第七話「川沿いの話」
ある夕方、二人でアルノ川の橋まで歩いた。
父が外出していた。
その隙に、出た。
川が流れていた。
橋の上から、川を見た。
夕暮れの光が、川に映っていた。
「きれいですね」とミーナは言った。
「きれいです」とハルヴィオは言った。「描きたいです」
「今は、画板がありません」
「目で描きます」とハルヴィオは言った。「目で見て、覚えます。後で描きます」
「目で覚えられるんですか」
「覚えられます」とハルヴィオは言った。「光の角度。水の色。橋の石の感じ。全部覚えます」
「記憶の中に、描くんですね」とミーナは言った。
「そうです」とハルヴィオは言った。「記憶の中に、たくさんの絵があります」
ミーナは川を見た。
「私も、記憶の中に帳簿があります」と言った。
「帳簿が」
「数字を、覚えます」とミーナは言った。「父の店の、何年分もの売上が、記憶の中にあります」
「絵師の記憶と、薬種商の記憶は、似ているかもしれません」とハルヴィオは言った。
「見たものを、覚えておく」とミーナは言った。
「そうです」
川が流れていた。
二人は並んで、川を見ていた。
「縁談のことを、どう思っていますか」とハルヴィオは言った。
「どうして聞くんですか」
「聞きたかったので」とハルヴィオは言った。
「絵師は、直接ですね」とミーナは言った。
「描く時も、直接描きます」とハルヴィオは言った。「回り道が苦手です」
ミーナは、川を見た。
「まだ、決めていません」と言った。
「そうですか」とハルヴィオは言った。
「あなたは、フィレンツェにいつまでいますか」とミーナは言った。
「絵が完成するまでは」とハルヴィオは言った。「それから先は、分かりません」
川の音がした。
夕暮れが、深くなっていった。
(第七話 了)




