第16話:翠の風
昨夜、食堂の隅で「四聖華に正体を明かす」と決意した際の勢いは、翌朝の少し冷えた空気の中で少しばかりの揺らぎを見せていた。
グランは自室の寝台で天井を仰ぎ、独りごちる。
(……いや、冷静になれ。今のあいつらにいきなり『よう、久しぶり』なんて声をかけてみろ。事情を説明するより先に、反射的に放たれる最高位魔法で、俺の今の抑えたステータス値なら文字通りチリになるのが目に見えてるぞ)
三人の弟子たちが纏うあの殺気は、尋常ではない。
グランは知らない。
あの日、聖域で自分たちを救い上げ、名前も告げずに送り出した唯一無二の存在。
彼女たちはこの五年間、その背中を追い、いつか四人揃ってあの時の恩人に再会し、立派になった姿を見せることだけを心の拠り所にしてきたのだ。
だが、エルスメリアの命の灯が消えれば、その悲願は永遠に叶わぬものとなる。
「四人で会いに行く」という彼女たちが何よりも大切に掲げてきた誓いが、無残に崩れ去ろうとしているのだ。
その絶望的な焦燥と、運命を覆せない自分たちの無力さへの怒りが、周囲の者すべてを拒絶する鋭い刃となって溢れ出していた。
(あのまま死なせたら、俺も助けた甲斐がないからな。……接触ルートを慎重に練るか)
だが、運命というやつは、いつだってグランの計画を嘲笑うように猛スピードで転がり始める。
昼食時。騒がしい学食の喧騒を避けるように隅の席にいたグランの背後に、一点の迷いもない足音が近づいてきた。
「……グラン様。少々、お時間をよろしいでしょうか」
振り返れば、そこには昨日庭園で出会ったメイド、レインが立っていた。
清楚な制服に身を包んでいるが、その瞳の奥には昨日の穏やかさはなく、抜き放たれた刃のような鋭さが宿っている。
「放課後、昨日の庭園でお待ちしております。……必ず、来てください」
それだけ告げて、彼女は風のように去っていった。
その一瞬のやり取りを見ていたクラスメイトの男子生徒たちが、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべてグランの肩を叩く。
「おいおいグラン! 今のはヴァーミリオン侯爵邸のメイド様じゃねえか! お前、まさかあのクールな美人メイドを落としたのか?」
「……バカ言え。侯爵家の使用人ってのはな、そのへんの騎士よりよっぽどプライドも家柄も高いんだ。俺みたいな冴えない平民、相手にされるわけないだろ。」
グランはため息を吐き、重い腰を上げた。
レインと仲良くなってエルスメリアへのツテを作るつもりだったが、そんな悠長な時間は残されていない。
それに、彼女のあの切実な、それでいて全てを賭したような眼差しを見れば、逃げるという選択肢は選べなかった。
放課後。
夕闇が庭園の色彩を濃く染め上げる頃、グランが約束の場所へ向かうと、そこには既にレインの姿があった。
彼女は一言も発さず、顎で「ついて来い」と促す。
案内された先は、学園の裏門付近。そこには漆黒の装甲に金色の紋章が刻まれた、重厚なヴァーミリオン侯爵家の馬車が控えていた。
グランが足を止め、警戒の眼差しを向けると、レインはゆっくりと振り返った。
「……侯爵様からの命令です。どのような手段を使ってでも、貴方を今夜中に連れて来いと。事情は話さず、有無を言わさずお連れするように、と」
「……随分な言い草だな。断ったら?」
「その時は、貴方のその特異な力を世間に公表し、その身を拘束してでも連れてくるよう言われています。力を隠したいのであれば、大人しく従え……ということです」
レインの一歩が、石畳を鋭く鳴らす。
その瞳には、昨日見せた優しさは微塵もない。
「お嬢様が助かるのであれば、私は鬼にでもなります。……お願いします……来てください、グラン様……」
(……なるほど。脅されて、仕方なく拉致される、か。……これなら『隠居したい平民』としての言い訳が完璧に立つな)
グランは内心でそんな「不純な妥協」を成立させた。
本心では一刻も早くエルスメリアの状態を診たかったのだ。
彼は肩をすくめ、観念したふりをして馬車に乗り込んだ。
ヴァーミリオン侯爵邸。
案内された最奥の病室で、グランは五年ぶりに「彼女」と再会した。
ベッドに横たわり眠っているエルスメリアは、病に侵されながらも、驚くほど美しく成長していた。
五年前の幼かった面影を、神聖な美しさが上書きしている。
その儚げな寝顔を見た瞬間、グランの胸に宿っていたのは「責任感」と、わずか一日ではあるが、かつての教え子に対する深い慈愛だった。
(……解析魔法、起動。原因を特定しろ)
グランは周囲に悟られぬよう、独り言のように呟く。
『了解。フルスキャン開始……原因を特定しました。魔力核欠乏症の本質は、魔力核の『構造的な欠損』です。原因は、五年前の聖域。魔獣の群れに襲われた際、まだ魔力核も魔力路も未発達な幼少期でありながら、彼女は仲間を守るため、身の丈に合わない超高密度の結界を維持し続けた。その際の過負荷により、核の構造がひび割れ、少しずつ崩壊を続けていたのです。状態が深刻の為、完治方法は手術のみです。回復魔法は延命措置くらいにしかなりません』
アンサートーカーの報告は、あの悪夢のような一日、みんなを守るために生まれ持った膨大な魔力をここぞという時に使った結果、自らの命を削っていたことを示していた。
「……回復魔法では、漏れ出す生命力を補填する延命が限界だ。根本的な治療には、魔力核を直接物理的に修復する『手術』が必要になる。……そして、それができるのは、俺だけだ」
グランの言葉に、傍らで見守っていたヴァーミリオン侯爵が身を乗り出した。
「手術……だと? 魔力核を、生身の体にメスを入れて弄るというのか? そんなこと、古今東西の魔導史にも例がない!」
「例がないなら、今ここで作ってやるよ。だが、平民の俺が、貴族の至宝たる令嬢の体に直接触れ、メスを入れる。外聞は最悪だぞ。……それでもやらせるか?」
グランは改めて、侯爵の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
その声には、一切の妥協を許さない重圧が宿っている。
侯爵が圧倒され、答えに詰まったその時、ベッドの上から微かな、しかし強い意志を孕んだ声が響いた。
「……お父様、わたくしに……言わせて」
エルスメリアは、いつの間にか微かに目を開けていた。目は開けているが恐らく意識が混濁して何も見えていない。呼吸をするのさえ苦しいはずだが、その瞳には消え入りそうな命の灯火を燃やし尽くすような、凄まじい覚悟が宿っている。
「わたくしには……まだ、やりたいことが、たくさんあるの……。みんなと一緒に、あの日の……あの人に……会いに行かなきゃいけないの。……わたくし一人が欠けてしまったら、あの子たちは……きっと、闇に落ちてしまう……。それだけは、絶対に嫌」
彼女は震える指先で、縋るようにグランの衣服を掴んだ。
「……お願いします。……助けて」
その必死な願いに、グランの胸が締め付けられる。
彼女はまだ、目の前の少年がかつての「彼」であることには気づいていない。
ただ、自分たちの夢を繋ぎ止めるために、見知らぬ少年にすべてを託したのだ。
「……わかった。……大丈夫だ、必ず助ける」
グランは短く答え、静かに掌をかざした。
正体を知られていないからこそ、今はただ、目の前の教え子の未来を繋ぎ止めるためだけに、相棒と理を超える。
(……アンサートーカー、正確な指示と補助を頼む。俺には医学の知識も、ましてや魔力核を弄る理屈もわからん。お前のナビにすべてを預けるぞ)
『了解。マスター、まずは彼女に麻酔を施しましょう。麻痺と睡眠魔法をかけてください。出力はこちらで調整します』
もうほとんど意識もない彼女に魔法をかける。しばらくすると静かな寝息が聞こえてきた。無事眠ったようだ。
『マスターの思考の主導権を一部制限し、運動中枢へのダイレクト介入を開始します。これより、マスターの肉体は私の演算に基づいた『最適解』のみをトレースします。……執刀を開始してください』
グランが右手を掲げた瞬間、指先から透き通るような蒼い魔力のメスが形成された。傍らで見守るヴァーミリオン侯爵とレインには、その瞬間のグランが「人」から「精密機械」へと変貌したように見えた。瞬きさえせず、一ミリの揺らぎもないその立ち姿。放たれるプレッシャーに、部屋の空気が凍りつく。
『では、始めましょう。腹部表面から魔力路へのアクセス。……マスター、右手を3ミリ下へ。12ヘルツの微細振動を維持しつつ、第一層を透過してください』
(わかった…… こうか?)
脳内で響くアンサートーカーの無機質な指示。
グランの肉体は、彼自身の焦りとは裏腹に、複雑な魔術式を淀みなく編み上げていく。
侯爵の目には、伝説の魔導師でも数時間はかかるであろう解析と術式構築を、グランがコンマ数秒で終わらせているように見えていた。
『次に魔力核の摘出。核のヒビから漏れ出す魔力を、マスターの魔力で相殺しつつ固定します。……肉体の出力を0.8%下方修正。……今です』
グランは収納魔法から、聖域でドロップした伝説級の希少金属、アダマンタイトとヒヒイロノカネを取り出した。
それらを魔力で融合させ、世界に二つとない「人工魔力核」の元になる合金をその場で精錬する。
拒絶反応を防ぐため、一度彼女のオリジナルの核を慎重に切り離し、合金と融合させ再構成。
神経の一本一本を光の糸で繋ぎ合わせるような、髪の毛一筋の狂いも許されない超精密作業。
これらすべてが、アンサートーカーの冷徹な計算に基づき、グランの指先を通じて「神業」として出力されていく。
やがて、合金と融合し、完全な球体へと再構築された魔力核が、再び彼女の体内へと戻された。
――その瞬間だった。
修復された魔力核が、今まで行き場を失い体内で淀んでいたエルスメリアの膨大な魔力を一滴残らず吸い込み、次の瞬間、まるで堰を切ったように全身の魔力路へと送り出した。
彼女の最適性は「風」。閉ざされたはずの病室に、突如として瑞々しい翠色の旋風が巻き起こった。それは淀みを吹き飛ばし、死気を浄化する、生命の輝きそのものの風だった。
死を待つばかりだった少女の肌に、猛烈な勢いで血色が戻っていく。
微弱だった呼吸は深く力強いものに変わり、体中に清涼な魔力が駆け巡った。
「……終わったぞ。手術は成功だ」
グランが隔離結界を解くと同時に、侯爵が転がるようにして娘の元へ駆け寄った。
娘の規則正しい寝息と、かつてのように輝きを取り戻した肌を確認すると、侯爵は声を殺してむせび泣いた。
「ああ……エル……。本当によかった……」
侯爵は、まだ眠る娘の体を壊れ物を扱うように、しかし力強く抱きしめた。
その温もり、脈動、すべてが「生」を確信させ、父親としての涙がエルスメリアの肩を濡らした。
しばしの後、侯爵は涙を拭い、居住まいを正してグランへと向き直った。
その目は先ほどまでの絶望を脱し、貴族としての、そして一人の恩恵を授かった男としての強烈な熱を帯びていた。
「……グラン殿。別室へ、話がある」
侯爵に促され、グランは豪華な応接室へと移動した。
「感謝してもしきれぬ……。我が命、我が財産、すべてを投げ打ってもこの恩は返せぬ。グラン殿、貴殿が望むなら、私はどのような地位でも用意しよう。我が家で指南役として迎えることも、王宮へ推薦することも……いや、望むだけの富を約束しよう」
侯爵が並べ立てる破格の褒美を、グランは片手で制した。
「あなたはエルスメリアの父親として、ただあいつを抱きしめてやりゃあいい。それが一番の薬だ。……だが、俺からも一つだけ頼みがある。いや、『約束』だ」
グランの声音が一段低くなり、部屋の空気が張り詰めた。
「俺のことと、今日のことは、絶対に公開するな。誰にも、だ。そして、俺を取り込もうなんて二度と考えるな。俺はただ平穏な学園生活を望んでる平民でいたいんだよ。……いいな?」
当代最強の魔導師の一人である侯爵は、圧倒的な威圧感を放つこの少年に対し、本能的な畏怖を覚えながら深く頷いた。
「……誓おう。我がヴァーミリオン家の名にかけて、貴殿の正体と今日の奇跡は、決して他者には漏らさん。貴殿を悩ませるような勧誘も、一切させぬと約束しよう」
侯爵と硬い約束を交わし、グランが屋敷を辞そうとした時。
玄関ホールで、レインが呼び止めるように口を開いた。
「……グラン様。本日は、本当に……。そして、今日の私の無礼な態度、どうかお許しください。お嬢様を救いたい一心で、貴方を脅し、力ずくで連れてくるような真似を……。メイドとして、人として、恩人に対してあるまじき行為でした」
レインは拳を握りしめ、顔を上げられずにいた。
彼女の肩は微かに震えていた。
だが、グランは困ったように頭をかき、言葉をかけた。
「いいって。気にするな。……俺だって逆の立場なら、手段なんて選ばないさ。あんなに必死になって誰かを助けようとする奴を、俺は嫌いじゃないんだ。むしろ、あんたのその強引さがあったから、エルスメリアは助かった。……だろ?」
「……グラン様……」
「あと、『様』はやめてくれ。同い年で平民と貴族だ。俺も敬語はできないが、貴族にそう呼ばれると、こっちが気にする」
グランが少し困った顔をして笑うと、レインは一瞬呆然とした後、今日初めての、心の底からの柔らかな笑顔を見せた。
「……わかりました。これからは、あなたを友人として接します」
「それより、エルスメリアが起きたら、あいつが大好きなものを食べさせてやれ。あの風の魔力量だ、相当腹を空かせて起きるはずだからな」
「……はい! 心を込めて用意いたします」
「あと、エルスメリアは一年くらいまともに動いてないんだろ? リハビリ目的で筋トレのメニュー(アンサートーカー監修)を作って明日にでも渡すから」
グランは夜の帳が下りた王都へと足を踏み出した。
寮への帰り道、わずかに吹いている翠の風が火照った体を癒すように冷ましてくれる。
弟子を救い、彼女たちが追い求める再会への希望を繋ぎ止めた充実感。
だが、自分の望む平穏への道は、今日この日を境に、さらに遠く、険しいものになってしまったのだということを、彼はまだ知る由もなかった。




