第165話:ペリドットの涙
エルスメリアが精神的に大人へと成長したことで、グランは身の危険がひとまず収まったことに安堵していた。
そして王国建国祭の五日目、今日の相手はおそらくベアトリクスだ。
ホワイトデーの時に衝撃の事実を聞いてから、会話は普通にしていたものの、いざデートという状況になると、グランは今までで一番緊張していた。
相手は最近まで婚約者がいた女性であり、言い方は悪いがある程度は男慣れしているはずだ。
自分のデートの内容が鼻で笑われる可能性があると思い始めると、グランは途端に自信を無くしてしまう。
『マスター、そんなに緊張しているなんて珍しいですね』
アンサートーカーが、脳内でグランをおちょくってくる。
(ぶっちゃけ、今までの相手は男を知らない子たちばかりだったからな。今回は明確に比べられるだろうから、俺はそれが怖いんだよ)
『確かに今までの相手は、皆マスターが初めての男でしたからね。まあ、ベアトリクスさんなら大丈夫でしょう』
相棒からの適当すぎるエールが、グランの心をさらに不安にさせる。
すると、遠くからベアトリクスが歩いてくるのが見えた。
「ベアトリクス、ここだ!」
グランが手を上げて声をかけると、ベアトリクスの表情がぱぁっと明るい笑顔になる。
「グラン!」
彼女は元気にそう声を上げると、こちらに向かって走ってくる。
そして、グランはベアトリクスの服装を見た。
普段は格闘少女らしく動きやすい格好をしている彼女だが、今日は髪を下ろし、春らしい桃色のワンピースに肩掛けの鞄を提げていた。
「ベアトリクス、その服とても似合うね。髪を下ろした姿もすごくかわいいよ」
グランがそう褒めると、ベアトリクスはぱぁっと明るい笑顔になる。
「グラン、ありがとう! グランの着ているそれも、誕生日会でもらった服だね。すごく似合ってるよ!」
そう褒め返され、グランは少し照れてしまった。
「じゃあ、行こうか」
「うん! 今日はいっぱい楽しもうね!」
ベアトリクスは元気よく返事をした。
「とりあえず、どこか行きたい場所とかあるか?」
「お祭りを満喫したいから、いろいろな屋台や露店を巡りたいな」
「わかった、じゃあそうしよう」
二人はしばらく食べ物や飲み物を味わい、露店を回ってアクセサリーや外国の珍しい品々を眺めながら会話を楽しんだ。
だが、グランはまだベアトリクスと少しだけ距離を離していた。
いくら婚約破棄になったとはいえ、そこに付け込んで馴れ馴れしくしようとは思っていなかった。
そもそも婚約破棄の原因がまだはっきりしていないため、もし問題が解決したら婚約が元に戻るかもしれないと思い、極力深い事情には触れず、あくまでも仲のいい友人として接しようと考えていた。
そうして、しばらくぶらぶらと歩いているうちに、春の日差しの太陽は、歩いている進行方向に、二人の影をくっきりと映し出した。
ちょっと暑いなと思ってふとその影を見ると、明らかにベアトリクスの手がグランへと伸びては引っ込み、また伸びては引っ込める動きを繰り返していた。
それはまるで、手をつなぎたいとためらっているかのようなそぶりだった。
その健気な行動を見て、グランは彼女のことをとても愛おしく思ってしまう。
そしてベアトリクスに恥をかかせないよう、彼女の手が引っ込んだタイミングを見計らって後ろを振り向いた。
「人が多いから、はぐれないようにしよう」
グランはごく自然にそう言って、ベアトリクスの手をそっとつかんで握る。
突然の行動にベアトリクスはびっくりしたようだったが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「うん、はぐれたらだめだもんね!」
彼女はギュッと強く手を握り返すと、グランへと少し体を寄せて歩き出した。
しばらく手をつないで歩いていると、不意にベアトリクスが足を止めた。
そして一点を見つめながら、とても悲しそうな表情を浮かべる。
グランが彼女の視線の先をたどると、そこでは一組の小奇麗な男女が仲睦まじげに歩いていた。
「グラン、ちょっとこっちに行きたい」
ベアトリクスはそう言ってグランの手を引っ張り、大通りから少し外れた小道へと入っていく。
グランは言われるがままについていき、彼女が歩みを止めるまで静かに身を任せていた。
そして先ほどの賑やかな場所から離れたところに立ち止まると、ベアトリクスはふーっと深く一息つく。
やがて、彼女は隣のグランへと語り始めた。
「さっきの男女がいたでしょ? あの男のほうが、私の婚約者だった人なの……」
グランは先ほど見かけた男の顔を思い出す。
どこにでもいるような普通の容姿の男だったが、グランは口を挟まずにベアトリクスの次の言葉を待った。
「私のお父さんはずっと傭兵稼業だったから全国各地を回っていてね、私とお母さんもいつも一緒についていっていたの。彼も同じ傭兵団の仲間の子供で、小さい頃からずっと一緒の幼馴染だったんだ」
ベアトリクスは当時のことを思い出すように、懐かしそうな声で話を続ける。
「そして数年前に大規模な魔物討伐があって、お父さんはそこで大きな戦果を挙げたことで男爵の爵位をもらい、小さいけれど領地も賜ったの。お父さんは傭兵のみんなが腰を下ろせる場所がついにできたと喜んで、みんなも『やっと落ち着ける』と言って大歓迎したんだよ」
その後、彼女の将来について話が進んでいったという。
「そして子供は私だけだったから、将来は私が男爵家を継いでいくということになったの。今後のことを考えるとやっぱり婚約者は必要ってことになって、一番身近な幼馴染だった彼が私の婚約者に選ばれたんだ」
グランは彼女の表情を見つめ、優しく言葉をはさんだ。
「そう聞くと仕方なしに決まったようにも聞こえるが、本当はそうじゃなかったんだろ?」
その言葉を聞き、ベアトリクスは小さくうなずく。
「彼のことが好きかと言われたらもちろん好きだったし、将来は一緒になるのかなとも思っていたから、私は嫌じゃなかったよ。むしろ婚約を機にちゃんと一人の男性として意識し始めると、どんどん好きになっていったの。彼も私に対して『男爵家の伴侶として恥じない人間になる』と言ってくれて、家庭教師まで雇ってすごく勉強をし始めたんだ」
そこまで互いに思い合い、良い関係でありながらなぜ婚約破棄に至ったのかと、グランは深く気になり始める。
「そして私は十五歳になり、魔導学園に入学することになったの。そこから彼とはしばらく会えなかったんだ。けど、彼が王都で勉強をすることになったと聞いて、私は会える時は極力会うようにしていたの。でも……」
ベアトリクスは、そこで辛そうに言葉を詰まらせる。
グランは彼女の手を優しく引くと、すぐ近くにあったカフェへと入っていった。
周囲に会話が聞こえないように一番端の席を選び、二人は冷たい飲み物を頼む。
やがて店員が飲み物を運んでくると、グランは声をかけた。
「さあ、まずはこれを飲んで少し落ち着いて」
ベアトリクスは言われた通りに飲み物を口にし、どうにか落ち着きを取り戻す。
そして、先ほどの話の続きを語り始めた。
「ある時、平民と貴族の話になったんだけど……彼から急に、平民のことを蔑むような発言が目立つようになってきたの。私は『私たちだって元々は平民なんだから、そんなことを言ったらだめだよ』って注意したんだよ。そうしたら彼がすごく豹変してね……今まで見たこともないくらい怖い顔になったの。私は自分が何か彼を怒らせてしまったのかと思って、その時は謝ったんだけど……」
そして俯きながら言葉を続ける。
「今思えば、その頃からもう貴族至上主義の考えに深く染まっていっていたのよ。それも、修復が不可能なほど完全にね」
「なんで急に、そんなことになったんだ?」
グランが尋ねると、ベアトリクスは沈痛な面持ちで言葉を続ける。
「最近になって分かったんだけど、どうもそういう集会みたいなものが各地にあるらしいの。」
そしてベアトリクスは少し険しい顔をして話す。
「彼が雇った家庭教師に一度そこへ連れられて行ったら、何かにはまってしまったみたいでね。それから積極的にその集会へ通うようになったと、お父さんが言っていたわ。お父さんも彼のお父さんを通して、その集会に行くのをやめるように何度も忠告したんだって。でも彼は『これはランスター家のために絶対に必要なことだ』と言って、全く聞く耳を持たなかったの。」
そして何かを思い出すように言葉を続ける。
「うちの傭兵団の仲間は、みんな平民出身だからね……。そんな考えになった人が私の婚約者として跡を継いだら大変なことになると、お父さんとお母さんが判断したのよ。それで何度も話し合いを重ねたんだけど、結果は決裂。二ヶ月前に、婚約破棄が正式に決まったの」
「二ヵ月前だと、あのバレンタインデーの時はもう決まっていたのか」
グランは彼女の話を聞いて、かつて親善試合の時のルークの件を思い出し、脳内でアンサートーカーへと話しかけた。
(貴族至上主義の集会か……。ルークに関わっていたやつか?)
『そうです。どうやら最近、裏で急速に勢力を伸ばしているようですね』
(なんか、これから一悶着ありそうだな……)
『今はまだ直接誰かに危害を加えるような段階ではなさそうですが、こうも身近なところで影響が出始めると、さすがに他人事とは思えないですね』
アンサートーカーもグランの懸念に同意し、二人は警戒を強めた。
しかし、グランは彼女の話を聞いて一つの疑問を抱いた。
「ベアトリクス、事情はよく分かった。だが、先ほど一緒にいたあの女性は一体誰なんだ? 明らかに平民の出ではなかっただろ?」
そう尋ねると、ベアトリクスはさらに悲しそうな表情を浮かべる。
「あの人は、ある子爵家の令嬢らしいよ。私と婚約破棄になった途端に、あの集会で出会ったその人とすぐに婚約したんだって。あまりのことに激怒したお父さんが彼に詰め寄ったんだけど、『もう私はランスター家とは一切関係ありません』と言い放って、彼は自分の家族すら捨ててランスター領から出て行って彼女の領地にいるみたいなの。」
ベアトリクスの声はだんだんと涙声になってくる。
「彼の家族はお父さんに深く謝罪をして、自分たちも領地から出ていこうとしたんだけど、お父さんが『これは彼だけの問題だから、君たちが出ていく必要はない』と引き留めたの。だから家族たちはそのまま領地に住み続けているの。それだけが、まだ救いなんだけど……」
そう話しているうちに、ベアトリクスの目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ち始めた。
「領を出ていくと言った時、彼は私のことなんて、何一つ言ってなかったの……! 私はあんなに彼のことが好きだったのに、彼は私のことなんてちっとも好きじゃなかったんだなって分かったら、一人でずっと将来を楽しみにしてはしゃいでいた自分が、本当にとことんバカみたいだなって思っちゃって……」
彼女の悲痛な本音を聞き、グランは胸が張り裂けそうなほどの痛みを覚える。
(あいつ殺すか?)
『処しましょう』
アンサートーカーもベアトリクスの話を聞いて同意するが、そんなことをすればベアトリクスが余計に悲しむ。
グランは気持ちを落ち着かせるため一息つき、ベアトリクスに声をかける。
「そっか……本当に辛かったんだな。俺たちはてっきり、ベアトリクスが婚約者と仲睦まじく順調に過ごしているとばかり思っていたから気にも留めていなかったけど……君は誰も知らないところで、ずっと一人で苦しんでいたんだな」
グランが優しくそう語りかけると、ベアトリクスは途端に耐えきれなくなり、声を上げて泣き出してしまった。
いくら周囲から離れた端の席に座っているとはいえ、さすがに大声を上げて泣き始めると店内で大いに目立ってしまう。
グランは慌ててテーブルのお会計を済ませると、ベアトリクスの手を引いて店を飛び出した。
そしてそのまま路地裏へと入り、人気が少ない場所へ着くと、未だ声を上げて泣き続ける彼女を優しく抱き締める。
「今は、ここで好きなだけ泣けばいい」
その言葉を聞いたベアトリクスは、グランの胸に顔を埋めて、さらに大きな声を上げて泣きじゃくった。
グランは彼女が落ち着きを取り戻すまで、ただ静かに背中を優しくさすり、ずっと抱きしめ続けた。
しばらくのあいだ声を上げて泣いていたベアトリクスは、ようやく落ち着きを取り戻したのか、そっとグランの顔を見上げる。
グランは、まだ目に涙をためている彼女の涙を優しく拭ってやった。
「彼のことはもう忘れて、今日は祭りをとことん楽しもう」
「うん……そうだね。グラン、ありがとう」
そう言ったベアトリクスは、グランの腕にそっと絡みつく。
グランはそれを何も言わずに受け入れ、二人はそのまま賑やかな大通りへと向かった。
ベアトリクスも先ほど大泣きしたことで気持ちがすっきりしたのか、大通りに出ると段々と普段のような明るい笑顔に戻り、グランとのデートを心から楽しんでいた。
そんな中、グランはある露店で、ベアトリクスが一つの指輪をじっと眺めていることに気づく。
彼女が購入すべきか悩んでいると、グランは露店の店主へと声をかけた。
「これ、いくらですか?」
突然の行動にベアトリクスはびっくりしていたが、店主が「二万Gだよ」と答えると、グランはすぐに収納魔法からお金を取り出して支払いを済ませる。
「毎度あり!」
店主から指輪を受け取ったグランは、それをそのままベアトリクスへと差し出した。
「グラン、これ……!」
驚くベアトリクスの手を取り、グランは笑顔で告げる。
「今日のデートの記念だよ」
そう言って、グランはその指輪を彼女の右手の薬指へと優しく着けてやった。
「これからは、君が幸せになるんだ」
「グラン……ありがとう! 本当にありがとう……!」
ベアトリクスは頬を染めながら、心からのお礼を言う。
その後も二人はぶらぶらと歩き出し、様々な屋台や露店を回って一日中祭りを楽しんだ。
そして帰り道、朝の待ち合わせの場である、噴水の広場に着いたところでベアトリクスが足を止める。
「今日は本当に楽しかったよ。この指輪もありがとう、大切にするね」
「ベアトリクスの気晴らしになったのなら、本当によかったよ」
ベアトリクスは何かを決心したように間をおいて話しかける。
「……ねえ、グラン。最後にお願いがあるの」
「なんだ?」
「……目をつぶって?」
言われるがままにグランが目を閉じると、不意に唇へ柔らかいものが触れた。
それがキスだと気づいてグランが目を開けると、ベアトリクスは顔を真っ赤にして照れながら口を開く。
「私の、ファーストキス……。彼にはまだ、していなかったの」
そして、彼女は最高の笑顔を向けた。
「私の初めては、グランがもらったね! じゃあ、また学園で!」
そう言って、ベアトリクスは恥ずかしそうに駆け足で去っていく。
突然の出来事にグランは呆然として立ち尽くすが、脳内でアンサートーカーが話しかけてきた。
『マスターは、本当に罪深い男ですね』
(こればっかりは……俺も本当にそう思うよ)
グランは相棒の言葉を素直に認めるしかなかった。
一方、走り去るベアトリクスは、自分の胸が大きく高鳴っているのを感じていた。
(キス、しちゃった……! もう、この気持ちは抑えられないよ。あんなに優しくて強い人なんて、他にいないもん……)
そして彼女は、心の中でそっと決意する。
(……私も、『グランを堕とす会』に入ろうかな……)
そう思いながら、ベアトリクスは幸せそうな笑顔で帰路につくのだった。




