第3話 杖師を探す騎士
工房を開いて、ふた月が過ぎた。
春が終わり、初夏の日差しがグラーツの石畳をじりじりと照らすようになった頃には、週に四、五人の冒険者が工房を訪ねてくれるようになっていた。ハンスが仲間に声をかけてくれたのが大きい。彼自身も月に一度はメンテナンスに顔を出してくれるし、紹介で来た冒険者が帰りがけに「確かに全然違う」と目を丸くして帰っていく。
小さな工房の棚に、少しずつ常連からの預かり杖が並び始めた。
それだけで、毎朝起きるのが楽しくなっていた。たったそれだけのことなのに、前の人生では手に入らなかったものだった。
午後の陽が傾きかけた頃、工房の扉が開いた。
いつもの冒険者たちとは違った。扉を押す力加減が静かで、正確で、訓練された人間特有の所作だった。
顔を上げて、手が止まった。
背が高い。肩幅が広い。短く刈り込んだ濃い栗色の髪に、感情の読めない灰色がかった瞳。革の外套の下に鎧を着込んだ体格は、冒険者のそれよりも一段厚みがある。
そして、胸元に刻まれた騎士団の紋章。
王国騎士団。
男は工房の中をゆっくりと見回した。壁にかけた工具、棚に並ぶ預かり杖、作業台の上に散らばった木屑。全てを一巡して確認するような目の動かし方だった。それから私に視線を合わせた。
「杖師のリーネ・アシェンバッハか」
名前を知っている。低い声だった。無駄な抑揚がなく、言葉を最小限にしか使わない人間の声。
「はい、そうですが——」
男が腰の革袋から何かを取り出した。丁寧に巻かれた布を作業台の上に置き、静かに開く。
心臓が跳ね上がった。
杖だった。
長さは手首から肘まで。柄に装飾はなく、木目を活かした素朴な仕上げ。何の変哲もない——他の誰が見てもそう思うだろう。けれど私の目は、柄の付け根にあるほんの小さな刻みに吸い寄せられていた。
伝導路の接合部に入れる、自分でも意識しない手の癖。設計図には描かない、仕上げの最後の最後で指先が勝手に刻む署名のようなもの。
三年前の夏に手放した、あの一本。
「この杖を作った人間を、探している」
男が言った。
胸の奥が詰まるような感覚があった。三年。この人はこの杖を三年間——。
使い込まれた痕跡がある。柄のニスはすっかり薄くなって、木肌に手の脂が深く染みていた。大切に保管していたというよりも、何度も何度も握り締めて戦場に持ち出した跡だ。
「……私が、作りました」
声がわずかに揺れたのを、咳払いで誤魔化した。
「やはりか」
男の表情は変わらなかった。変わらなかったけれど——目の奥に、ほんの微かな光が灯ったのを、私は見た。安堵、ではないと思う。もっと静かで深い、長い探し物がようやく見つかった時に似た何かだった。
「三年前の任務中にこの杖を手に入れた。中古で出回っていたものだ。初めて使った時から分かっていた——この杖は、他の全てと根本的に違う」
「……どう、違いましたか」
聞かなくてもいいことだった。でも、聞きたかった。三年前の私は、自分の理論が正しいかどうかも分からないまま、怖くなって手放してしまった。あの杖が実際にどう「違った」のか、使い手の口から聞きたかった。
「魔力の流路が違う」
クラウスと名乗った男は、杖を手に取りながら言った。
「普通の杖は太い道を一本通して、力で魔力を押し込む。だがこの杖は違う。細い道を何本も束ねて、流れそのものを整えている。力ではなく——設計で勝っている」
呼吸を忘れた。
杖を見ている。この人は杖の表面ではなく、中身を見ている。私の魔力量がどうとか、出身がどうとか、そんなことには一切触れずに、杖の構造だけを正確に読み取って、そこに宿る設計思想を言い当てた。
二十年この世界を生きてきて、そんなふうに私の仕事を見てくれた人間は初めてだった。
「クラウス・ヴェルナー。王国騎士団副団長だ」
名乗りの声は短かった。爵位も家名も添えない——騎士階級の実力者なのだと、その簡潔さで分かった。
副団長。冒険者たちが噂していた「杖師を探している騎士団の偉い人」は、この人だったのか。
「三年前の任務で、この杖に命を救われた」
声の重さが変わった。「命を救われた」という言葉を軽く口にする人間はいない。その四文字の裏にどれほどの経験があるのか、私には推し量れなかったけれど、声の底に沈んだ重力のようなものは感じ取れた。
三年前。出来が良すぎて怖くなって、匿名で手放した杖。あの時の私には自信がなかった。自分の理論が正しいのか、現場で通用するのか、確かめる勇気がなくて逃げたのだ。
それが——誰かの命を、守っていた。
目の奥がつんと痛んで、深く瞬きした。
「……ありがとうございます。大切に、使っていただいて」
「礼を言うのはこちらだ」
短い沈黙が落ちた。けれどそれは気まずい沈黙ではなく、言葉の余韻が工房の木の匂いに溶けていくような、穏やかな静けさだった。
クラウスの視線が作業台の隅に移った。削りかけのまま置いてあった新作——伝導路の設計途中で、内部構造が露出している。
「見ていいか」
「どうぞ」
杖を手に取ったクラウスは、表面を撫でるのではなく、角度を変えて内部を覗き込んだ。使い手の目で杖の中身を読もうとしている。数秒間そうしてから、丁寧に作業台に戻した。
「今回は個人的な訪問だが、次は騎士団として正式に依頼する」
「正式に……」
「小隊の杖のメンテナンスだ。部下の命がかかっている。だから、最も信頼できる杖師に頼む」
その言葉の順序に、この人の人柄が全て出ていると思った。理由を先に示し、結論を後に置く。感情ではなく論理で話す人。けれどその論理の根にあるのは「部下を守りたい」という、剥き出しの感情だ。
「お引き受けします」
「ああ。——近いうちにまた来る」
立ち上がりかけたクラウスが、ふいに足を止めた。
三年前の杖を手に取り、柄のあたりをじっと見つめている。
「この柄の曲線が、いい」
「……え?」
「手に馴染む。三年間使って、ここの角度だけは完璧だと思っていた」
何を言っているんだろう、この人は。
今の今まで、三年越しの再会と命の話と正式依頼の重さで胸がいっぱいだったのに、最後の最後に出てきた褒め言葉が——柄の曲線の角度。
「……褒めるところ、そこですか」
思わず声に出た。しまった、と思ったけれど、もう遅い。
クラウスがわずかに首を傾げた。何がおかしいのか本気で分かっていない顔だった。
「重要だろう。柄は、使い手の手に最も長く触れる部分だ」
真顔。完全に真顔で言っている。
こらえきれなくて笑ってしまった。声を殺そうとしたけれど無理だった。緊張と感動で張り詰めていたものが一気に解けて、口元を手で押さえながら肩が震えた。
クラウスが一瞬だけ目を瞬かせた。表情は動かなかったのに、肩の角度がほんの少しだけ変わった気がする。驚いたのだ、たぶん。声を出して笑う人間を見慣れていないのかもしれない。
「……失礼しました。ありがとうございます。柄の曲線も、大事にします」
クラウスは短くうなずいて、外套を翻して工房を出ていった。足音すら最小限に抑えた、軍人の歩き方だった。
扉が閉まった直後、隣のパン屋の窓からマルタが顔を突き出した。上半身をぐいっと乗り出して、目をきらきらさせている。いつの間に聞いていたのか。
「あの騎士さん、また来るわよ」
「仕事の依頼ですよ、マルタさん」
「はいはい、仕事ね。——でもねリーネちゃん、あの目は本気よ」
「だから仕事の——」
言いかけて、自分の耳がじんじんと熱くなっているのに気づいた。反論するのをやめて作業台に向き直ったけれど、頬まで熱が広がっていくのはどうにもならなかった。
三年前の杖が、作業台の上にまだ置いてある。
そっと手に取った。使い込まれた柄は私の掌より大きな手に合わせて少しだけ摩耗していて、でも芯の部分は三年前に私が削った形のまま残っていた。
あの人が褒めた、この曲線。
「……ちゃんと、使ってくれてたんだ」
独り言が工房の天井に吸い込まれていった。
ふと窓の外に目をやると、ギルド支部の入り口付近で足を止めている男が一人いた。革の外套を着た小柄な男が手帳のようなものに何かを書き込んでいる。旅商人だろうか——グラーツは交易街だ、見知らぬ顔など珍しくもない。
すぐに視線を手元に戻した。
次にクラウスが来る時には、この杖もきちんと整備して返そう。三年分の使用痕を確認して、伝導路に微調整を入れて、柄の曲線は——そのままにしておこう。あの人が完璧だと言った角度を、余計な手で変えてしまうのはもったいない。
そう思った瞬間、また耳が熱くなった。
仕事だ。仕事の話だ、これは。




