第19話:算定の季節と不穏な影
六月も終わりに差し掛かり、メルティアス魔導学園の空気は目に見えて熱を帯び始めていた。
校門の掲示板に貼り出された一枚の羊皮紙。
そこには力強い筆致で、『六月三十日、学年別魔導大会開催。全生徒、参加義務あり』と記されている。
周囲の生徒たちが祭りの予感に浮き足立ち、互いの魔法を競い合うように談笑する中、グランだけは掲示板の前で、遠い目をして深い溜息をついていた。
(……六月三十日、か)
前世の日本であれば、事務職にとっての「地獄の始まり」だ。
算定基礎届の提出期限、労働保険の年度更新の締め切り、さらには子会社の源泉所得税の納期特例。
デスクの上には処理待ちの書類が地層のように積み上がり、深夜まで響くキーボードの打鍵音と、ぬるくなったお茶の味。
誰もが殺気立ち、目が血走っていたあの季節。
よく手伝わされていたが、俺はこれ、本当に事務職の仕事か? とよく思ったことだ。
(この世界に、社会保険も労働保険もなくて本当に良かったよ。もしそんな事務作業まで転生してたら、今頃ストレスで再転生を願ってる……。だが、業務はないがその代わりに『魔導大会』という名の強制業務か。人生、そう上手くはいかないな)
そんな「職業病」とも言える感傷に浸りながら、グランは学生寮へと帰宅した。
しかし、自室のドアの前に立った瞬間、彼の「アンサートーカー」が警鐘を鳴らす。
『……マスター、警戒を。室内に不審な気配。遮蔽術式により気配が殺されています。心拍数、呼吸音ともに極限まで抑えられていますが、対象は一人です』
(……侵入者? ここは平民の学生寮だ。泥棒はありえない。俺に対して明確な目的を持っているな……)
グランは内心で舌打ちし、魔力を練り上げる。
そのまま前世の某格付け番組のようにドアを一気に開け、室内へと踏み込んだ。
「動くな。……って、え?」
内心で「正解! おめでとうございます!」と言って不法侵入者をぶっ飛ばしそうになったが、そこにいたのは、部屋の椅子に端然と腰掛け、悲壮なまでに澄んだ瞳でグランを見つめる一人の少女だった。
「……夜分に失礼いたします、グラン様」
「レイン……? なぜここに……というか、なんでまた様付けなんだよ。あと鍵をかけたはずなんだが」
「魔法術式で厳重にかけられた鍵ならともかく、物理的な鍵であれば私の技術で解錠できます。それに……あなたにお呼びいただければ、いつでも窓からでも、あるいは天井からでも参りましたのに」
「こえーよ。というかここ、平民の男子寮だぞ? 侯爵家の令嬢のメイドであり貴族でもあるお前がこんなところにいたら、外聞もそうだし、お前の進退も大問題になるだろ」
冗談めかして言ったグランだったが、レインの表情には欠片の余裕もなかった。
彼女は椅子から滑り落ちるように床へ膝をつくと、貴族としての矜持も、メイドとしての冷静さもかなぐり捨て、板張りの床に額を擦りつけた。
「お願いです。どうか、旦那様を……ヴァーミリオン侯爵をお助けください」
「……おいおい、頭を上げてくれ。一体何があった?」
床に額をつけたまま、レインは震える声で真実を告げた。
グランの存在が、ついに王家に露見したということ。
エルスメリアの『魔力核欠乏症』は、現代魔導学では治療不可能、死を待つのみとされた不治の病だった。その彼女が、「奇跡」の回復を遂げたのだ。
当初はグランとの約束を守り、「どこの誰とも知れぬ、名もなき旅の治療師が噂を聞きつけて治した」と言い張っていた侯爵家だったが、しびれを切らした王家が強硬手段に出たのだという。
「王家への情報秘匿による叛逆意志あり……。旦那様は今、その罪状で内密に王城へ連行されております。王家からの通達はただ一つ。旦那様の罪を放免してほしくば、その『治療師』を連れてこい、と」
「……なるほど。人質作戦か。古典的だが、最も効率的な『外圧』だな」
グランは冷めた視線で状況を分析する。なぜ漏れたのか。
エルスメリアの病状が公然の秘密であった以上、回復したという事実そのものが「証拠」となってしまう。
それを隠し通すのは、難しかっただろう。
「唯一、真実を知る私がこの役目を与えられました。……ですがグラン様、これは卑劣な罠かもしれません。貴方様を王家の管理下に置き、都合よく利用するための醜い政治的策略の可能性が高いです。ですから……行くか行かないかは、貴方様がお決めください。旦那様も、あなたの自由を邪魔することだけは、ヴァーミリオンの血にかけて許されないと……」
レインは床に伏せたまま、声を絞り出す。
「私自身の命など、エルスメリア様を救っていただいたあの日から捨てております。貴方様がこのまま姿を隠すというのであれば、私は王城へ戻り、不手際の全ての責任を負って……首を括る覚悟です。グラン様、どうか……貴方様が気に病むことだけは……っ」
「やめろ。縁起でもないこと口にするな。そんなことをしたらせっかく助かったエルスメリアが悲しむし、お前の命はお前のものだ、軽々しく扱うんじゃない」
グランは大きな溜息を吐き、安っぽい紙パックのジュースをゴミ箱へ放り投げた。
(……自分がやったことの責任か……あのクソ女神、なかなか真理を突く言葉を言うじゃないか)
「レイン、顔を上げてくれ。その王城とやらに案内してくれ」
レインは顔を上げ、驚きに目を見開いた。その瞳には、救いへの希望と、自分を犠牲にしようとしたことへの羞恥が混ざり合っている。
「……ありがとうございます。……馬車は、寮の裏手に偽装したものを手配済みです」
「準備がいいな。よし、行こうか。……全く、六月三十日の繁忙期(大会)の前に、特大の緊急案件が入るとはな」
夜の闇に紛れ、一台の馬車が学園を後にした。
漆黒の車体は街灯の光を吸い込み、音もなく王城へと向かう。
揺れる馬車の中で、グランは対面に座るレインを眺めながら、今回の詳細を聞き始める。
「レイン、王城での接待……もとい、詰問相手は誰だ?」
「……それが、先ほど聞いたのですが……国王陛下ご本人のようなのです。軍部に取り込むなら王太子である第一王子か魔導師団長あたりだと思いましたが、どうも事情が違うようなのです」
「王自ら親裁か。なにかもっと大きな問題が起こっている感じがするな。最悪だ。……いいかレイン、俺が行く目的はあくまで『不当に被せられた容疑の解消』と『現状確認』だ。それ以上は何もしない」
「はい……。私共も、できうる限り貴方様を守る盾となります」
「いや、この国に属しているんだ。わざわざ王家を敵に回すようなこともする必要はない。いざとなれば俺がすべての責任を負って逃げる」
レインは深々と頭を下げる。
グランは窓の外、遠くにそびえる王城の尖塔を見つめた。
そこは、モブが立ち入るべき場所ではない。
だが、事態はすでに、一人のアラフォー平民の思惑を超えて加速していた。
グランの望む「平穏な学生生活」という名の計画書は、今、王家という巨大な権力によって、修復不能なほどに書き換えられようとしていたのである。




