第121話:青い薔薇
皆の見送りを終えると、ソフィアはグランに微笑む。
「では、また後ほどお会いしましょう」
グランはその言葉に嫌な予感を覚えつつも、メイドに案内されて侯爵邸の豪華な大浴場へ向かった。
広い湯船にゆっくりと浸かり、闘武祭と侯爵夫人との激戦の疲れを癒していると、不意に扉が開く音がした。
(え?)
グランが訝しげに視線を向けると、そこには布一枚だけを身にまとったヴァレンシア侯爵夫人が歩み寄ってきていた。
グランは慌てて背を向けるが、侯爵夫人は気にするそぶりもなく、そのまま湯船に足を入れグランの隣に座り込む。
「お、俺はもう出ます!」
グランは嘘だろと冷や汗を流しながら立ち上がろうとするが、夫人は彼の手を掴んで離さない。
「いいじゃない、一緒に入りましょ」
「いやいや、ソフィアと侯爵様にバレたら俺殺されますって!」
「あの二人は今は大丈夫よ」
あまりにも堂々としている侯爵夫人に恐怖を覚え、グランは強引に手を振りほどく。
「か、体を洗うので出ます!」
グランは逃げるように湯船から飛び出した。
さっさと体を洗って一刻も早くここから出ようと急いでいると、いつの間にか背後に侯爵夫人が座っていた。
「背中、洗ってあげるわね」
夫人は自身の手にたっぷりと石鹸をつけると、グランの背中を優しく洗い始めた。
「うひゃい!」
グランから情けない声が漏れる。
「男の子の背中って意外と大きいのね……」
侯爵夫人はうっとりとした声を漏らしながら、我が子を愛でるように丁寧に背中を洗っていく。
「さあ、次は前も洗うわよ」
夫人がとんでもないことを言い出した瞬間、グランは限界を迎えた。
「いえ、大丈夫です! ありがとうございました!」
グランはお湯で急いで泡を洗い流すと、体をほとんど拭かないまま服をひっつかみ、逃げるように脱衣所から飛び出していった。
一人残された侯爵夫人は、少しだけ笑みを浮かべる。
「照れちゃって可愛いわね」
しかし全く悪びれる様子もなく、そのまま優雅なバスタイムを続けるのだった。
グランが自室に逃げ帰り、濡れた体を急いでタオルで拭いていると、ふいに扉をノックされた。
グランは急いで体をふいて服を着て、恐る恐る扉を開ける。
そこには、少し疲れたような表情を浮かべたヴァレンシア侯爵が立っていた。
(まさか、もう侯爵様にバレたのか!?)
「ど、どうなさいましたか?」
「夜分にすまない、改めて今日の闘武祭での妻の非礼を謝罪したくてな」
「い、いえ、謝罪はもう何度も受けましたので、本当に大丈夫です。俺のほうこそ侯爵夫人様を傷つけてしまって……」
「それに関してはレイラの自己責任だ、むしろ、ちゃんと向き合って戦ってくれたことに感謝する」
侯爵がそう言うと、グランはその言葉に少し安堵した。
「レイラが『男の子も欲しかった』と言っていたが……やはり、そうだったんだな」
侯爵はどこか寂しそうな目をしながら語り始める。
「ソフィアが生まれた後、私たちにはなかなか子供ができなくてな。医者にも診てもらったが成果は出ず、今ではもうお互いに諦めていたんだ」
侯爵は深く息を吐く。
「レイラも納得しているつもりだったのだろうが、やはり女性だからな。心の奥底では、完全には諦めきれていなかったのだろう」
その切実な話を聞いたグランは、少し考えながらもまっすぐな目で侯爵を見据えた。
「まだ、諦めるには早いです。少しだけ……待ってもらえますか?」
その言葉の裏にある『何か』を察したのか、侯爵は少しだけ目を見開く。
「……ありがとう。では、今日はもう失礼する。ゆっくり休んでくれ」
侯爵はそれだけ言うと、深く頭を下げて部屋を後にした。
グランはベッドに腰掛けると、今日の疲れが一気に出たのか眠気に抗えず、そのまま深い眠りについた。
そして夜も更けた頃。
グランは急に息ができなくなるほどの寝苦しさを感じて目を覚ます。
すると、ソフィアがグランに濃厚なキスを繰り返していた。
いつの間にかグランは上着を脱がされている。
ソフィアはグランが起きたことに気づき、艶然と微笑んだ。
「お目覚めですか、グラン様」
しかし、グランはソフィアが下着姿で自分に覆いかぶさっていることに気づき、慌てて彼女の体を掴んで引き離した。
「ソフィ、なんて格好してるんだ! だめだろ!」
グランが咎めるが、ソフィアは全く意に介さない。
「グラン様から手を出さない限りは、一線を超えなければ何をしてもいいのです」
そんな斜め上の解釈を口にして、ソフィアは再び近づき、グランの体をまさぐりながらキスをしてくる。
「もう私たちを阻む障害はすべてなくなりました。さあグラン様、私を抱いてください! そして一緒にずっとここで住みましょう!」
言うが早いか、ソフィアは自身の胸を覆う下着を外してしまった。
グランはすぐに視線を横に向け、直視しないようにするが、ソフィアはそのままグランに抱き着いた。
グランの素肌に、ソフィアの柔らかな胸が直に触れる。
『マスター!ご卒業、おめでとうございます!』
アンサートーカーが勝手に祝福の言葉を述べてくる。
グランは本当にやばいと焦り、ソフィアに必死に訴えかけた。
「俺は、学園を卒業するまでは絶対に手を出さないんだ!」
「もうグラン様には、十歳のあの時にすべてを捧げています。さあ、七年前の約束を今ここで……!」
ソフィアは一切聞く耳を持たず、そのままグランをベッドに押し倒す。
「ソフィ、だめだ!」
ソフィアの手がグランの下半身へと伸び、ついに衣服を脱がそうとしてきた。
(これだけは何としても防がないといけない……!)
グランはかつて発動したことのある『プレイボーイモード』でソフィアに対抗することを決意する。
グランはソフィアを逆に抱きしめ、上に覆いかぶさるように体勢を反転させた。
胸が露わになったソフィアと至近距離で見つめ合う。
ソフィアはついに結ばれるのだと思い、身を委ねてそっと目を閉じた。
しかし、グランはソフィアの唇にキスをするだけで、すぐに横へ寝転がって離れた。
ソフィアは少し焦った顔でグランに必死に食い下がる。
「な、何がダメだったのですか?」
グランは静かに答える。
「ソフィの気持ちは嬉しいし、ここまでしてくれているのに抱かないのは、男として最低なのだと思う。でも、俺はやっぱり卒業するまでは一線は越えたくない。それに、まだ誰も決めきれていないのに手を出すのは最低だ」
「それでもいいのです。これは聖域で助けてもらったお礼と、強くしてくれたお礼なのですから、責任なんか取らなくていいのです」
ソフィアは必死に訴える。
「もちろん私を選んでくれたら嬉しいですけれど、それとこれとは別なのです」
「もっともっと、自分を大事にしてほしい」
グランがそう窘めると、ソフィアは首を振った。
「私の人生に、グラン様がいないことはあり得ません」
そして、再びグランにすがりつくように抱き着くが、ソフィアは少し冷静になったのか言葉を続ける。
「でも、グラン様を困らせるのはやはりだめですよね……今日はこのまま寝てください」
ソフィアが少しだけ折れたことにグランは安堵するが、彼女は離れようとしない。
「いや、せめて服を着て……」
「だめです。こればかりは譲れません」
ソフィアはそう言って、上半身裸のまま、グランにぴたりと密着してくる。
(こ、これはもう生殺しだ……)
『それなら、もう抱いてしまったほうがいいのでは?』
アンサートーカーの悪魔の囁きをはね除け、グランは心の中で叫ぶ。
(一度許してしまうと歯止めが利かなくなる! 一度でもしてはだめだ!)
グランは鋼の精神で、ソフィアが眠るまで歯を食いしばり、ひたすら無を意識しながら耐え抜いた。
そして――いつの間にか気絶していたのか、目を覚ますと外はすでに明るくなっていた。
グランはソフィアの誘惑に耐えきったことに心底安堵し、隣で眠るソフィアにそっと布団をかぶせる。
すると、その動きでソフィアが目を覚ました。
「グラン様、おはようございます」
「……おはよう」
ソフィアはグランに近づいてちゅっとキスをし、「えへへ」とはにかむ。
朝から刺激が強すぎるその姿に、グランは目を逸らしながら懇願した。
「せ、せめて服を着てくれ……」
「服は隣の部屋にあるので、取ってきますね」
ソフィアはそう言うと、一切隠すこともなく、そのままの姿で部屋の外へ出て行った。
ソフィアが部屋を出た後、すぐに隣の部屋の扉が開く音と、ガサガサと着替えるような音が聞こえてきた。
隣の部屋とはいえ、もし廊下に出た一瞬の隙に誰かに見られていたらすべてが終わっていた。
グランは心底安堵して深く息を吐き、ベッドでうなだれていると、アンサートーカーが話しかけてきた。
『昨日の夜、ヴァレンシア侯爵に「もう少し待って」と言ったのは、まさか【あれ】を作るおつもりですか?』
(あんな切実な話を聞いたら、自分にできることをしてあげたくなるだろ)
グランが心の中で答えると、アンサートーカーは少し懸念を示す。
『お気持ちはわかりますが、マスターの規格外の錬金術で作ったものは、この世界の根幹を脅かしかねません。それでもお渡しになるのですか?』
(ソフィに年の離れた弟か妹ができるだけだ。それで世界のバランスが崩れたりなんかしないさ)
『……まあ、そうですね。あの秘薬を世界中にばらまくわけでもないですし』
(前世でも、妊活で苦労している夫婦の話をたくさん聞いてきたからな。自分にどうにかできるなら、何とかしてあげたいだろ)
グランの根底にある優しさに触れ、アンサートーカーも『そうですね』と静かに同意した。
しばらくすると、着替えを終えたソフィアが再び部屋に入ってきた。
「グラン様、朝の食事までもう少し時間があります。それまでは一緒にいてください」
ソフィアはそう言うと、ベッドに座るグランにしなだれかかってくる。
しばらくまったりとした時間を過ごしていると、グランはふと、激動の誕生日会のせいでソフィアに誕生日プレゼントを渡すのをすっかり忘れていたことに気がついた。
「ソフィ、君に誕生日プレゼントがあるんだ」
グランがそう切り出すと、ソフィアはルヴィリスとエルスメリアが特別なプレゼントをもらった話を聞いていたのか、期待に満ちたキラキラとした目でグランを見つめてきた。
グランは収納魔法を展開し、青い花束を取り出してソフィアに手渡す。
ソフィアはその美しい花束を見て素直に喜ぶが、よく見るとそれはただの花ではなく、『青い薔薇』だった。
グランは事前にアンサートーカーに確認し、この世界にはまだ青い薔薇が存在しないことを知っている。
聖域ネットを駆使し、自身の魔力とアンサートーカーの補助、そして凪の里の特殊な環境で育て上げた、まさに奇跡の花だった。
改めてソフィアと正面から向き合い、グランは言葉を紡ぐ。
「誕生日、おめでとう」
ソフィアは見たこともない青い薔薇に目を奪われ、完全に固まっていた。
「君に一番似合う花を選んだんだ。これは、この世に一つしかない青い薔薇だ」
グランは静かに説明を続ける。
「花言葉は『奇跡』。青い薔薇はこの世界では不可能と言われていたけれど、それを覆して生まれたものだ。落ちこぼれだった君がここまで強くなった、まさに不可能を可能にしたその努力と奇跡に、神の祝福を」
そして最後に、グランは一つだけ付け足した。
「その花は、ちゃんと世話をすればずっと枯れることはないよ」
枯れない花をもらったソフィアは、その意味の重さにしばらく唖然としていた。
しかし、次第に彼女の中で喜びが爆発していく。
「枯れない青い薔薇……グラン様からの永遠の愛をいただき、私、とっても幸せです!」
ソフィアはまたしてもグランの言葉を都合よく『永遠の愛』と解釈し、満面の笑みを浮かべて抱き着いてきた。
ちょうどその時、朝食の準備ができたとメイドが部屋へ呼びにやって来る。
ソフィアはそのメイドに花束を大事そうに預け、自室に飾って丁寧に世話をするよう嬉しそうに言いつけたのだった。
その後、グランはソフィアや侯爵夫妻と一緒に和やかな朝食をとった。
そして、ソフィアと共に学園へ戻る出発の時。
侯爵夫人がグランの手を優しく握る。
「ここはもうあなたの家よ。いつでも帰っていらっしゃい」
侯爵も穏やかな笑顔を浮かべて頷く。
「君はまだ、誰を選ぶか決めきれていないのだろう。だが、我々はいつでも君を歓迎するぞ。……それでは、ソフィアを学園まで頼む」
侯爵夫妻は、まるで本当の息子を見送るような温かい眼差しでグランたちを見送ってくれた。
学園へと戻る道すがら、馬車の中ではソフィアがずっとグランに体を預け、幸せそうに甘え続けていた。




