第198話《水と、日陰》— 簡易プール(塩素消毒付き循環型) —
1.水が、腐る
梅雨が明けた翌日から、暑くなった。
リュミアが朝、子供の集まりから帰ってきた。
「智也、子供たちに水で遊ばせてあげたい」
「いいな。水場を作ろう」
「どんな?」
「プールだ。スラグ複合材で防水の槽を作る。ポンプで水を循環させる」
リュミアの耳が上がった。
設計を進め始めたその日の午後、コルソンが研究室に来た。
身長が二メートル近い。
扉をくぐるとき、頭を下げた。
肩幅が扉の幅の九割ほどある。
財務局の文官の服を着ていた。
「叔父上より、数字の確認を頼まれてまいりました」
「ありがとうございます。で、コルソンさん、実は一つ問題が出ました」
「計算上の問題ですか」
「そうです。水を張っても、夏の暑さで三日経つと腐ります。藻が発生します。大量の子供が入ると、さらに速く汚れます」
コルソンが即座に言った。
「一日の使用人数を百人、一人当たりの汗と有機物の排出量を概算で、濁度が許容値を超えるのは気温三十度の条件下で約五十二時間後、誤差プラスマイナス八時間です」
「……その計算、どこから」
「想定しておきました」
(……この見た目で、なぜそんなことを想定しているのか)
「つまり、水を消毒する仕組みが必要です」
「ご指摘の通りです。何か算段はありますか」
「あります。作ったことはないですが、化学的には可能です」
2.二種類の金属と、塩水
ハシを呼んだ。
「ハシ、お前の嘴で感じる電流、あれは何から来ている?」
「水の中を、イオンが動くときに生まれる流れや。金属が溶ける時も出る」
「金属が、溶ける」
(……ガルバニ電池だ)
(二種類の金属を塩水に入れると、片方が溶け、電流が生まれる)
(ヴォルタが十八世紀に発見した原理だが、この世界の現象として既にある)
「銅板と亜鉛板を塩水に入れると、どうなる」
ハシが目を細めた。
「……試したことはないけど、二種類の金属を同時に入れたら、嘴がくすぐったくなりそうや」
「それが、電流だ。種類が違う金属が同じ液体に触れると、電子が一方から他方に流れる。その流れを、別の塩水に通してやると、塩水が分解される」
「分解されてどうなるんや」
「水を殺菌できる物質が生まれる。少量をプールに加えれば、藻も菌も増えない」
ハシが嘴を動かした。
「……ウチが感じてきたもんと、同じもんが、水を消毒できるもんを作る、ということか」
「そうだ」
ハシがしばらく嘴を止めた。
「……それは、なんか、ええな」
「なるほど」と思わず声に出た。
コルソンが横で手帳に書き始めていた。
「銅板と亜鉛板の面積比と、塩水濃度の最適値を計算します。消毒に必要な生成量から逆算して、槽のサイズを決めます」
「お願いします」
「誤差二パーセント以内で出します」
「十分です」
3.走る台車
消毒の仕組みは解決した。
次の問題は、スラグ複合材の重い防水パネルを現場まで運ぶことだった。
固定式のアームでは届かない。
台車に乗せてドルグが引いてもよいが、それでは人手を食う。
ビトルが紙を広げた。
「アームに車輪をつけましょう。台車型の土台に、アームを固定したまま移動させる」
「方向転換は」
「前一輪、後ろ二輪の三点構造にすれば、前輪の向きを変えるだけで旋回できます」
(……三輪は安定する。三点支持は転ばない)
「旋回機構の参考になる仕組みはあるか」
ドルグが手を挙げた。
「あるぜ。俺たちが地下で方向変えるとき、前足だけを回転させて向きを作る。後ろは引きずってくる形だ」
「それと同じだ」
「……まさか俺たちのやり方が、機械に使われるとは思わなかったな」
三日で、試作の三輪台車が完成した。
グレンがアームを台座に固定した。
試験走行。
直進は安定している。
旋回は、前輪を横に向けると、後輪が弧を描いて追ってくる。
三十キロの荷物を積んで走らせると、止まらなかった。
「……じゃあ、やるか」
ビトルが計算を始めていた。
「設計確定です。量産しましょう」
4.三輪ゴーレムのセンサー
三輪台車が完成した日の夜、ビトルが図面を広げた。
「台車に乗ってもアームのセンサーが使えるか、確認したいんです」
「何が問題だ」
「今のマナ影センサーは、止まっている状態で周囲を読む設計です。動きながら使うと、センサーの読み方が変わります」
(……そうか)
(止まっているときは、センサーが読む値の変化は、対象物が動いたということだ)
(動きながらだと、センサーが読む値の変化が、対象物が動いたのか、自分が動いたのか、分からない)
「車が走りながら、窓から景色を見るようなものだ。景色が変わる原因が、外の景色が変わったのか、車が動いたのかで、意味が違う」
ビトルが頷いた。
「自分がどれだけ動いたかを、把握する仕組みが必要です」
「車輪の回転数で測れる。車輪が一回転すれば、円周分だけ進む。回転数を数えれば、移動距離が分かる」
(……現代のエンコーダーだ。車輪に磁石を取り付けて、ホールセンサーで回転を検知する)
(この世界では、マナの流れを使う)
「車輪の軸に目印を彫る。目印が一回通るたびに、マナのパルスが一回出る。パルスの数が、回転数だ」
「マナのパルス……あの、誰かの能力が使えますか」
ハシが横で聞いていた。
「ウチが感じられるかもしれんな、そのパルス」
「そうだ。ハシ、台車の軸から出るマナのパルスを感じてくれるか。それを制御核に送れば、移動距離が計算できる」
ハシが嘴を台車の軸に近づけた。
「……試してみるわ」
台車をゆっくり動かした。
ハシが目を閉じて、嘴を動かした。
「……感じる。一回転ごとに、ちょっとだけ違う流れが来る」
「それがパルスだ」
「……なんか、おもしろいな」
(……ハシの感知能力が、今度はエンコーダーになった)
(水脈を探すセンサーが、速度計になった)
「ビトル、制御核に追加命令を入れてくれ。『ハシのパルスを受け取って、移動距離を計算し続ける』。それを、マナ影センサーの読み値と合わせれば、動きながらでも対象の位置が分かる」
ビトルが「センサー・フュージョン、ですか」と言った。
「そうだ。二つの感知を合わせて、一つの情報を作る」
「……それって、パドさんとハシさんが一緒に調査していた時と、同じ発想ですね」
(……そうだ)
(少数民族が無意識にやっていたことを、機械でやる)
「種族が複数の感知を持ち寄って、一つの答えを出していた。あれが、機械の設計に入った」
ハシが、また嘴を動かした。
「……なんか、ウチらがやってきたことが、あの台車に入るんか」
「そうだ」
「……それは、またええな」
翌日、アリアが追加命令をコアに刻んだ。
三輪台車に乗ったアームが、動きながら前方の障害物を感知した。
止まった。
向きを変えた。
また動き始めた。
ドルグが「俺の旋回の動き、ちゃんと入ってるな」と言った。
ハシが「ウチのパルスも、ちゃんと動いてるで」と言った。
「…じゃあ、やるか」
5.開場
一週間後、プールが完成した。
スラグ複合材で作った長方形の槽。
幅十五メートル、長さ五十メートル。
深さは浅い側が五十センチ、深い側が百センチ。
魔石ポンプで水を循環させ、砂の濾過槽を通してから戻す。
ガルバニ電池で作った消毒液が、少量ずつ供給されている。
アラクネ族が日陰の屋根を繊維で編んだ。
ミエル族が屋根の継ぎ目を蜜蝋でシールした。
三輪ゴーレムが重いパネルを積んで走り、資材を全部運んでいた。
コルソンが水質の数値を読んでいた。
「消毒効果、計算値と合致。藻の発生確率は三日後時点で〇・〇三パーセント。誤差の範囲内です」
「ありがとうございます」
「あと、入場人数が一時間あたり三十人を超えると、消毒液の追加供給が必要になります。供給タイミングは、ハシさんの電流感知で知らせてもらえれば計算できます」
ハシが「ウチの出番もあるんか」と笑った。
最初に水に入ったのは、子供たちだった。
大声を上げて飛び込んだ。
水が飛んだ。
「つめたい!」
また飛び込んだ。
スナルさんが、プールのそばの椅子から、その様子を見ていた。
「……夏が来たんだねえ」
声が、静かだった。
「避難前には、息子家族と川遊びにいったよ。」
リュミアが隣に座った。
何も言わなかった。
ただ、一緒に見ていた。
◇◇◇◇◇◇
アラクネ族が、水着を縫っていた。
蜘蛛糸は薄く、乾きが速い。
水着に最適だと、アラクネ族自身が言った。
仲間たちに配られた。
水場が開いた最初の午後は、妙な静寂から始まった。
静寂の理由は、デネブだった。
魔女が、人間の姿で、水の中に立っていた。
普段は猫か、何か別の生き物の姿でいる。
だが、結果として、プールに集まった成人男性の視線が、デネブの脚線美に集中していた。
避難民の男性も、傷痍兵も、グスタフ翁の弟子の職人たちも。
全員が、ちらちらと同じ方向を見ていた。
デネブは気にしていなかった。
水の流れを試しているのか、手を動かして水紋を眺めていた。
(……デネブさんって、そういうことに無頓着だったな)
石の上のレオンが、十二分前から同じ姿勢のままだった。
「レオン、何か飲むか」
「……要らない」
「水でも取ってこようか」
「……要らない」
「暑くないか」
「……暑くない」
全部「要らない」か「暑くない」か「うるさい」だった。
それ以上は聞かなかった。
ガルドが、プールの縁に仁王立ちしていた。
ラナがその後ろで、タオルを体に巻いたまま立っていた。
「……ガルド、私のことが見えますか」
「見えてる」
「ではなぜ、前に立っているんですか」
「別に前に立ってはいない」
ラナが横から顔を出した。
ガルドが横に動いた。
ラナがもう少し横に出た。
ガルドがまた横に動いた。
「……ガルドさん」
「何だ」
「これは、私の行動を制限していますよね」
「そういうつもりはない」
「では、なぜ動くんですか」
「日差しを遮っている」
ラナが空を見上げた。
(...どうも、ガルドはラナの水着姿をほかの男どもに見せたくないようだ。)
快晴だった。
「……日陰は、あちらのアラクネ族の屋根の下にありますわ」
「こっちの方が角度がいい」
「角度」
「うん」
ラナが小さくため息をついた。
「……あなたはいったい、誰から私を守っているつもりなんですか」
ガルドが答えなかった。
答えられなかったのかもしれなかった。
(……ガルドは正直な男だが、正直に言えないことがある)
(それが、こういう時に出る)
コルソンが水温計を手に、プールの端から端まで計測していた。
大男だった。
身長二メートル近い。
肩から背中にかけての筋肉が盛り上がっている。腕が、普通の人間の太ももほどある。
顔の造形が整っていた。
彫りが深く、顎の線が鋭く、鼻筋が通っていた。
古代の彫刻家が理想の人体を石に刻んだとしたら、こういう形になるだろう、と思わせる顔だった。
その男が、小さな温度計を持って、腰まで水に入っていた。
避難民の子供が一人、その足元を泳ごうとして、足に気づいて引き返した。
「……二十一・三度、誤差プラスマイナス〇・二度。循環ポンプの流量と、気温から逆算した想定値が二十一・一度でしたので、〇・二度の乖離がありますね」
誰も答えなかった。
プールの縁で日陰に座っていたマダムたちが、静かに視線を向けていた。
グスタフ翁の弟子の職人の中の、鍛えた体に自負のある若い大工が、少し口を開けていた。
「……何か、ありましたか」
コルソンが周囲を見た。
七人の大人が、自分を見ていた。
「数字に身体の大きさは関係ありませんよ」
「……そりゃあ、まあ」
「次は深さ別の水温を計ります。表面と底面で温度勾配がある可能性を検討したいので」
マダムたちが「何を言っているか分からないけど、いい声ね」と小声で話していた。
大工が「内容は分からないが、なんか悔しい」と言った。
そこへエルナが来た。
「あーっ、智也くん、私を置いていったね!」
「置いてはいない。仕事があると言った」
「仕事は終わったよー。えへへ」
エルナが水場の縁に立った。
水着を着ていた。
おっとりした顔で、無自覚に周囲を見回した。
「わあ、きれいな水ね」
プールにいた人間の視線が、また動いた。
デネブ一点に集中していた男性陣の視線が、分裂した。
レオンが十二分ぶりに首を動かした。
一秒後に、また止まった。
コルソンが水から上がってきた。
エルナの横に立った。
プールの縁にいた人間が、一斉に沈黙した。
二人が並んで立っていた。
エルナが腕を組んで水面を眺めていた。
コルソンが温度計を手帳に記録していた。
誰も動かなかった。
大工が「うわ」と言った。
マダムの一人が「ため息が出るわね」と言った。
別のマダムが「絵みたい」と言った。
(……確かに絵になっている)
(エルナとコルソンさんが並ぶと、なぜこんなに絵になるんだ)
(二人とも気づいていないのが、余計にいい)
ガルドが「なんだあれは」と言った。
ラナが「絵ですわ」と答えた。
「絵か」
「絵ですわ」
レオンが「あー……」と言って、石の上で天を仰いだ。
エルナが、コルソンの体格を一秒も見なかった。
「コルソンさん! 〇・二度の差って、水面からの蒸発熱が原因じゃないかなって思うんですけど、どう思いますか」
コルソンが目を輝かせた。
「! 正確には気温と水温の差から計算できます。本日の気温が三十一度で、水温が二十一・三度なら、蒸発による熱損失は毎時間当たり〇・〇四度で、これを踏まえると」
「あ、でも湿度が七十パーセントだから、蒸発効率が下がって〇・〇三度になるんじゃないかと」
「それは正確な補正ですね! 湿度を加味すると確かに〇・〇三度になります。さらに言えば、循環ポンプの発熱量も加算する必要があって、一時間当たり〇・〇〇七度の上昇を見込むと」
「じゃあ実測値との差は〇・〇〇三度の範囲に収まるはずで、そうなると最初の〇・二度はやっぱり蒸発熱で説明できますね!」
「完全に一致します! エルナさん、なぜ計算過程なしで最終値を」
「感覚ですよー、えへへ」
「感覚で〇・〇〇三度を出せるのですか。叔父上と同じ種類の人間ですね」
「コルソンさんもオルソンさんと同じ種類じゃないですか!」
「はい、同じ種類です。誤差が気になります」
「わかります!」
二人が向き合って笑った。
その笑顔もまた、絵になった。
プールの縁にいた人間が、全員その笑顔を見た。
誰も話の内容を理解していなかった。
「〇・〇〇三度って何の話だ」と大工が言った。
「分からないけど、すごそうね」とマダムが言った。
「俺には全く分からない」とガルドが言った。
ラナが「私も分かりませんが、楽しそうですわ」と言った。
「楽しそうだな」
「ええ」
ガルドとラナが、二人並んで、エルナとコルソンを見ていた。
「……ガルド」
「何だ」
「今、あなたは私の前に立っていませんわよ」
ガルドが「あっ」と言って、またラナの前に立った。
「遅いですわ」
「すまん」
「……少しだけ許しますわ」
ラナがタオルを少しだけ緩めた。
ガルドが前を向いたまま、耳が赤くなった。
智也はプールの縁に腰を下ろして、水に足だけをつけていた。
リュミアが隣に座った。
「智也、みんな楽しそうだね」
「そうだな」
「智也は?」
「俺も楽しい」
「入らないのに?」
「外から見る方が、全部分かる」
リュミアがちょっと笑った。
「嘘くさい」
「本当だ」
リュミアが足を水の中でゆっくり動かした。
「ねえ、智也」
「何だ」
「今日、一万二千人いた避難民が、みんな屋根の下に入れた。ライラが言ってた。患者数も落ち着いてる。台帳もつながってる」
「そうだな」
「それで、子供たちが水で遊んでる」
リュミアが足を止めた。
「これが、やりたかったことだよね」
智也は水の中に広がる子供の声を聞いた。
遠くで、スナルさんが椅子に座ってそれを見ていた。
「そうだ」
「よかった」
リュミアが、また足を動かし始めた。
水が揺れた。
「……じゃあ入ろうよ、智也」
「もう少しだけ」
「絶対入らないでしょ」
「入る。もう少しだけ、準備する」
「なんの準備」
「……精神的な準備だ」
リュミアが「えー」と言って、智也の腕を引っ張った。
夏の午後が、水の音の中にあった。
【読者の皆様へ】
最後まで読んでいただき、心より感謝申し上げます。
日常の忙しさの中で、数分でもこのファンタジーの世界を楽しんでいただき、現実から離れてリラックスできる一助となれば幸いです。




