。反省を見せつつ、卑屈にはならない、計算された後悔の表情。


「君の才能に気づけなかった自分を恥じている。杖師としての君の評判は王都にも届いているよ。騎士団副団長が推薦するほどの技量だと——」


「お気持ちは受け取りました」


遮ったのは、我慢の限界ではなく、聞く必要のない台詞だと分かったからだ。


前の人生で何度も見たことがある。退職した社員が活躍し始めると、急に「戻ってこないか」と連絡してくる元上司。本人の才能が惜しいのではなく、才能が他の場所で花開くことが自分の判断ミスの証明になるから、取り込んで「最初から見抜いていた」ことにしたいだけだ。


ヴィクトルの目がかすかに揺れたのを見た。一瞬だけ、列席者の中の——あの春の朝にも揺れたのと同じ方向に。カーラの噂のことを知っているのだ。ベーレン家の不穏を察して、リスクヘッジとしてこちらにも繋がりを持っておきたい。そういう計算が、この美しい笑顔の裏に透けている。


「でも、もう私の人生にあなたの席はありません」


穏やかに、はっきりと言った。怒りはない。恨みもない。ただ、事実としてそうなのだ。


ヴィクトルの笑みが消えなかった。消えなかったけれど、目の奥に「想定外」の色がよぎった。拒否されることを、本当には予想していなかったのかもしれない。


「……そうか。それは残念だ」


一拍置いて、ヴィクトルは表情を切り替えた。政治家の顔。


「しかしリーネ、一つ忠告させてくれ。騎士階級の副団長と親しくしているようだが——」


声が少し低くなった。


「公爵家の血を引く令嬢の相手としては、些か不足ではないか。君のためを思って言っている」


胃の奥がひりついた。怒りではない。もっと冷たい何か。


この人は、私を心配しているのではない。クラウスの身分の低さを指摘することで、私の判断を揺さぶろうとしている。あるいは、自分が捨てた相手が自分より「下」の人間と親しくしていることが、彼のプライドに触るのかもしれない。


口を開きかけた時、背後に気配があった。


足音はほとんど聞こえなかった。けれど空気が変わった。右隣の温度がわずかに上がった。


クラウスが立っていた。


いつもの無表情。腕を組むでもなく、剣に手をかけるでもなく、ただ私の隣に立っている。ヴィクトルを見ていない。私も見ていない。ただ、そこにいるだけだった。


何も言わない。


それなのに、ヴィクトルが半歩だけ退いた。


言葉は要らなかった。社交の場で巧みな弁舌を振るう侯爵嫡男が、言葉を持たない騎士の沈黙に押されている。ヴィクトルの「身分」の話は論理としては正しい。けれど論理で量れない何かが、クラウスの隣にいるという事実の中にあった。


ヴィクトルが私を見た。それからクラウスを見た。そしてもう一度私を見て、ほんの少しだけ唇を歪めた。苦い笑みだった。


「……そうか」


同じ言葉。けれど先ほどとは響きが違った。今度は本当に、あきらめの音がした。


「元気でいてくれ、リーネ」


ヴィクトルが去っていく背中は、春の朝の広間で見た時よりも小さく見えた。


    *


人通りが途切れた路地で、ようやく息をついた。


「……ありがとう」


クラウスに向かって言った。


「でも、一人でも断れたよ」


「知っている」


即答だった。


「だが——」


クラウスは少し間を置いた。いつもの間ではない。言葉を選んでいる間だった。


「俺が、そこにいたかった」


足が止まった。


仕事ではない。義務でもない。騎士としてでも、護衛としてでもない。


「いたかった」。ただ、自分がそこにいたいから、いた。


クラウスは相変わらず前を向いていた。表情は見えない。でも首筋がわずかに赤いのが、午後の斜光の中で見えた。


「……クラウスさん」


「なんだ」


「筋トレとは言わないんですね」


「…………」


沈黙。それから、ほんの微かに——肩が揺れた。笑ったのかもしれない。確信はない。でも、あの鉄面皮の肩が揺れたのは見間違いではなかったと思う。


胸の奥で、何かが静かにほどけていく感覚があった。


    *


グラーツに戻ったのは、それから三日後の夕暮れだった。


馬車を降りて工房の前に立った瞬間、違和感に気づいた。


扉の前に、見知らぬ男が二人立っている。揃いの上着に杖師ギルドの徽章。手には書類の束。


「リーネ・アシェンバッハ殿ですね」


一人が事務的な声で言った。


「王立杖師ギルドの査察部より通達いたします。当工房について、王立杖師ギルド未加入のまま軍用杖のメンテナンス業務を行った疑いがあり——」


書類が差し出された。


「——無資格営業の疑いにより、調査期間中の一時閉鎖を命じます。ギルド長直々の通達です」


ギルド長直々。


ゲオルクの顔が脳裏に浮かんだ。あの回廊で見た、仮面の下の冷たい目。


足元が揺れた気がした。工房の扉の向こうには、預かり中の冒険者の杖がある。仕掛かりの仕事がある。やっと積み上げ始めた信頼が、ある。


「……根拠となる法的条文を確認させてください」


声が震えそうになるのを、腹に力を入れて抑えた。パニックは後だ。まず書面を読め。条文を確認しろ。相手の主張に穴がないか探せ。前の人生で覚えたことが、こういう時に一番役に立つ。


でも指先が冷たかった。夏の夕暮れなのに、指先だけが凍りついたように冷たかった。


マルタが裏口から顔を出して、目を丸くしているのが視界の隅に見えた。

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