誰も望まなかった未来…
第二話『望まなかった未来』をお届けします。
平和を願い、誰もが笑顔で暮らせる未来を信じてきたフィア。
けれど、その願いだけでは越えられない現実が、彼女の前に立ちはだかります。
今回は少し重い展開となりますが、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
国境へ向かう馬車の中で、フィアは窓の外を見つめていた。
遠くに、細い煙が上がっている。
城を出る前、母アレンはフィアの手を握り、「危険だと思ったら、必ず退いてね」と繰り返した。かつて勇者だった母が、戦いを恐れるようになったわけではない。守りたいものが増えたのだと、フィアには分かっていた。
三日前、人族の兵士を名乗る一団に襲われた魔族の村だった。
焼けた家屋の修復は、まだ終わっていない。
そして、その翌日。
人族の交易隊が、今度は魔族の武器を持った者たちに襲われた。
双方の国は関与を否定している。
それでも国境では、すでに報復の矢が飛び始めていた。
「お姉さま」
隣に座っていたミアが、不安そうにフィアを見る。
十二歳になった妹の膝には、相変わらず分厚い魔導書が置かれていた。
「本当に、お姉さまが行く必要があるのですか?」
「だからこそ、わたしが行くのよ」
「でも……」
ミアの小さな手が、ぎゅっと握られる。
フィアは、その手に自分の手を重ねた。
「大丈夫」
「お祖父さまも、同じことを言います」
「あら」
「お母さまも、お父さまも言います」
「……それは困ったわね」
フィアが笑う。
ミアも、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その表情から不安は消えなかった。
「剣を持っている人たちに、本当に話を聞いてもらえるのでしょうか」
フィアはすぐには答えなかった。
十二年前。
まだ六歳だった自分が、平和の祭典で口にした言葉を思い出す。
――意見が違うときは、剣ではなく、言葉でお話しします。
あのころは、それがどれほど難しいことなのか知らなかった。
十八歳になった今なら分かる。
人は怒る。
恐れる。
大切なものを傷つけられれば、相手の言葉など聞きたくなくなる。
それでも。
だからこそ。
「聞いてもらうの」
フィアは答えた。
「剣を抜いてしまったあとでは、話せなくなることがあるから」
向かいに座っていたリリアが静かに頷いた。
姿は、かつて勇者アレンと呼ばれた人族の男。
けれど、その身体で生きているのは魔王の娘リリアだ。
「フィアから離れるつもりはない。わたしも一緒に行くぞ」
「お父さま……」
「人族側と話すなら、勇者のわたしがいた方が話も通りやすいだろう」
そしてリリアは、ミアへ微笑んだ。
「さあ、ミアはここまでだ。目的の古い魔導書は、この辺りの本屋にあるんだろう?」
「はい、お父さま。この先の町の古書店にあると聞いています」
「それなら、護衛と一緒に寄っておいで。用事が済んだら魔王城へ戻って、お母さまのそばにいてくれ」
「……お父さまも、必ず帰ってきてください」
「もちろん」
「約束です」
「ああ。約束する」
馬車が国境近くの分かれ道に差しかかると、ミアは護衛に付き添われて、古書店のある町へ向かう別の馬車へ乗り換えた。
「お姉さま、お父さま。どうか、お気をつけて」
フィアが頷き、リリアも軽く手を上げる。
その約束が。
こんなにも重いものになるとは、三人とも知らなかった。
国境には、すでに両軍が集結していた。
魔族側には、焼かれた村を見た兵士たち。
人族側には、襲撃された交易隊の護衛や、その仲間たち。
互いの距離は遠くない。
誰か一人が剣を抜けば。
誰か一人が矢を放てば。
それだけですべてが始まる。
両軍の中央。
急ごしらえの天幕の下に、一つの卓が置かれていた。
フィアは人族と魔族、双方の指揮官をそこへ座らせた。
その隣にはリリアが立つ。
「まず、確認させてください」
フィアが静かに口を開いた。
「魔王ヴァルガスは、人族への攻撃を命じていません」
魔族側の指揮官が頷く。
「そしてアルベルト王も、魔族の村への攻撃を命じていないと正式に回答しています」
人族側の指揮官も頷いた。
「ならば――」
フィアは二人を見た。
「わたしたちは、誰の命令で戦おうとしているのですか?」
誰も答えなかった。
「襲撃者が人族の装備を使っていた。それは事実です」
フィアは魔族側を見る。
「交易隊を襲った者たちが、魔族の武器を使っていた。それも事実です」
今度は人族側を見る。
「でも、それだけです」
「フィア姫」
魔族側の指揮官が低い声を出した。
「村では子供まで怪我をしています」
「分かっています」
「人族の兵がやったのですぞ」
「人族の兵の格好をしていた者たちです」
フィアは言い直した。
「まだ、それ以上のことは分かっていません」
人族側の指揮官も拳を握る。
「我々の交易隊では死者も出た。護衛として同行していたヴァイス男爵も殺されている。現場には魔族の剣が残されていた」
フィアの表情が曇った。
死者が出ている。
それは、言葉だけでは消せない事実だった。
「だからこそ、調べるのです」
フィアは両者を見る。
「人族の王も、魔族の王も、この攻撃を命じてはいません。いま剣を抜けば、本当に争いを望んでいる者の思うつぼです」
沈黙。
やがて、人族側の指揮官が息を吐いた。
「……王都からも、独断で動くなと命じられている」
魔族側も頷く。
「我らも同じだ。魔王陛下から、フィア姫の話を聞くまでは剣を抜くなと」
フィアの表情がわずかに緩んだ。
まだ間に合う。
「では、双方の兵をいったん――」
天幕の外で、馬のいななきがした。
護衛の兵が振り向く。その向こうに、息を切らせて駆けつけた銀紫色の髪の女性が見えた。
「……お母さま?」
フィアが呼びかけるより早く。
そのときだった。
「フィア!」
リリアが叫んだ。
白い閃光が、人族側の陣の向こうから飛び出した。
聖なる光をまとった一本の槍。
まっすぐフィアの胸を狙っている。
リリアが聖剣へ手を伸ばす。
間に合わない。
「伏せろ!」
叫んだのは、アレンだった。
普段の柔らかな口調ではない。かつて男の勇者として戦場を駆けていた頃の、鋭い命令の声が、娘の危機を前に咄嗟に飛び出したのだ。
銀紫色の影が飛び込んだ。
肉を貫く、鈍い音。
「……え?」
フィアの頬へ、温かいものが落ちた。
血だった。
「お……母さま?」
アレンが、フィアを抱き締めていた。
魔王の娘リリアの身体。
かつて勇者だったアレンが、その身体で娘を庇っていた。
背中には、白い槍が深々と突き刺さっている。
――その少し前、魔王城。
城内の廊下を歩いていたアレンのもとへ、一人の伝令が駆け込んできた。
「アレン様! 警備隊から緊急の報告です!」
「どうしたの?」
兵士は息を整える間も惜しむように、一通の書類を差し出した。
「国境へ続く街道で、不審な荷を運ぶ一団が目撃されました。武器を搬送している可能性があるとのことです」
「……武器?」
アレンは書類を受け取り、すぐに目を走らせた。
そこには、警備隊の調査報告が記されていた。
『所属不明の一団が、軍の輸送記録にない荷車を使用していることを確認。積荷は布で覆われており、武器類の可能性あり。国境の会談場所に近い街道へ向かったと推定される』
まだ確かな証拠はない。
けれど、アレンの表情が変わった。
「……フィアたちが向かった場所じゃない」
「はい。ただ、積荷が武器であるという確証は、まだ……」
「確かめてからでは、遅いかもしれないわ」
アレンは書類を握り締めた。
城を出る前、フィアの手を握って何度も言い聞かせた。
危険だと思ったら、必ず退いてね、と。
けれど。
もし、あの子が危険に気づくより先に、何かが起こったら。
「国境の部隊にも、すぐ知らせてちょうだい」
アレンは書類を兵士に返し、踵を返した。
「わたしは先に行くわ」
「アレン様! せめて護衛の手配を!」
「待っていられないの」
その声に迷いはなかった。
「フィアたちを、危険な目に遭わせるわけにはいかないもの」
アレンは厩舎へ駆け込み、馬に飛び乗った。
銀紫色の髪を風になびかせ、魔王城の門を駆け抜けていく。
娘たちの無事を、ただ祈りながら。
蹄鉄が石畳を叩く音が、城門の下で激しく反響した。
アレンは低く身を伏せ、手綱を握る指に力を込める。
「お願い……もっと速く……!」
馬が力強く地面を蹴った。
アレンは片手で手綱を操りながら、もう一方の手を馬の首筋へ伸ばした。
「……あなたにも、少しだけ無理をさせるわ」
指先に淡い光が灯る。
脚力を高め、駆ける足取りを支える補助魔法。
馬の四肢に魔力が行き渡った瞬間、蹄が石畳を打つ間隔が狭まり、吹きつける風がいっそう鋭くなった。
門前の石畳が後方へ流れ、城下町の家並みが瞬く間に遠ざかる。行き交う荷馬車を避け、街道へ飛び出すと、左右に広がっていた畑が緑の帯となって視界を走り抜けた。
風が頬を打つ。息を吸おうとするたび、冷たい空気が喉の奥まで突き刺さった。
けれど、速度を緩める気にはなれなかった。
――武器を運ぶ、所属不明の一団。
――会談場所へ向かった可能性。
書類にあった言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
まだ何も起きていないかもしれない。
そうであってほしい。
でも、もし一刻遅れたら。
もし、フィアが皆を説得しようと、危険な場所に立ち続けていたら。
「……駄目よ。あの子は、きっと退かない……!」
平和のためなら、相手が剣を握っていても話しかける。あの子はそういう娘だ。
誇らしかった。その優しさを、何より大切に思っていた。
だからこそ、怖い。
かつて勇者として敵陣へ斬り込んだときでさえ、こんな恐怖は知らなかった。自分が傷つくことよりも、遠くにいる娘が傷つくかもしれないことの方が、ずっと恐ろしい。
街道が森へ入った。
木々の影が目の前を飛ぶように過ぎる。曲がり角の手前でアレンはわずかに重心を移し、馬の進む向きを変えた。枝が肩先を掠めても、振り返らない。
蹄の音が土の道に沈み、代わりに馬の荒い息が耳元へ迫った。
首筋は汗で濡れ、背中が大きく上下している。
どれほど補助魔法で支えても、これだけの距離を全力で走らせれば、馬も疲れる。
アレンは唇を噛み、手綱を片手に持ち替えた。
「ごめんね……あなたも苦しいわよね」
そっと触れた首筋から、回復魔法を流し込む。
熱を帯びた筋肉の疲労が和らぎ、荒かった呼吸が少しずつ整っていく。
さらに補助魔法を重ね直すと、乱れかけていた足運びが力強さを取り戻した。
けれど、アレンの胸の動悸だけは治まらない。
もし、この馬が力尽きてしまったら。
もし、そのわずかな遅れの間に、フィアの身に何か起きたら。
「あと少し……頑張って……!」
馬の耳がぴくりと動いた。
アレンはその首筋を一度撫でると、手綱を握り直し、森を抜けたところで再び速度を上げた。
視界が一気に開ける。
乾いた街道。その先に、国境の丘。
さらに向こうには、人族と魔族の旗が、小さく、しかし確かに見えていた。
胸の鼓動が跳ね上がる。
近い。
なのに、まだ遠い。
どれだけ走っても、胸を締めつける嫌な予感だけが先へ先へと駆けていく。
「フィア……ミア……どうか無事でいて……!」
丘を駆け下りたとき、陣地の方角から馬のいななきが聞こえた。
アレンは歯を食いしばる。
――間に合って。
その祈りを抱えたまま、最後の距離を駆け抜けた。
――そして、今。
間に合った。
けれど、その代償はあまりにも大きかった。
「アレン!」
リリアが駆け寄る。
アレンの身体から力が抜けた。
「お母さま!」
フィアとリリアが二人で、その身体を抱き止める。
「アレン! わたしを見てくれ!」
「……リリア」
掠れた声。
「フィアは……?」
「無事だ! 君が守ってくれたんだ!」
アレンは、ほんの少しだけ笑った。
「……よかった」
そのまま目を閉じる。
「アレン?」
返事がない。
「アレン!」
治癒術師が駆け寄り、槍を調べた。
その顔から血の気が引く。
「聖毒です!」
「なんだって?」
「魔族の再生力を封じる毒です! このままでは治癒魔法が……!」
リリアの顔から表情が消えた。
フィアの両手は、母の血で真っ赤に染まっている。
そして。
天幕の外で怒号が上がった。
「人族がフィア姫を殺そうとした!」
「違う! 我々ではない!」
「槍はそちらから飛んできた!」
剣が抜かれる。
魔族兵が人族へ飛びかかろうとした。
その間へ。
リリアが立った。
聖剣を抜く。
人族兵が身構える。
魔族兵も足を止める。
だがリリアは。
その剣を誰にも向けなかった。
地面へ深く突き立てた。
*「全員、剣を収めろ!」
勇者の声が国境へ響いた。
*「この姿を見ろ!」
リリアは自分の胸を指した。
*「お前たち人族が、勇者と呼んできた姿だろう!」
人族兵が息を呑む。
そしてリリアは、血に染まったアレンを示した。
*「いま倒れているのは、魔王の娘の姿をしたアレンだ!」
その声が震える。
それでも、リリアは叫び続けた。
*「見た目だけで人族か魔族かを決め、敵と味方を分ける愚かさを――わたしたちは、ずっと前に思い知ったはずだろう!」
誰も動けない。
*「この槍を放った者を探す」
リリアは人族を見る。
そして魔族を見る。
*「人族だからでも、魔族だからでもない。犯人を見つけるまで、誰にも戦わせない!」
長い沈黙のあと。
人族側の指揮官が、ゆっくり剣を鞘へ戻した。
魔族側も続く。
リリアは聖剣を抜き取ると、アレンのもとへ駆け戻った。
「アレン……」
その手を握る。
*「あなたが守った平和を、ここで壊させたりしない」
――その日は。
戦争にならなかった。
*
誰も気づかなかった。
国境から少し離れた丘。
木々に覆われた岩場に、一人の女が伏せていたことを。
女は大型の弩を静かに下ろした。
短い槍を撃ち出すために作られた特殊な魔導弩。射出した槍に聖なる光をまとわせる術式が刻まれていた。
女の視線の先では、魔族の女が運び出されていく。
「……外した」
小さく呟く。
フィアを狙った一撃だった。
だが、その声に悔しさはなかった。
女は首元へ手を伸ばす。
細い鎖の先。
そこには、一つの指輪が下がっていた。
つい数日前まで。
別の誰かの左手にあったもの。
女はそれを強く握る。
「でも……これでいい」
国境では、人族と魔族が互いを疑っている。
目的は果たされた。
女は弩を背負うと、森の奥へ姿を消した。
*
アレンは魔王城へ運び込まれた。
命は取り留めた。
だが、目を覚まさない。
聖毒は魔族の身体へ深く入り込み、再生力を封じていた。
治癒魔法をかけても、傷が塞がる速度はあまりにも遅い。
ミアは治癒師に尋ねた毒の名前を手帳へ書き留め、魔導書の中に対処法がないかを探し始めていた。泣くのは、できることを全部試してからにすると決めていた。
ベッドの脇で、ヴァルガスは一言も発しなかった。
その反対側では、リリアがずっとアレンの手を握っている。
「……お祖父さま」
フィアが呼びかけた。
「誰がやった」
低い声だった。
「まだ分かりません」
「槍は人族側から飛んだ」
「でも、人族の指揮官も知らないと言っています」
「人族の方角から放たれた」
「それだけでは――」
ヴァルガスの拳が震えた。
「我が娘が、死にかけている」
「お父様」
リリアが立ち上がった。
ヴァルガスが娘を見る。
「わたしだって、許せない」
リリアの手も震えていた。
「アレンをこんな目に遭わせた者を、今すぐこの手で斬りたい」
「ならば――」
「でも、だからこそです」
リリアは眠るアレンを見る。
「アレンなら、何と言うと思う?」
ヴァルガスが黙った。
「きっと怒るだろうな。『わたしを理由に戦争なんて始めないで』って」
フィアは思わず、ほんの少しだけ笑った。
本当に言いそうだった。
ヴァルガスも同じだったらしい。
怒りに歪んでいた顔が、わずかに緩む。
「……分かっている」
「お父様」
「分かっておる。アルベルトが、このような命令を出す男ではないことくらい」
ヴァルガスは眠るアレンを見つめた。
「だから、調べる」
そして立ち上がる。
「我はまだ、剣を抜かぬ」
リリアも頷いた。
「わたしも調べる。勇者として、人族側にも問い合わせよう」
「任せる」
かつて、フィアが生まれるより前。
剣を交えた父と娘が。
今度は同じものを守ろうとしていた。
*
その日の夜、アルベルト王から緊急の返答が通信術式を通じて届いた。
――フィア姫への襲撃を、人族王家は断じて命じていない。
――襲撃者をただちに捜索する。
――必要ならば、ユリウス王子自ら国境へ赴き、魔王国へ説明する。
その文面を読んだヴァルガスは、長い沈黙のあとに言った。
「……ユリウスを来させるな」
フィアが驚く。
「お祖父さま?」
「今の国境へ十五の王子を出せば、次に狙われるのはあやつだ」
リリアが小さく笑った。
「お父様らしいな」
「何がおかしい」
「いや。少し安心しただけだ」
「ふん」
ヴァルガスは書状を畳む。
「アルベルトへ伝えろ。王子を王都から動かすな。代わりに双方で調査団を作る」
「はい!」
まだ。
平和は壊れていない。
*
翌朝。
アルベルト王は、合同調査を正式に認める新たな使者を魔王国へ送り出した。
馬車の中には、王家の印章が押された正式な書状がある。
人族と魔族による合同調査を受け入れる。
そう記された書状だった。
数日後。
魔王城まで、あと半日の距離。
街道に、一人の女が立っていた。
「止まれ!」
護衛兵が剣を抜く。
「何者だ!」
女は答えない。
「我々はアルベルト王の使者だ! 魔王国との和平に関わる重要な――」
「知っているわ」
初めて。
女が口を開いた。
護衛の表情が変わる。
「知っているから」
女は外套の内側から、使い慣れた短剣を抜いた。
「ここで死んでもらうの」
数分後。
街道は静かになっていた。
倒れた使者の懐から、女が本物の書状を抜き取る。
代わりに。
別の命令書を差し込んだ。
――魔族の姫フィアを捕らえ、抵抗する者はすべて討て。
アルベルト王の印章まで精巧に再現されている。
女は立ち上がった。
その胸元で、小さな指輪が揺れる。
ほんの一瞬だけ。
女の顔に痛みが浮かんだ。
「……あなた」
指輪へ触れる。
「もう少しだけ、待っていて」
そして女は。
何事もなかったかのように、街道から消えた。
*
使者の死体と命令書が発見された。
「偽物です」
リリアが即座に言った。
「なぜ分かる!」
将軍の一人が声を荒らげる。
「先に届いたアルベルト王の返答と矛盾しているからだ」
リリアは二通の文書を卓へ並べた。
「つい先日、アルベルト王は通信術式を通じて、フィアへの襲撃に関与していないと返答してきた。襲撃者の捜索を約束し、合同調査にも同意している」
その言葉には、書状の内容だけではない確信があった。
ヴァルガスとアルベルト王。
二人が十二年という歳月をかけて築いてきた友情と信頼を、リリアは誰よりもよく知っていた。
「父上とアルベルト王は、十二年間、共に平和を守ってきたんだ。そんなアルベルト王が自ら和平を壊して、何の得がある?」
リリアは命令書を指差した。
「それにフィアを殺そうとした直後、今度は捕らえろ? 命令として不自然すぎる」
「ならば、この印章は何なのです!」
「だからこそ調べるんだ!」
リリアの声が軍議室を貫いた。
「分からないことを、分からないまま敵意で埋めるな!」
将軍たちが黙る。
だが。
城の外では、すでに噂が広がっていた。
――人族がフィア姫を暗殺しようとした。
――アレン姫が代わりに倒れた。
――人族の王はフィア姫を捕らえる命令を出した。
事実と嘘が混ざり合い。
誰にも、ほどけなくなっていく。
さらに、その日の午後。
国境で再び衝突が起きた。
魔族の兵が三人死亡。
翌日には、人族側の砦が襲われた。
死者、七人。
その次の日。
魔族の村が焼かれた。
死者、十一人。
和平を信じろ。
そう言うたびに。
新しい棺が増えていった。
*
数日後。
ヴァルガスは軍議の席で、両手を卓についたまま俯いていた。
「陛下」
老将が言った。
「国境の兵たちは、もはや限界です」
「……」
「このままでは、命令せずとも戦い始めます」
フィアが祖父を見る。
「お祖父さま。アルベルト王と直接話してください」
「使者は殺された」
「なら、通信魔法を」
「二度妨害された」
「なら、わたしが行く」
声を上げたのは、リリアだった。
「お父様。わたしが王都へ行く」
「ならん」
「わたしは勇者だ。人族なら、まだわたしの言葉を聞く者がいる」
「だからこそ行かせられん!」
ヴァルガスが立ち上がった。
「アレンがこの有様で、お前まで失えというのか!」
「では、何もしないまま戦争になるのを待つのか!」
父と娘が睨み合う。
「フィアが生まれるより前」
リリアが言った。
「わたしはお父様に剣を向けた」
ヴァルガスの眉が動く。
「あの日、わたしがお父様を倒したのは――こんな未来を見るためじゃない」
「……」
「お父様を殺さなくても、戦争を終わらせられる。人間と魔族は一緒に生きられる。わたしたちは、それを証明したはずだ」
ヴァルガスは何も答えない。
「わたしは勇者として王都へ行く」
「駄目だ」
「お父様!」
「それでも駄目だ!」
ヴァルガスの拳が震える。
「我は……お前まで失いたくない」
リリアの表情が変わった。
怒りではなかった。
ヴァルガスは目を伏せる。
「我は、怖いのだ」
魔王の口から出たとは思えないほど、静かな声だった。
「アレンが目を覚まさぬ。フィアは狙われた。国境では民が死んでいる」
「お父様……」
「十二年間、信じてきた。人も魔族も変われると。アルベルトとも何度も酒を飲んだ。あの男が卑劣な命令を出す者ではないことも知っている」
「なら――」
「だが、何を確かめようとしても、そのたびに誰かが死ぬ!」
拳が卓へ落ちた。
「我は魔王だ。民を守らねばならぬ」
長い沈黙のあと。
ヴァルガスは命じた。
「全軍を国境へ進める」
フィアが息を呑む。
「ただし、人族領へは入るな」
「お祖父さま……」
「攻撃された場合のみ反撃を許可する。こちらから戦端を開くことは許さん」
リリアが父を見る。
まだ。
父は平和を捨てていない。
それを壊そうとしている者は。
そのことさえ、計算していた。
*
二日後。
魔族軍の前衛部隊が、人族側から攻撃を受けた。
少なくとも、生き残った兵士たちはそう証言した。
人族側は否定した。
しかし、国境の向こうでも人族兵が動いていた。
武装した部隊が街道に集まり、互いの陣地を睨み合っている。
魔族側は叫んだ。
ならば誰が仲間を殺したのだ、と。
誰も答えられない。
矢が飛んだ。
魔法が放たれた。
そして、仲間を討たれた怒りに駆られた魔王軍の一部隊が、命令を破って国境を越えた。
ヴァルガスは、越境を許してなどいなかった。
「引き戻せ! 人族領へ踏み込ませるな!」
知らせを受けたヴァルガスは、直ちに撤退を命じた。
だが、前線へ伝令が走る間にも、人族の兵は迎撃に動いていた。
国境の向こうで剣が交わり、また一人、また一人と倒れていく。
味方が孤立したと聞けば、別の魔族部隊が救援に向かう。
人族側でも、仲間が襲われたと知った兵が次々に集まった。
「追撃するな! 剣を収めよ!」
ヴァルガスは繰り返し命じた。
しかし、命令が届いた場所でも、戦いは止まらなかった。
目の前で仲間を失った兵士たちは、武器を下ろせない。
一か所で戦闘が収まっても、別の場所では新たな矢が放たれる。
ヴァルガスはなおも止めようとした。
だが、もはや一人の王の命令だけでは、両軍の怒りと恐怖を押し戻せなかった。
そして――。
戦争が始まった。
十二年間守られてきた国境は、魔王の命令ではなく、その配下の一部が踏み越えたことで破られた。
人族軍は、大聖教会の号令のもとで迎え撃った。
鐘が鳴る。
――魔族が侵攻した。
――人族を守れ。
その声は瞬く間に国中へ広がった。
フィアとリリアは戦場を駆けた。
リリアは聖剣で、人族の剣を弾く。
次の瞬間には、魔族の魔法を切り払う。
どちらも傷つけない。
ただ、止めるために。
「剣を収めて!」
「勇者様! なぜ魔族を庇うのです!」
「魔族を庇っているんじゃない!」
リリアが叫ぶ。
「人を守っているんだ!」
別の場所では、フィアが兵士たちの間へ入る。
「この戦いは仕組まれています!」
何度も止めた。
何度も叫んだ。
それでも。
別の場所で誰かが死んだ。
昨日まで友好を信じていた者が家族を失う。
その者が剣を取る。
その剣で、また誰かの家族が死ぬ。
ほんの少し前。
城下町で、壊れた木箱を前に言い争っていた二人なら、話し合うことができた。
互いの言葉を聞き、少しずつ譲り合えば、争いは終わった。
だが今。
二つの国の間には。
あまりにも多くの棺が積み重なっていた。
*
戦争が始まって、九日目の夜。
王都の外れにある暗い部屋で、一人の女が窓辺に立っていた。
遠くには王城の明かりが見える。
女は首元に下げた指輪を、そっと握った。
「……あなた」
返事はない。
「覚えている? 仕事が終わったら、しばらく休もうって……約束したわよね」
小さく笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
「あのとき、もっと強く引き止めていたら……あなたは、まだここにいたのかしら」
指輪を握る手に力がこもる。
あの日、渡された夫の遺品。
見慣れた服。剣帯。そして結婚指輪。
間違いなく、夫のものだった。
それなのに。
顔さえ確かめられなかった遺体のことを思い出すたび、胸の奥に小さな棘が刺さった。
元斥候としての自分なら、もっと慎重に確かめたはずだった。
「……もう、遅いわ」
女は首を振った。
これまでに、いくつもの命を奪った。
自分が放った一撃によって、平和を願う人々まで傷つけた。
分かっている。
こんなことをしたって、夫は帰ってこない。
「あなたが生きていたら……きっと、わたしを叱るでしょうね」
声が震えた。
「でもね……」
指輪を額に押し当てる。
「あなたのいない世界で、どうやって生きていけばいいのか……わたしには、もう分からないの」
涙が一筋、頬を伝った。
「ごめんなさい、あなた」
しばらくして、女は指輪を胸元へ戻した。
窓の向こうには、まだ王城の明かりが灯っている。
明日、あの場所で。
すべてが決まる。
女は外套を羽織り、白銀の短剣を確かめた。
大聖教会の教主から授かった、魔法の短剣だった。
『この刃は、放てば自ら魔族の魔力を追う。魔族にしか向かわず、人族を傷つけることはない』
教主は、そう説明していた。
エルネアは、その言葉を信じていた。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……もう少しだけ、待っていて」
*
戦争が始まって十日。
国境で燃え上がった戦火は、街道を伝って人族領の奥へと広がっていた。
砕けた盾が街道に散乱し、人族の神聖術が夜空を白く染める。その光を押し返すように魔族の炎がうねり、両軍の陣地から負傷者を呼ぶ声が絶えなかった。
ヴァルガスは幾度も前線に立った。
撤退を命じても、孤立した味方を見捨てることはできなかった。負傷兵を退かせるために大剣を振るい、両軍の間へ割って入り、降り注ぐ魔法を自らの魔力で防いだ。
「もうよい! 剣を収めよ!」
何度叫んだか分からない。
それでも戦いは止まらず、守ったはずの兵が、次の戦場で倒れた。
敵の刃を受けた肩には深い傷が残り、鎧には幾筋もの亀裂が走った。傷を癒やす間もなく戦場を渡り歩いたことで、膨大だった魔力さえ、すでに大きく失われていた。
王都へ向かう進軍も、もはやヴァルガス一人の命令で止められるものではなかった。
魔王軍は人族の王都へ迫っていた。
フィアとリリアは、その後を追い続けていた。
「お父さま!」
馬を走らせながら、フィアが叫ぶ。
「お祖父さまは、本当にアルベルト王を……?」
「させない」
リリアは前だけを見る。
「絶対にさせない」
父を知っている。
怒りっぽい。
頑固。
娘や孫のことになると、周囲が見えなくなる。
けれど。
十二年間。
誰よりも平和を守ってきた男でもある。
「まだ間に合う」
リリアは自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
「お父様なら、まだ――」
王都が見えた。
すでに魔王軍は城門を突破していた。
「急いで!」
二人は王城へ駆け込んだ。
*
玉座の間。
アルベルト王は剣を握っていた。
その隣では、十五歳のユリウスが震える手で剣を構えている。
二人の前には。
大剣を持ったヴァルガスが立っていた。
その鎧は血と煤で汚れ、肩口の傷からは新しい血が滲んでいる。
荒い息を押し殺しながら剣を構える姿には、幾日も戦い続けた疲労が刻まれていた。
それでも、その眼光だけは衰えていなかった。
「ヴァルガス!」
「アルベルト!」
十二年間。
何度も同じ卓についた二人だった。
「我が娘を傷つけ、孫を奪おうとした報いだ!」
「我々は命じていない!」
「ならば誰がやった!」
「それを調べるために使者を送った! その使者まで殺されたのだ!」
「我らが殺したと言うのか!」
「言っていない!」
「ならば誰だ!」
誰にも答えられない。
それこそが。
この戦いを仕組んだ者の狙いだった。
ヴァルガスが大剣を振り上げる。
「お父様、やめて!」
金属音が響いた。
聖剣が、大剣を受け止めていた。
「……リリア」
かつて、フィアが生まれる前。
魔王城でぶつかった二本の剣。
それが今。
人族の王城で、再び交差している。
だが今回は。
娘は父を倒すために剣を抜いたのではない。
「退け、リリア!」
「退かない!」
「奴らはアレンを傷つけた!」
「アルベルト王じゃない!」
「証拠がある!」
「だから、おかしいんだ!」
リリアは父の大剣を押し返す。
「お父様なら分かるだろう!」
「何が分かる!」
「この十二年間だ!」
ヴァルガスの動きが止まった。
「この十二年間、お父様はアルベルト王と何度話した! 何度笑った! 何度、一緒に平和を守ってきた!」
「……」
「たった一枚の命令書と、誰が放ったかも分からない槍で――その十二年を全部捨てるのか!」
ヴァルガスの大剣が震えた。
リリアは。
聖剣を下ろした。
無防備になる。
「お父様」
一歩。
父へ近づく。
「わたしは、あなたの娘なのよ」
ヴァルガスの瞳が揺れる。
「だから分かるの。お父様は、こんなことを望んでいない」
「……リリア」
「もう一度だけ、信じて」
大剣が。
ゆっくりと下がっていく。
そのとき。
「……十二年、ね」
女の声がした。
全員が振り向く。
王城の高窓。
そこに。
一人の女が立っていた。
暗い外套。
細身の身体。
腰には白銀の短剣。
そして首元には。
一つの指輪。
「誰だ!」
アルベルトが叫ぶ。
女は答えず。
ヴァルガスを見た。
リリアを見た。
そして。
フィアを見る。
「あなたたちにとっては、十二年かけて守ってきた平和なのでしょうね」
エルネアは、首元の指輪を握った。
「でも、その平和は――私からあの人を奪った」
フィアの胸がざわめいた。
「あの人……?」
女の目がフィアへ向く。
冷たい。
それなのに。
その奥には、隠し切れない悲しみがあった。
「あなたは……誰ですか?」
しばらく沈黙して。
女は答えた。
「エルネア・ヴァイス」
フィアの瞳がわずかに開く。
ヴァイス。
どこかで聞いた。
そう思った瞬間。
国境での言葉が蘇る。
――護衛として同行していたヴァイス男爵も殺されている。
「まさか……」
エルネアは答えなかった。
「それ以上、知る必要はないわ」
その手が動く。
「伏せて!」
リリアが叫んだ。
エルネアの手から、黒い短槍が放たれる。
魔族の術式をまとっていた。
狙いは――アルベルト。
「父上!」
ユリウスがアルベルトを突き飛ばす。
短槍が玉座へ突き刺さった。
黒い魔力が爆発する。
「魔族の術式……!」
人族兵が叫んだ。
同時に。
王城の外で爆発が起きる。
人族兵が魔族兵へ剣を向ける。
魔族兵も応戦する。
「違う!」
リリアが叫んだ。
「今の攻撃は――!」
その声を遮るように。
今度は白い閃光がヴァルガスへ飛んだ。
人族の神聖術。
ヴァルガスが大剣で弾く。
「まだ我を欺くか!」
「違う、ヴァルガス!」
アルベルトも叫ぶ。
「こちらではない!」
だが。
外では再び戦闘が始まっていた。
人族兵。
魔族兵。
その中へ紛れ込んだ、どちらでもない者たち。
もう誰が誰を攻撃しているのか分からない。
「お父様! 待って!」
リリアが手を伸ばす。
しかし。
ヴァルガスは、その手を振り切った。
「アルベルト!」
大剣と王の剣が激突する。
「やめて!」
フィアが叫ぶ。
遅かった。
ヴァルガスの大剣が、アルベルトの剣を砕く。
返す刃が。
王を斬った。
「父上!」
ユリウスが駆け寄る。
「アルベルト!」
ヴァルガス自身も息を呑んでいた。
倒れた友を見下ろす。
「我は……」
怒りが。
一瞬で消えた。
その顔に浮かんだのは。
自分が何をしてしまったのか理解した男の表情だった。
「……アルベルト」
「ユリウス!」
フィアの叫び。
リリアが振り返る。
王城の高窓に、エルネアがいた。
その手には、教主から授かった白銀の短剣。
刃先が向いているのは、ユリウスではなかった。
倒れた友を前に立ち尽くす、ヴァルガスだった。
「やめなさい!」
フィアが走った。
エルネアが短剣を放つ。
白銀の刃は光の尾を引き、空中で自ら軌道を定めた。
魔族だけを追う――教主がそう説明した、自動追尾の魔法。
刃はヴァルガスへ向かっていた。
だが、次の瞬間。
その軌道が、不自然に折れ曲がった。
ヴァルガスではない。
父アルベルトのそばに膝をつく、ユリウスへ。
「……え?」
エルネアが目を見開いた。
「違う……! そっちじゃない!」
呼び戻そうとした声にも、短剣は反応しない。
「ユリウス!」
フィアが手を伸ばす。
あと少し。
あと指一本分。
届かない。
刃が少年を貫いた。
「……え?」
ユリウスが、自分の胸を見る。
そして。
ゆっくりと倒れた。
「ユリウス王子!」
フィアが抱き止める。
十五歳の少年の身体から、急速に力が抜けていく。
「待って……」
フィアの手が震えた。
「待ってください。あなたとは……」
婚約状が届いたあの日。
一度きちんと話してみたいと思った少年。
幼いころ、一度だけ顔を合わせた少年。
彼がどんな人なのか。
まだ何も知らないまま。
「わたし……まだ、あなたと何も話していないのに……」
返事はなかった。
フィアが顔を上げる。
エルネアを見る。
「どうして……!」
エルネアは何も答えない。
彼女自身も、信じられないものを見たように立ち尽くしていた。
――魔族にしか向かわない。
教主の言葉が、頭の中で繰り返される。
それなのに、なぜ人族の王子を。
震える指が、首元の指輪に触れた。
次の瞬間。
姿が消えた。
「待ちなさい!」
リリアが追おうとする。
だが。
王城全体に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
「お父様!」
無数の白い光が、ヴァルガスの身体を貫く。
「ぐ……!」
「封魔結界……!」
大聖教会が王城へ張り巡らせていた対魔族用の結界。
魔王を捕らえられる場所へ誘い込んだ者が、この瞬間を狙って術式を起動したのだ。
ヴァルガスは、ここへ至るまでの激戦ですでに深い傷を負い、魔力も大きく消耗していた。
そこへ無数の光が容赦なく突き刺さる。
「が……っ!」
残された魔力が、凄まじい勢いで削り取られていく。
「お祖父さま!」
「お父様!」
フィアとリリアが同時に駆けた。
二人で倒れるヴァルガスを抱き止める。
「解除します!」
リリアが聖剣を握り直した。
結界の術式へ刃を突き立てる。
「壊れなさい!」
光が弾ける。
一つ。
二つ。
三つ。
術式が砕ける。
「もう一つ……!」
勇者の聖剣が、最後の術式を切り裂いた。
白い光が消える。
けれど、王都に至るまでに負った傷は消えない。結界の光に貫かれ、残された魔力まで奪われた身体には、もう立ち上がる力が残っていなかった。
「お父様!」
リリアが振り返った。
だが。
遅すぎた。
「フィア……リリア……」
「喋らないでください!」
フィアが祖父の手を握る。
「すぐに治療を――」
「……無事で、よかった」
「こんなのは無事とは言いません!」
涙が溢れる。
「お祖父さまがいなくなったら、何のための平和だったのですか!」
「すまぬ」
「謝らないでください!」
「我は……守りたかった」
震える手が、フィアの頬へ触れる。
「お前たちを……守りたかっただけなのだ」
「だったら、生きてください!」
フィアはその手を握り締める。
「帰りましょう! お母さまが待っています! ミアも待っています! みんなで帰るんです!」
「……そう、だな」
ヴァルガスが微笑む。
その視線が。
リリアへ向いた。
「リリア」
「はい」
「お前の……言うとおりだった」
リリアの瞳から涙が落ちる。
「そんなこと、今はどうでもいい!」
「あのときも……今日も……我を止めようとしたのは、お前だったな」
「だったら止まってください!」
リリアは父の手を握った。
「今度もわたしの言うことを聞いて! お父様!」
ヴァルガスは。
ほんの少しだけ笑った。
「……強く、なったな」
「お父様……?」
「我の……自慢の娘だ」
その手から。
力が抜けた。
「お父様?」
返事はない。
「……お父様」
魔王ヴァルガスは。
娘と孫の腕の中で、息を引き取った。
*
人族は、王と王子を失った。
魔族は、魔王を失った。
国境から王都まで、多くの兵士と民が死んだ。
そして。
二つの国を結んでいたアレンは、今も目を覚まさない。
和平を口にする者は、裏切り者と呼ばれるようになった。
人間を信じろと言えば、死者を忘れたのかと責められる。
魔族を信じろと言えば、王を殺した者たちを許すのかと罵られる。
つい数週間前まで。
魔王城の城下町では、人間の商人と魔族の客が同じ店先で笑っていた。
子供たちは、種族など気にせず菓子屋へ走っていた。
それが。
こんなにも簡単に壊れた。
*
灯りの少なくなった魔王城。
静かな部屋で。
リリアは、眠り続けるアレンの手を握っていた。
勇者の大きな手で。
魔族の女性の細い手を包み込む。
「……アレン」
返事はない。
「なあ、起きてくれ」
握った手を、自分の額へ当てる。
「お父様がな……最後まで、君のことを心配していたんだ」
声が震えた。
「君なら怒るだろうな」
小さく笑おうとして。
できなかった。
「何をしているの、って。わたしたちが命懸けで守ってきた平和を、どうして壊してしまったの、って……」
涙が、アレンの手へ落ちた。
「わたしは、止められなかった」
もう一滴。
「お父様を止められなかった」
そして。
堪えていたものが、崩れた。
「こんな未来は望んでいなかった……!」
勇者の姿をした元魔王の娘は、声を上げて泣いた。
「わたしたちは、誰も死なせないために魔王を倒したのに……!」
父を失った。
友であった人族の王を失った。
十五歳の王子を失った。
愛する人は、目を覚まさない。
そして。
自分たちが命を懸けて築いた平和まで、失った。
フィアは部屋の入口で立ち尽くしていた。
頭から離れない。
王城の高窓に立っていた女。
エルネア・ヴァイス。
首から下げていた、一つの指輪。
そして。
白銀の刃がユリウスへ向きを変えたときの、あの目。
憎んでいるはずなのに。
どこか。
泣いているように見えた。
――あなたたちにとっては、十二年かけて守ってきた平和なのでしょうね。
――でも、その平和は――私からあの人を奪った。
「どうして……」
フィアには、まだ分からない。
エルネアが何者なのか。
誰が彼女を動かしたのか。
なぜ、自分たちの平和をここまで憎んでいたのか。
分かっているのは。
自分が信じてきたものが、すべて壊されたということだけだった。
話せば分かる。
相手を知ろうとすれば、手を取り合える。
そう信じていた。
でも。
話す前に、殺された。
知る前に、憎まされた。
手を伸ばす前に、剣を握らされた。
「……お父さま」
小さな声がした。
フィアが振り返る。
十二歳のミアが立っていた。
腕の中には、一冊の古い魔導書。
泣き腫らした目。
それでも。
その瞳には、何かを決意した光があった。
リリアが涙を拭う。
「ミア……?」
ミアは魔導書を強く抱き締めた。
「お母さまの治療法を探していて、見つけました」
「何を……?」
ミアはページを開く。
そこに描かれていたのは。
上下二つの玻璃球を持つ、銀色の砂時計。
「お父さま」
十二歳の少女は、はっきりと言った。
「まだ、終わっていません!!」
まだ幼い少女のその台詞が、リリアとフィアに最後の希望をもたらすことになるのだった




