第12話 杖師の隣で
秋の陽が、大広間のステンドグラスを貫いて石畳に色を散らしている。
赤、青、金。あの春の朝と同じ光だった。
同じ広間。同じ石畳。同じ高い天井から降り注ぐ色とりどりの光の帯。半年前、この場所で私の婚約は終わり、私の人生は壊れた——と、あの時は思った。
壊れたのではなかった。あれは、始まりだった。
「王室杖師顧問、リーネ・アシェンバッハ」
国王陛下の声が広間に響いた。
壇上に進み出て、片膝をつく。陛下から任命の証書を受け取る手は、震えていなかった。あの春の朝、スカートの裾を摘んで一礼した時には指先が震えていた。今は違う。この手は杖を何百本も削り、暴走杖を分解し、公聴会で証拠を掲げた手だ。もう震える理由がない。
「この場に立てるのは」
立ち上がって、列席者に向き合った。貴族、ギルド関係者、騎士団の将官たち。数百の視線が集まっている。
「私の杖を信じて使ってくださった冒険者の方々と、私の技術を正当に評価してくださった全ての方々のおかげです。王室杖師顧問として、王国の杖の安全と品質の向上に力を尽くします」
短い挨拶だった。復讐の言葉はない。旧敵への当てつけもない。最後に立つ人間が、最も少ない言葉で語るのが一番強い。前の人生の終わりに、それだけは学んでいた。
列席者の中に、ヴィクトル・ハイデンの姿があった。
侯爵家嫡男として式典に出席する義務があるのだろう。後列の隅に座り、こちらを見ていた。その目に何が浮かんでいるのか——確かめなかった。視線を向けなかった。
意識的に無視したのではない。ただ、目が行かなかった。あの人の席は、もう私の視界の中にない。
隣に立っている人のほうに、自然と目が向く。
クラウス・ヴェルナー。随伴者として、叙任式の間ずっと私の右側に立っていた。
叙任式の公式記録には、被任命者の随伴者の名前が記される。それは社交界においては事実上の関係宣言だ。騎士階級の副団長が、元公爵令嬢の叙任式に随伴者として名を連ねる。そのことの意味を、この広間にいる全員が理解している。
クラウスは相変わらずの無表情で、真っ直ぐ前を向いていた。緊張しているのかもしれない。でも、この人の緊張は顔ではなく肩に出る。わずかにいつもより肩が上がっている。
少しだけ、笑ってしまった。
*
叙任式が終わり、王都からグラーツに戻ったのは翌日の夕方だった。
秋の夕暮れが工房の窓を橙色に染めている。マルタが「おかえりなさい、顧問様」とにやにやしながらパンを持ってきて、「やめてくださいマルタさん」と返すいつものやりとりを済ませた後、工房には二人きりになった。
クラウスが作業台の前に立っている。いつもなら椅子に座るのに、今日は立ったままだった。何かを言おうとしている気配が、背中の角度から伝わってくる。
「……クラウスさん?」
「リーネ」
呼び方が違った。
「さん」がない。今まで一度も、名前だけで呼ばれたことはなかった。
心臓が一拍、大きく打った。
「俺は杖のことは分からない」
クラウスはこちらを見ていなかった。作業台の上の削りかけの杖に目を落としたまま、硬い声で言葉を並べている。
「政治も得意じゃない。社交の作法も知らない」
分かっている。全部分かっている。この人は剣と戦術と、黙って荷物を運ぶことしかできない不器用な人間だ。
「だが——」
間があった。長い間だった。
「お前が杖を削っている時間を、隣で見ていたい」
顔を上げたクラウスの灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
「それだけでいいなら」
声が少し掠れていた。この人が緊張で声を掠れさせるところを、初めて見た。
胸の奥がぎゅっと詰まって、それから、ゆっくりとほどけた。
「守るって、言わなくなったね」
「……隣にいると、言い直した」
笑った。目の奥がじんわりと熱くなったけれど、今度は堪えなかった。堪える必要がなかった。
「合格」
クラウスの頬が赤くなった。
鉄面皮の騎士団副団長が、作業台の前で頬を赤くしている。この光景を見られるのは世界で私だけだと思うと、笑いが止まらなかった。
「……笑うな」
「無理です」
「笑うなと言っている」
「だって——」
肩が震えるほど笑って、涙が滲んで、でもそれは嬉しい涙だった。
「だって、嬉しいんですから。笑うに決まってるじゃないですか」
クラウスが口を閉じた。頬はまだ赤かったけれど、目の奥にほんの微かな——微かだけれど確かな——光があった。あの三年前の杖を見た時と同じ、静かで深い光。
「……そうか」
短い返事。短い返事の中に、不器用な人間が詰め込めるだけの全てが入っている。
私はその「そうか」を、一生忘れないだろうと思った。
*
それから、しばらくの時間が流れた。
工房は手狭になった。依頼が増え、王都からの問い合わせも入るようになり、若い見習いを一人雇った。杖師志望の十七歳の少女で、初日から目を輝かせて木材を削っている姿が、どこか昔の自分に似ていた。
核魔石の仕入れルートも安定した。素材商のヘルマンが「あの時は本当に申し訳なかった」と頭を下げに来て、今では一番の取引先になっている。
マルタは相変わらず毎朝パンを持ってくる。量だけ増えた。見習いの分と、もう一人分。
「新婚さんの工房は繁盛するって言うしねぇ」
マルタが、配達がてら作業台を拭きながら、にまにまと言った。
「まだ新婚じゃないです!」
「あら、『まだ』? じゃあそのうちなるのね」
「——マルタさん!」
顔が熱い。見習いの少女がくすくす笑っている。もう手遅れだ。
工房の裏口から、クラウスが木材の束を抱えて入ってきた。額に薄く汗をかいている。巡回の合間にグラーツに寄るたびに、何かしら運んでくれるのは一向に変わらない。
「筋トレですか」
私が聞くと、クラウスは木材を棚に置いてから、ひと呼吸置いて答えた。
「隣にいるだけだ」
マルタが「あらあら」と声を上げ、見習いが目を輝かせ、私はもう耳まで真っ赤になっていた。
クラウスだけがいつも通りの無表情で——けれど耳の先が、ほんのりと赤かった。
秋の陽が窓から差し込んで、工房の中を温かく照らしている。作業台には削りかけの杖があり、棚には木材が並び、隣からはパンの匂いが漂ってくる。
何も特別なことはない、ただの日常だ。
でもこの日常は、私が自分の手で削り出したものだ。誰かに与えられたのではなく、一本ずつ、一日ずつ、自分で選び取ったもの。
だから、あたたかい。
窓の外を秋の風が通り抜けていく。グラーツの街並みの向こうに、透き通った空が広がっている。
この空の下で、明日もまた杖を削る。
隣には、不器用な騎士がいる。
——それで十分すぎるくらい、十分だった。




