第2話 辺境の工房と、命を救う杖
王都を発って五日。辺境の交易街グラーツに着いたのは、春の終わりを告げる風がまだ少しだけ冷たい頃だった。
空き店舗の窓を拭いていると、隣から焼きたてのパンの甘い匂いが流れてきた。
「あんた、ここに店を出すの?」
振り返ると、エプロン姿の恰幅のいい女性がパンの籠を腰に抱えて立っていた。五十がらみ、日に焼けた顔いっぱいに笑みを広げている。
「はい。杖の工房を開こうと思って」
「杖! こんな辺境で? まあいいわ、とにかくこれ食べなさい。ひどい顔色」
籠からパンを一つ引き抜いて、私の手に半ば押しつけるようにして渡してくる。反論する隙すらない。隣のパン屋の女主人マルタ——この街で私が最初に言葉を交わした相手が彼女でよかったと、後になって何度思ったか知れない。
焼きたてのパンは柔らかくて、ほのかに甘くて、ここ数日ろくに食事を取れなかった身体に深く沁みた。目の奥がじわりと熱くなったのを、パンを頬張ることで誤魔化した。
工房の準備には三日かかった。掃除、棚の補修、最低限の工具の調達。資金は十五年分の小遣いを少しずつ貯めたもので、前の人生で身についた「いつでも辞められる貯金」の習性がまさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
家賃と工具を揃えると、手元に残った金額はあまり心強いものではない。
長期戦の覚悟はしている。けれどまず——実績がいる。
冒険者ギルドの杖師登録を取ること。全てはそこからだ。
*
ギルド支部の扉を押し開けると、受付の奥から禿頭の大柄な男が現れた。冒険者ギルド・グラーツ支部長、トマス。四十がらみの実務家然とした眼差しが、品定めするようにこちらを射抜く。
「杖師登録の申請か。……ずいぶん若いな。師匠は」
「独学です」
トマスの眉がぴくりと動いた。杖師は通常、ギルドか個人の工房で何年も修業を積んでから独立する。独学の二文字が信用されないのは分かっていた。
「実技審査がある。ここで杖を一本、作ってもらう」
審査室には基本的な工具と素材が揃えてあった。核魔石はB級——高級ではないが実用品としては悪くない。
木材を選び、削り始める。
ここからは、余計なことを考えない時間だ。前の人生で図面と向き合っていた頃と同じ、指先と頭だけが研ぎ澄まされていく感覚。魔力伝導路を構想し、流体力学の原理を魔法理論に翻訳して、木材の繊維の方向と魔力の流れを噛み合わせる。パイプの太さで水圧を稼ぐのではなく、水路そのものの設計で流れを最適化するという発想——それが、私の杖の核にある思想だった。
一時間ほどで仕上がった杖は、装飾のない素朴な見た目だった。
「では、発動テストを」
壁の標的盤に向けて、基本の攻撃魔法を放つ。
杖を通った魔力が標的盤に到達し、威力の数値が表示される。魔力量が少ない人間が作った杖は出力も低い——この世界の常識では、そういうことになっている。
数値が跳ねた。
トマスが目を見開いた。表示された数字を二度見し、それからゆっくりと私の手元の杖に視線を下ろす。
「……もう一度」
二発目も同水準。再現性がある。偶然の揺れではなく、設計の精度だと証明するにはそれで十分だった。
トマスが腕を組んだまま、数秒間黙り込んだ。
「あんたの魔力量は、うちに来る冒険者の平均以下だ。なのにこの出力は——A級魔石を使った高級品と並ぶか、それ以上。どうなってる」
「杖の内部構造を最適化しています。魔力の伝導効率を上げれば、投入量が少なくても出力は確保できます」
本当はもっと詳しく語りたかった。でも技術の核をべらべら話すわけにはいかない。前の人生で「特許出願前の技術は社外秘」と叩き込まれた習慣が、ここでも働いていた。
トマスは少し困ったような顔をしてから、短く息を吐いた。
「——登録を許可する。証書は明日発行だ」
声にまだ戸惑いが残っていたけれど、彼は数値で判断してくれた。実力を、規定通りに、公正に。それが今の私には何よりもありがたかった。
*
看板を出した。
工房を開けた。
客は——来なかった。
一日目も、五日目も、十日目も。
「元公爵令嬢」「婚約破棄された女」。王都から流れてきた噂がどこまで正確なのかは分からないけれど、冒険者たちが工房の前を足早に通り過ぎていくのを窓越しに眺める日が続いた。
朝、マルタが焼きたてのパンを差し入れてくれる。「気長にやんなさいよ、あんたは大丈夫」と言って、帰り際にぐるりと私の顔を覗き込んで「ちゃんと寝てる? 目の下」と眉を寄せる。大きなお世話だと思いながら、その声だけでずいぶん息がしやすくなるのだから、現金なものだった。
十日目の夕方。
工房の扉が、乱暴に押し開けられた。
革鎧の中年の男が、右手に折れた杖を握って飛び込んできた。額に汗を滲ませ、息が上がっている。
「杖師がいると聞いた。——これ、直せるか」
折れた杖を受け取った瞬間、指先に職人としての好奇心が走った。
核魔石はまだ生きている。だが魔力伝導路が完全に断裂していて、このまま使えば暴発する危険がある。男の焦り方から察するに、明日の探索に杖が必要なのだろう。
「修理できます。ただ、内部構造を組み直させてください。伝導路を繋ぐだけだと、また同じところから折れます」
「構造から? どれくらいかかる」
「今夜中に」
男の目に半信半疑の色が浮かんだ。けれど他に選択肢がないのだろう、ため息まじりに「頼む」と一言だけ残して、杖を預けてくれた。
そこからは没頭した。
折れた杖を分解し、伝導路を一から引き直す。元の設計は魔力を力任せに押し通す旧式の構造で、素人目には頑丈に見えても、繰り返しの衝撃に弱い。前の人生で他社製品の故障分析をしていた頃の勘が動く——ただ直すだけじゃ意味がない。直した後のほうが良くなっていなければ、修理とは呼べない。
マルタがいつの間にか裏口からスープを差し入れてくれていた。冷める前に一口だけ飲んで、また手を動かした。
夜明け前に仕上がった杖は、見た目にはほとんど変わらない。けれど中身は別物だ。
翌日の昼過ぎ。
男が工房の扉を開けた瞬間の顔を、たぶん私はずっと忘れない。
「おい——なんだ、これ」
声が裏返っていた。
「精度が全然違う。同じ杖か疑ったぞ。狙った場所に魔法が吸い込まれるように飛ぶ——今まで俺が使ってたのは何だったんだ」
「伝導路を再設計しただけです。核魔石も木材も、元のものをそのまま使っています」
「同じ素材で、ここまで変わるのか……」
男——ハンスと名乗った——は、杖を握り直しながらしばらく言葉を探していた。やがて顔を上げた時、半信半疑の色はもう欠片も残っていなかった。
「あんた、名前は」
「リーネです」
「リーネさんか。……仲間にも話していいか」
「もちろん」
ハンスが去った後、工房の椅子に深く座り込んで、天井を見上げた。
込み上げてくるものがあった。抑える必要はないのだと分かっていても、うまく顔が動かない。唇が震えるのを手の甲で押さえて、ゆっくりと息を吐いた。
認められた。
魔力量じゃない。杖の中身を見て、「これはすごい」と言ってもらえた。自分の手の仕事が、ちゃんと誰かの役に立った。
——ああ。このために、ここまで来たんだ。
それから数日で、工房を訪ねてくる冒険者が増え始めた。ハンスが仲間に話してくれたらしく、恐る恐るといった顔で扉を開ける若い冒険者もいれば、ハンスに紹介されたと真っ直ぐに名乗る者もいた。
三人目の若い冒険者が、仕上がった杖を受け取りながら何気なく言った。
「そういえば最近、似たようなこと言ってる人が王都にもいるって聞きましたよ。騎士団の副団長だったかな——使ってる杖がすごくて、それを作った杖師をずっと探してるって」
心臓がひとつだけ、強く打った。
三年前の夏に手放した、あの一本。匿名で市場に流したはずの試作品。まさか——いや、考えすぎだ。杖師は他にもいる。
「……へえ」
努めて穏やかに相槌を打って、削りかけの木材に視線を落とした。指先がわずかに震えているのを、木目を辿るふりで隠した。
その日の夕方、トマスが工房に顔を出した。
いつもの腕組みの姿勢で入ってきたのに、少しだけ表情がやわらかい。売上が立ち始めたことをギルドの記録で知ったのかもしれない。
けれど彼が口にしたのは、世間話ではなかった。
「リーネさん。一つ伝えておく」
「はい」
「最近、王都の騎士団から各ギルド支部に問い合わせが回ってきている。"特定の設計特徴を持つ杖を製作した杖師の情報を求む"——あんたの杖を検査した時に、ふと思い出した」
窓の外はもう茜色だった。グラーツの低い屋根の連なりが、夕日に輪郭を滲ませている。
トマスが何を言おうとしているのか、頭では分かった。でも胸の奥が追いつかない。
三年前に手放したあの杖が、どこかで、まだ生きている。
そしてその持ち主が——私を、探してくれている。
「……そう、ですか」
右手で握った木材の感触が、やけに強く掌に食い込んだ。




