第1話 断罪の朝、私は自由を選ぶ
春の陽が大広間のステンドグラスを貫いて、石畳に色とりどりの光を散らしている。赤、青、金。まるで祝福の朝のような光の中で、私の七年間が終わりを告げた。
「——よって、リーネ・アシェンバッハ嬢との婚約を、本日をもって正式に解消する」
ヴィクトル様の声は、よく通った。
さすがハイデン侯爵家の嫡男だと思う。こういう場面で声を張ることに慣れている人の、淀みのない発声。社交の場で何度も聞いた、人の耳に心地よく届く声だ。七年間、私はこの声に「リーネ」と呼ばれるたびに背筋を正してきたけれど、今日はなぜか、他人の声のように遠く聞こえた。
理由は簡潔だった。
魔力量の著しい不足により、ハイデン侯爵家の伴侶として不適格——。
列席する貴族たちの間にさざ波のようなざわめきが走る。けれど驚きの色は薄い。「やはり」と確認するような空気だった。アシェンバッハ公爵家の長女は魔力が弱い——社交界では周知の事実だ。むしろ七年もよく続いたものだと、そう思われているのだろう。
視線の端で、何人かの令嬢が扇の陰に口元を隠しているのが見えた。同情か、嘲りか、あるいはその両方。
指先が冷たい。足の裏が、靴の中でじんわりと汗ばんでいる。
——別に、構わない。
そう自分に言い聞かせたのではなく、本当にそう感じたことに少し驚いた。悲しくないわけではない。七年は長い。その間に覚えた作法も、身につけた教養も、侯爵夫人にふさわしくあろうと磨いた全てが、「魔力量」のひと言で無かったことにされる理不尽くらい、ちゃんと分かっている。
でも——ああ、この感覚には覚えがあった。
前の人生で、十年働いた会社に退職届を出したあの朝の感覚だ。
あの時も、こんなふうに世界が静かだった。毎晩終電で帰って、休日出勤が当たり前で、「君がいないと回らない」と上司に言われるたびに少しだけ誇らしかった。けれどある朝、始発電車の窓に映った自分の顔を見て、ふと気づいたのだ。
回っていないのは、私の人生のほうだった。
結局、あの人生では退職届を出す前に身体が先に限界を迎えてしまったけれど。
過労死。三十二歳。製品設計部。
目が覚めたら異世界の赤ん坊で、名門公爵家の長女で、けれど魔力は人の何分の一しかなくて。それでも懲りずに、また別の「期待」に応えようとして、七年。
——もう、いいだろう。
ヴィクトル様がこちらを見ている。返答を待つその碧い瞳は穏やかで、罪悪感があるのかもしれないし、ないのかもしれない。一瞬だけ——本当に一瞬だけ、彼の視線が列席者の中の誰かへ向かって揺れたような気がした。追いかける気にはなれなかった。
私は息を整え、口を開いた。
「承知いたしました」
思ったより声が落ち着いていたのは、前の人生で身につけた「感情を声に出さない技術」のおかげだと思う。泣いても怒っても成果物の締切は動かないと、あの頃に骨の髄まで学んだ。
「婚約の解消、謹んでお受けいたします」
ここで終われば、令嬢としては満点の対応だったのだろう。うつむいて、静かに退場する。それが「正しい敗者の振る舞い」だ。
私は続けた。
「——それと。本日をもちまして、アシェンバッハ公爵家からも自主退去いたします」
広間の空気が一瞬で変わった。さっきまでのざわめきとは質が違う、はっきりとした驚きの波。婚約破棄だけでも十分な屈辱なのに、実家からも出るというのだ。貴族令嬢としての後ろ盾を全て失うことを、自分から選ぶ人間を見る目——好奇と困惑と、わずかな畏れが入り混じった空気。
でもこれは、追い出されるのではない。自分で出るのだ。
前の人生で学んだ数少ない教訓がある。辞めるなら、追い出される前に自分から出ろ。そのほうが条件交渉ができる。
「つきましては、私個人の制作物の持ち出しを申請いたします」
声を張った。この一文だけは、聞き逃されてはならない。
「王国民法第三十七条により、個人の創作による制作物は、婚姻および家督の帰属とは独立した個人資産に該当いたします。ご確認いただけますでしょうか」
静寂。
断罪の場で法律の条文を引く令嬢を、この広間の誰も想定していなかったらしい。ヴィクトル様の眉がぴくりと動いた。前世で退職時に有給休暇の残日数を人事に突きつけた時も、相手はこんな顔をしていた。「まさかこの子が言い返すとは」という顔。
悪いけれど、私は二度目の人生なのだ。泣き寝入りの仕方は知っているけれど、もうそれを選ぶつもりはない。
父——ルドヴィク・アシェンバッハ公爵は、この間ずっと黙っていた。
娘が婚約を破棄されている間も。家を出ると宣言した時も。法律を引いた時も。
壇上の椅子に深く腰掛けた父の表情は、遠くてよく見えなかった。見えなかったのか、見たくなかったのか、自分でもよく分からない。ただ、ヴィクトル様の言葉よりもずっと深い場所を、父の沈黙が刺していた。
声を上げて怒ってくれたほうがまだよかった。「そんなことは許さない」と。一言でもそう言ってくれたなら。
——やめよう。期待しない技術は、前の人生で十分に磨いた。
「……認める」
父がようやく口にした言葉は、その二文字だけだった。
私はまっすぐ前を向いたまま一礼した。スカートの裾を摘む指先がかすかに震えていることには、広間の誰も気づいていないはずだ。気づかせない。これは私の震えであって、この人たちに見せるものじゃない。
控えの間に戻ると、荷物はすでに馬車に積まれていた。
——手配が、速い。
つまり、こうなることは家の中でも想定されていたということだ。娘がいなくなる準備を、事前に整えておくほどには。
分かっていたことだ。分かっていたけれど、実際に用意されているのを見ると、肺の奥がきゅっと窄まる感じがした。一度だけ目を閉じて、深く息を吐いた。
自室に入り、寝台の下から木箱を三つ引き出す。これだけは、絶対に誰にも触らせなかった。
十五年分の試作杖と、制作ノート。
公爵令嬢としての刺繍でも礼儀作法の教本でもない。夜ごと密かに使用人の目を盗んで削り続けた杖の試作品と、前世の工学知識をこの世界の魔法理論に繋げようと書き殴った理論のノート。何百回も失敗して、何百回も計算をやり直した痕跡。
木箱の蓋を開けると、杖たちが並んでいる。不恰好な初期作から、最近ようやく形になった最新作まで。
全部で——二十三本。
あれ、と思った。一本足りない。
ああ、そうだ。三年前の夏だった。出来が良すぎて少し怖くなった試作品があった。私の理論が本当に正しいのか確かめたくて、でも自分で使う勇気がなくて、旅商人に頼んで匿名で市場に流したのだった。
あの杖は今、どこかの誰かの手にあるのだろうか。
ちゃんと、役に立てているだろうか。
胸の奥が少しだけ温かくなった。この広間で起きたことの全てよりも、顔も知らない誰かがあの杖を振っている姿を想像するほうが、ずっと大事なことのように思えた。
——行こう。
木箱の蓋を閉じ、荷物を馬車に運ぶ。使用人が二人、手伝ってくれた。「お嬢様」と呼びかけようとして口をつぐんだ若い侍女の目が赤いのを見て、少し笑った。泣かないで、とは言わなかった。代わりに「ありがとう」とだけ伝えた。
馬車に乗り込む時、屋敷の二階の窓に人影が見えた気がした。
振り返らなかった。
前の人生の最後の日に、終電で帰ったオフィスビルを振り返らなかったのと同じだ。振り返ると足が止まる。足が止まると、また期待してしまう。
「グラーツへお願いします。辺境の交易街です」
御者に行き先を告げると、馬車がゆっくりと動き出した。車輪が砂利を噛む音が、やけに大きく響いた。
膝の上に木箱を抱え、一番上のノートを取り出して開く。昨夜書き足したばかりのページ——魔力伝導路の効率化に関する新しい計算式。まだ検証が終わっていない仮説がいくつもある。試したい構造がある。削りたい杖がある。
「——これがあれば」
声に出したら、少しだけ掠れていた。泣いてはいない。泣いてはいないけれど、喉の奥がじんわりと熱い。
「これがあれば、どこでだってやっていける」
窓の外を、春の風が吹き抜けていく。王都の尖塔が少しずつ小さくなり、街道の両側に若葉の丘が広がり始めた。
行き先に待っているのは、地位でも名誉でもない。
自分の手で削った杖が、誰かの役に立つかもしれないという、ただそれだけの可能性。
それで十分だと——二度目の人生を生きる私は、もう知っている。
荷台では、十五年分の木箱が、春の陽を浴びて静かに揺れていた。




