第11話 もう遅いとは言わない
工房に帰った翌朝、マルタがいつものようにパンを持ってきた。
「おかえり。はい、食べなさい」
王都で何があったかなど一言も聞かず、焼きたてのパンを差し出すだけ。変わらない。世界がどれだけ動いても、この人のパンは変わらない。それがどれほどありがたいか、今なら分かる。
公聴会の結果はグラーツにも届いていた。王立杖師ギルド長の不正が公に断罪されたという話は、冒険者ギルドの情報網で瞬く間に広がったらしい。工房への依頼は明らかに増えて、隣町の素材商から「核魔石を卸したい」と連絡が来た時には少し笑ってしまった。数ヶ月前は一個も売ってもらえなかったのに。
預かり杖の修理を再開し、新しい依頼の受付を始め、朝から晩まで工具を握る日々が戻ってきた。手を動かしている間は余計なことを考えなくて済む。忙しいのは、嬉しい。
クラウスは巡回の合間に工房に戻ってきていた。相変わらず黙って荷物を運んでいる。あの公聴会の後、二人の間に流れる空気が少し変わった。以前より静かで、以前より近い。言葉は増えないのに距離が縮まっている不思議な感覚を、私は嫌いではなかった。
帰還から四日目の午後、見慣れない馬車が通りに停まった。
紋章のない、しかし仕立ての良い黒塗りの馬車。御者が扉を開けると、中から一人の男が降りてきた。
背が高い。白髪交じりの髪。仕立ての良い外套。護衛も従者も連れていない。
——父だった。
ルドヴィク・アシェンバッハ公爵が、一人でグラーツの工房の前に立っている。
マルタが裏口から顔を出しかけて、空気を読んだのか音もなく引っ込んだ。工房の奥にいたクラウスの気配も、いつの間にか裏手に移動している。
父は工房の入口に立ったまま、中を見渡した。壁にかけた工具、棚に並ぶ杖、作業台の木屑。私がこの数ヶ月で一つずつ積み上げてきたもの全てを、ゆっくりと目に収めていた。
「……入ってもいいか」
その声は、記憶の中の父よりもずっと小さかった。
「どうぞ」
向かい合って座った。父と二人きりで向かい合うのは、この人生で初めてかもしれない。公爵邸では食卓を挟んでも会話はほとんどなかった。いつも距離があった。
「公聴会のことは聞いた」
父が切り出した。
「お前が一人で証言台に立ったことも。杖師ギルド長の不正を暴いたことも」
黙って聞いていた。
父が頭を下げた。
公爵が頭を下げるところを、私は見たことがなかった。あの広い背中が丸まって、白髪交じりの頭がゆっくりと傾いていく。
「——守れなかった。あの日、お前を送り出すべきではなかった。婚約破棄に異議を申し立てるべきだった」
一拍。
「取り戻したい」
胸が痛んだ。痛まないはずだと思っていたのに。
この人はあの春の広間で黙っていた。退去の準備が手配されていた。「認める」の二文字だけで娘を手放した。それは事実で、消えない。
でも——今、頭を下げている。
前の人生でも似たようなことがあった。退職した後で「辞めさせるべきじゃなかった」と連絡してきた上司。あの時は怒りがあったから冷たく切り捨てた。
今は怒りがない。
怒りがないことが、何よりも遠くまで来た証拠だった。
「お父様」
父が顔を上げた。目が少し赤い。
「恨んではいません」
嘘ではなかった。恨みの感情は、この数ヶ月のどこかで消えていた。杖を削っている間に、マルタのパンを頬張っている間に、クラウスが無言で荷物を運ぶ背中を見ている間に、いつの間にか溶けてなくなっていた。
「でも、あの家に戻ることはありません」
父の表情が揺れた。
「私はここに、自分の居場所を見つけました。自分の手で作って、自分の足で立てる場所です。それを手放すことは——もうできません」
「もう遅い」とは言わなかった。言えたけれど、言わなかった。この人を罰したいわけではない。ただ、私の人生の設計図に、もう公爵家の部屋は描かれていない。それだけのことだ。
父は長い間黙っていた。反論はしなかった。できなかったのだと思う。
やがてゆっくりと立ち上がり、「……そうか」とだけ言って、工房の扉に手をかけた。
「お父様」
振り返った父に、言葉を添えた。
「お元気で」
父が一瞬目を伏せて、それからうなずいて、出ていった。
*
工房の門の脇に、布で包んだ杖を立てかけておいた。
父の魔力特性に合わせて削った一本。幼い頃、書斎で父が杖を振るうのを廊下から何度も覗き見していた。右手の薬指だけ少し浮く癖。魔力を込める時に微かに左に傾く手首。二十年間、口はきかなくても、杖師の目はずっと見ていた。
添えたメモには一行だけ書いた。
「使ってください。杖師として、お客様に最適な杖を渡しただけです。」
窓の隙間から見ていた。
父が門を出て、足を止めた。布に包まれた杖に気づき、手に取り、メモを読んだ。
長い間、杖を握ったまま動かなかった。
やがてその肩が小さく震えたのが見えた瞬間、私は窓から目をそらした。最後まで見届ける必要はなかった。あの杖が、私の答えの全てだ。恨んではいない。でも戻れない。杖師としてできることはした。それ以上でも、それ以下でもない。
*
裏口から、クラウスが入ってきた。
手には水瓶。いつの間に汲んできたのだろう。作業台の端に静かに置いて、何も言わずに定位置の椅子に座った。
「……出てこなかったね」
「ああ」
「父が来てるの、気づいてたでしょう」
「ああ」
「なのに出てこなかった」
クラウスがこちらを見た。灰色の瞳はいつも通り静かだった。
「お前の話だ。俺が出る場じゃない」
胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
数ヶ月前のこの人なら、護衛として隣に立っていただろう。公爵相手でも臆さずに、私を守る姿勢で。でも今日は、待ってくれた。私が一人で向き合うのを、裏で水を汲みながら、待っていてくれた。
「……ちゃんと変わってくれたんだ」
声に出たのは独り言に近かった。クラウスに聞こえたかどうかは分からない。ただ、椅子に座った彼の耳がほんのり赤くなっているのが、午後の陽の中で見えた気がした。
その日の夕方、王宮の紋章が押された書状が届いた。
封を切る。
『リーネ・アシェンバッハ殿を王室杖師顧問に任命する。叙任式は翌月十五日、王宮大広間にて執り行う。——国王陛下の名において』
書状を手に、マルタを呼んだ。クラウスにも見せた。
マルタが「あんたならそうなると思ってたわよ!」と目を潤ませながら大声で言い、クラウスは短く「ああ」とだけ答えた。
三人の温度差がおかしくて、笑った。声を上げて、久しぶりに笑った。
窓の外ではグラーツの空が秋の色に移り始めている。あの春の朝に馬車で出た時と同じ空だ。でも今の私には、振り返る理由がない。
隣にマルタのパンがあって、後ろにクラウスの気配があって、手の中に自分の杖がある。
半年前には何も持っていなかった。今は、こんなにも手の中があたたかい。




