第5話 王宮の杖が壊れる日
まだ空が白み始めてもいない時刻に、工房の前で馬蹄の音が止まった。
こんな時間に客は来ない。寝台から身を起こして窓の隙間を覗くと、街灯の残り火の中にクラウスの輪郭があった。軍馬の鞍から降りたばかりで、外套の裾に土埃がこびりついている。
巡回の予定日ではなかった。
扉を開けると、クラウスはいつもの「筋トレ」も言わずに切り出した。
「王宮で杖が暴走した」
息を呑んだ。
叙勲式典の最中、宮廷魔法師が儀礼魔法を発動した際に杖が制御を失い、魔力が噴出した。負傷者は奇跡的に出なかったが、式典は中断。暴走した杖は、王立杖師ギルド長が手がけた宮廷納入品——つまり、最高級品だ。
「最高級品が暴走……」
「騎士団として外部の技術者による原因調査を進言した。あんたを推薦する」
私を。王宮に。
あの婚約破棄を宣告された広間と同じ屋根の下に、もう一度足を踏み入れることになる。胸の奥が一瞬きしんだけれど、クラウスの目を見れば、感傷に浸っている場合ではないと分かった。
あの灰色の瞳に、いつもはない切迫した光がある。
「三年前」
クラウスが言った。いつもより声が低かった。
「品質の悪い杖が暴発して、部下を二人失った」
呼吸を止めた。
二人。三年前の任務で——私の杖に「命を救われた」と言ったあの任務で、二人の命が失われていた。
助かった命と、助からなかった命が、同じ日に同じ場所にあった。クラウスが杖の質に執着してきた理由が、たった一文で全て繋がった。
「同じことを、もう繰り返したくない」
声は平坦だった。でも、その平坦さは感情がないからではなく、感情を声に乗せることに慣れていないだけだと、もう知っていた。
「……行きます」
即答した。理由はいくつもあったけれど、口にしたのは一つだけだ。
「杖師として、暴走の原因を知りたい」
クラウスが小さくうなずいた。
*
三日後、王宮の門前に立っていた。
盛夏の手前の陽射しが白い石壁を照らし、あの日と同じ光の筋が回廊に伸びている。数ヶ月前、この門を最後にくぐった時は馬車の中だった。もう振り返らないと決めて、背を向けた場所。
今度は自分の足で歩いて入る。杖師として。
大広間の手前にある謁見控えの間に、すでに数名が集まっていた。宮廷魔法師が二人、事務官が一人、そして——奥の椅子に深く腰を下ろした壮年の男。
穏やかな笑みを浮かべた、品のいい風貌。白髪交じりの髪をきちんと整え、仕立ての良い衣服を纏っている。胸元に王立杖師ギルドの徽章。
王立杖師ギルド長、ゲオルク・ベーレン。
杖師ギルドの最高権威。素材の流通を握っている組織の長。私の工房に核魔石を売らせないよう圧力をかけた——おそらくは、この人。
ゲオルクの視線がこちらに向いた。穏やかな笑みは崩れない。けれどその目が私を値踏みするように動いた一瞬を、私は見逃さなかった。
「杖の暴走は珍しいことではありません」
ゲオルクは落ち着いた声で場を仕切り始めた。
「使い手の魔力制御に僅かな乱れがあれば、高出力の杖ほど影響を受けます。今回も同様の事例かと。外部の技術者を招く必要はないでしょう」
声音は穏やかだが、隙がなかった。二十年間ギルドを率いてきた人間の話し方だ。宮廷の事務官が同調するようにうなずいている。長年の信頼は簡単には揺るがない。
「騎士団として異議がある」
クラウスが一歩前に出た。
「宮廷に納入された最高級品が式典中に暴走した。使い手の問題として処理するには早計だ。独立した技術者による原因分析を求める」
「独立した技術者?」
ゲオルクの目が私に向いた。笑みの形はそのままに、温度だけが下がる。
「失礼ですが、こちらのお嬢さんは——」
「辺境の杖師、リーネ・アシェンバッハだ」
クラウスが遮った。私の名を呼ぶ声が、普段より一段はっきりしていた。
宮廷側の事務官が眉をひそめた。アシェンバッハの名前に反応している。元公爵令嬢。婚約破棄。あの春の朝の記憶が、この場にいる誰かの頭にも浮かんでいるのだろう。
「王立杖師ギルドに所属されていない方に、宮廷杖の分析を任せるのは前例がなく——」
「彼女の分析能力は、騎士団が身元ごと保証する」
場の空気が止まった。
身元ごと保証する。それは、リーネが何か問題を起こした場合、騎士団副団長が責任を取るという意味だ。地位を賭けた宣言。
ゲオルクの笑みがほんの一瞬だけ固まったのを、私は見た。すぐに元の穏やかさに戻ったけれど、あの一瞬の硬直は本物だった。
「……クラウスさん」
控えの間を出る際、小声で聞いた。聞かずにはいられなかった。
「そこまでする理由は、何ですか」
「理由?」
クラウスはこちらを見た。灰色の瞳に迷いはなかった。
「お前の杖が正しいことを、俺は知っている。それだけだ」
それだけ、と言い切る声の重さに、足の裏がじんと痺れるような感覚があった。
——ああ。
この人は、杖だけを見ている。
前の人生でも今の人生でも、そんなふうに信じてくれた人間は一人もいなかった。
目の奥が熱くなりかけたのを、強く瞬きして押し込んだ。ここは王宮だ。泣いている場合じゃない。
「——ありがとうございます」
「礼はいい。仕事をしろ」
相変わらずの口調に、唇の端が少しだけ緩んだ。
*
暴走した杖は、分析用の小部屋に安置されていた。
宮廷魔法師の立ち会いのもと、杖を手に取る。見た目は美しい。装飾は精緻で、木材の選別も一級品。ゲオルクの名に恥じない外観だった。
表面を撫でるだけなら、完璧な杖に見える。
工具を展開し、分解に取りかかった。表層の装飾を外し、木材の接合部を慎重に開き、魔力伝導路を露出させていく。
立ち会いの宮廷魔法師——銀髪の年配の男が、私の手元を食い入るように見つめていた。工具の持ち方、力の入れ方、分解の順序。杖師の技量は手つきに出る。
「……あの手つき」
宮廷魔法師が小さく呟いた。隣の同僚に耳打ちしている。
「本物だ。あれは本物の杖師の手だ」
聞こえないふりをしたけれど、指先に力が入った。認められた——この場所で。あの日、無能と呼ばれた場所と同じ建物の中で。
伝導路の構造を確認する。設計自体は手堅い。ゲオルクの技量が本物であることは、この伝導路の組み方を見れば分かる。美しいとすら言える精度だった。
核魔石に辿り着いた。
杖の心臓部。全ての魔力がここを通過する。宮廷納入品にはA級以上の核魔石が使用されることが規定されている。
指先で魔石の表面に触れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
違う。
手触りが違う。密度が違う。魔力の残響が——薄い。
前世の製品検査で不良品を掴んだ時と同じ感覚だった。スペックシートと実物が噛み合わない、あの不快な手応え。何百本と杖を触ってきたこの手が、A級魔石ではないと告げている。
これはC級か、よくてB級の下位だ。
宮廷納入の最高級品の心臓部に、規定に満たない核魔石が収まっている。
劣化? いや、A級魔石がここまで劣化するには数十年かかる。この杖は五年前に納入された記録がある。
手が冷えていた。顔から表情が抜け落ちているのが自分でも分かった。
立ち会いの宮廷魔法師が「どうしました?」と声をかけてくる。
「…………」
答える前に、部屋の入り口にゲオルクの姿がちらりと見えた。穏やかな笑みのまま、こちらを窺うようにしている。
そしてその笑みの奥、目の色だけが——冷たく、鋭く、光っていた。
顔を上げず、手元の魔石に視線を落としたまま、静かに息を吸った。
この杖の中にあるものが何を意味するのか、今はまだ口にすべきではない。もっと調べなければ。一本だけでは根拠が足りない。
でも指先が伝えてきた事実は、もう消せなかった。
——この杖の核魔石は、あるべき品質ではない。




