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第191話《灰と、蜜の道》 一蜜酵素の堆肥槽一

1.数が、増えている

 

午後、暁の盾のヒーラーのライラが研究室に来た。

 

凛とした骨格の顔に、まだ幼さが残っている。

 

短く整えられた外套の下から、聖印の刻まれた銀のメイスの柄が覗いていた。

 

珍しく、息が上がっていた。

 

冒険者の足で、走って来たらしい。

 

ライラが入ってくると、腰の銀のメイスを外して、扉脇の壁に立てかけた。

 

「智也さん、ご相談があります」

 

「座ってください」

 

ライラが椅子に腰を下ろさず、立ったまま用件を話し始めた。

 

「規格化住宅と新長屋の入居が始まって、ここ十日で、患者数が増えています」

 

「症状は」

 

「下痢と発熱。特に子供の比率が高い。乳幼児三人、いずれも脱水状態です」

 

「進行速度は」

 

「現在のペースなら、二日から三日のうちに最初の死者が出ます」

 

(……感染症の典型的な始まりだ)

 

(経口感染。水か食物。集団に同時発生しているなら、共通の感染源がある)

 

「井戸の水を疑っています」

 

「同じ判断です」

 

「水質の検査はできますか」

 

「形式的には。煮沸前と煮沸後で粘膜への刺激を比較する方法があります。ただ、原因菌を特定する手段はこの世界にはありません」

 

「それで十分です」

 

ライラがようやく座った。

 

それだけ言って、少し黙った。

 

「現場を案内してもらえますか」

 

「すぐ行きましょう」

 

 

 

2.流れる水、流れない水

 

住宅密集地の井戸の前に、智也とライラ、リュミアが立っていた。

 

井戸の周りには、洗濯物を干す女性たちが集まっていた。

 

ライラが井戸から水を汲んだ。

 

透明だが、口に近づけると、わずかに鉄錆びとも違う匂いがした。

 

(……地下水が何かに汚染されている)

 

井戸の周辺の地形を、智也は歩きながら確認した。

 

住宅は密集していて、家と家の間に共用のトイレがいくつか掘られていた。

 

トイレと呼べるかどうか怪しい、地面にただ穴を開けただけのものもあった。

 

(……ここから雨で流れ出した排泄物が、傾斜に沿って井戸の方向に流れている)

 

(地下に染み込んで、地下水脈に乗って、井戸の中に到達する)

 

(典型的な経路だ。前世で言えば、江戸時代までの日本でも同じことが起きていた)

 

ライラが横で水質確認用の紙片を浸していた。

 

紙片の色がじわじわと変わっていく。

 

「やはり、汚染されています」

 

「予想通りでしたか」

 

「予想通りでした。だが、原因が分かっても、解決策が分からない。煮沸を呼びかけても、薪が足りない家がある。それに、洗濯や手洗いに使う水まで全部煮沸はできない」

 

「煮沸は対症療法です。本来の解決は、汚染源を断つことです」

 

リュミアが小声で「トイレのこと?」と聞いた。

 

「そうだ」

 

(……問題は二段ある)

 

(一段目、排泄物を集める仕組みがない。地面に垂れ流しになっている)

 

(二段目、集めた後の処理の仕組みがない。仮に集めても、置き場所がない)

 

(どちらか片方だけ作っても、もう片方で詰まる)

 

(両方を同時に設計する)

 

井戸の管理を任されている、痩せた老婦人が、桶を傾けたまま智也の話を聞いていた。

 

「あんたら、便所のことを言っているんかね」

 

「はい」

 

「うちの孫が、三日前から熱を出している」

 

「治る病気です。ただ、井戸が原因なら、これからもっと出ます」

 

老婦人はしばらく智也を見て、深く頷いた。

 

「あんたが何か作るんなら、うちは協力する。便所くらい、どこに作ってもいい」

 

(……分かっている人は、もう分かっている)

 

(誰も気づいていないわけじゃない。誰も解決の手段を知らないだけだ)

 

 

 

3.灰、蜜、嘴

 

工房に戻って、ビトルとグレンを呼んだ。

 

机に図面を広げる。

 

「集約式の便槽べんそうを設計する」

 

グレンが眉を上げた。

 

「便所のことか」

 

「そうだ。各家に小さな便槽を作っても、結局染み出す。集約して、地下に大きな槽を作り、防水する」

 

「防水材は」

 

「スラグ複合材だ。型に流し込んで、内壁を一体成形する」

 

ビトルが「製造可能です」と頷いた。

 

「臭気と発酵の問題は」

 

「灰を使う」

 

「灰」

 

「アルカリ性で、臭気を抑え、病原を弱らせる。古代から世界中で便所に使われてきた」

 

(……前世の日本でも、明治の手前まで、灰落とし便所が普通だった)

 

(科学が遅れていた時代の知恵は、馬鹿にできない)

 

「ただし、灰だけでは発酵が遅い。完全に堆肥になるまで、半年から一年かかる。それでは間に合わない」

 

グレンが「もっと早める方法はあるのか」と聞いた。

 

「蜜蜂族の蜜を、酵素源として使う」

 

ビトルが顔を上げた。

 

「ミエルさんの蜜ですか」

 

「あの蜜は、酵素の濃度が普通の蜂蜜の数倍ある。タンパク質と糖の分解を劇的に早める性質を持つ」

 

(……現代の食品工業でも、酵素は発酵を制御するために使われている)

 

(蜜蜂族の蜜は、自然界で最強の酵素溜まりだ)

 

グレンが「で、結果として」

 

「数週間で堆肥化が完了する。臭気はほぼ消える。中身は農地に投入できる肥料になる」

 

ビトルが計算を始めた。

 

「使う蜜の量、ミエルさん側で生産が間に合いますか」

 

「ミエルに直接聞こう」

 

 

ミエルが工房に来たのは、その日の夕方だった。

 

小柄で、背中に薄い翅を畳んだ蜜蜂族の女性だ。

 

事情を聞いて、しばらく考えてから頷いた。

 

「蜜は出せる。今の備蓄で、便槽十基分は確保できる」

 

「助かる」

 

「人間が出したものを、蜜が分解する。面白い使い方だ」

 

ミエルがそれだけ言って、頭を下げて帰っていった。

 

 

井戸の問題も、別に処理が必要だった。

 

便槽を作っても、既存の井戸の汚染は数か月残る。

 

新しい井戸を、汚染源から離れた場所に掘り直す必要があった。

 

ただ、地下水は地表の地形と必ずしも一致しない。

 

表面上は離れていても、地下では繋がっていることがある。

 

ここでハシ(カモノハシ族)を呼んだ。

 

ハシは地下を流れる微弱な電流を感知できる。

 

水が地中を流れるとき、わずかなイオン移動による電流が発生する。

 

ハシのくちばしは、その電流を読む。

 

井戸の周辺を、ハシが半日かけて歩き回った。

 

夕方、結果を持って来た。

 

「井戸から見て、北東に二十歩。便槽予定地はそこから南西に三十歩。地下水は北東から南西に流れている」

 

(……つまり、井戸は地下水の上流側、便槽は下流側に置けば、汚染が逆流しない)

 

「ハシ、新しい井戸の位置は、現在地から北東に二十歩でいいか」

 

「うん。あそこの土は乾いてない。十メートル掘れば水が出る」

 

「決まりだ」

 

 

 

4.数が、減る

 

工事は三日で終わった。

 

集約式便槽四基がスラグ複合材で成型され、地中に埋設された。

 

内側に灰の溜め枡が組まれた。

 

便槽の入口に、灰を一掴み撒く仕組みを添えた。

 

ミエルの蜜が、便槽の底に既に投入されている。

 

新しい井戸が、地下水の上流側に掘られた。

 

古い井戸は、井戸の蓋に張り紙を貼って使用禁止にした。

 

 

一週間が経った。

 

ライラが報告に来た。

 

書類を持っていたが、それを開く前に、座って息を整えた。

 

「報告です」

 

「お願いします」

 

「下痢の新規発生件数が、先週の半分以下になりました」

 

「乳幼児は」

 

「三人とも、回復に向かっています。二人はもう普通に食事を取れています」

 

ライラが書類を開いた。

 

数字が並んでいた。

 

「便所の使用率は予想より高いです。最初は抵抗があると思ったのですが、灰を撒くだけの仕組みが、住民に受け入れられました」

 

「臭気は」

 

「ほぼありません。蜜の効果が、想定以上に出ています」

 

ライラが少し黙ってから、続けた。

 

「ありがとうございました」

 

彼女が口にする言葉の中で、智也が初めて聞く類のものだった。

 

(……ライラさんは、感謝を受け流す人だった)

 

(自分が言う側に回ったのは、初めてかもしれない)

 

「処置を実行したのは、ライラさんの仲間と現場の人たちです」

 

「……それでも」

 

ライラは少しの間、机の上の数字を見ていた。

 

「私たちが救えなかったかもしれない子供が、今、家で泣いています。泣ける状態にいます」

 

「いいことです」

 

「いいことです」

 

ライラが繰り返した。

 

普段の彼女らしくない、感情の溢れた声だった。

 

リュミアが横で何も言わずに、ライラの肩に手を置いた。

 

 

 

5.土と、機械を動かすもの

 

二週間後、最初の便槽から堆肥が取り出された。

 

匂いは、ほぼ無臭に近い土の匂いだった。

 

(……完全に発酵しきっている)

 

(窒素とリン酸とカリウム、農地に欲しい成分が全部ある)

 

堆肥は王都近郊の農地に運ばれた。

 

受け取った農夫が、手で堆肥を握って、首を傾けた。

 

「これ、本当に……」

 

「人間が出したものから、作った肥料です」

 

農夫がしばらく堆肥を見つめてから、言った。

 

「土が、変わるな」

 

「変わります」

 

 

ミエルが翌日、工房に来た。

 

小さな壺を抱えていた。

 

「ところで、トモヤさん」

 

「何だ」

 

「うちの蜜を、もっと大量に使う仕事はないか」

 

(……生産が増えると、消費先が要る。ミエルたちの里の経済の話でもある)

 

智也は少し考えた。

 

「ある。ゴーレムの関節部の潤滑に、蜜が使えるかもしれない」

 

ミエルが首を傾けた。

 

「潤滑」

 

「動くものが、滑らかに動くための油の代わりだ。普通の油は時間が経つと固まるが、お前の蜜は性質が違う。試してみる価値はある」

 

「……うちの蜜が、動くものを動かすのか」

 

「試してみないと分からない」

 

ミエルが頷いて、少し笑った。

 

「面白い。蜜の使い道が、毎年増えていく」

 

壺を差し出した。

 

「この蜜は、里で一番粘りの強い個体から取った。普通の蜜より結合力が高い。試してくれ」

 

壺を受け取ると、手の中に確かな重みがあった。

 

(……動くものを、動かす蜜か)

 

ミエルが帰り際に、振り返って言った。

 

「ゴーレムが動いたら、見せてくれ」

 

「約束する」

 

扉が閉まった。

 

 

夜、机の上で、智也は地脈ポイントの圧力計測の図面を引いていた。

 

コモンス領のどこに、最も強い地脈の通り道があるか。

 

そこの地下深部の圧力と温度がどれくらいか。

 

ハシの計測能力をどう応用するか。

 

(……純化魔石が作れたら、ゴーレムが動く)

 

(机の上に、図面が三種類並んでいた。建材、肥料、潤滑。三つとも、誰かが捨てるはずだったものから始まった)

 

窓の外から、夜の風が入ってきた。

 

少し前まで、井戸の匂いが混じっていた風が、今は、ただの風だった。

 

リュミアが机の隣に来て、覗き込んだ。

 

「次は、何を作るの」

 

「動くもの」

 

「動くもの?」

 

「人が中に乗らないで動くもの」

 

リュミアが少しの間、考えてから言った。

 

「楽しみだね」

 

智也が頷いて、線を引き続けた。

 

【読者の皆様へ】

最後まで読んでいただき、心より感謝申し上げます。

日常の忙しさの中で、数分でもこのファンタジーの世界を楽しんでいただき、現実から離れてリラックスできる一助となれば幸いです。


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