魂を過去に移す秘宝
第三話「魂を過去に移す秘宝」をお届けします。
大切な人を失った悲しみ。
それでも、まだ諦めたくないという願い。
今回は、家族の絆と、それぞれの愛する人への想いが、物語を大きく動かしていきます。
失われた未来を取り戻すことはできるのでしょうか。
どうぞ最後までお楽しみください。
「まだ、終わっていません!!」
ミアの言葉に。
フィアも、リリアも、すぐには答えられなかった。
十二歳の少女が抱えている古い魔導書。
開かれたページには、上下二つの玻璃球を持つ銀色の砂時計が描かれている。
「ミア」
リリアが立ち上がった。
「それは……?」
「封印書庫にあります」
「封印書庫?」
フィアが聞き返す。
魔王城には、王族でさえ滅多に立ち入らない場所がいくつかある。
その一つ。
地下深くにある、古代魔法の書物や危険な魔道具を封じた書庫。
「お母さまを助ける方法を探していました」
ミアは眠っているアレンを見る。
「聖毒を消す方法が、どこかにないかと思って……」
その声が震えた。
「でも、見つからなかった」
「ミア……」
「治す方法は、見つけられませんでした」
少女は唇を噛む。
けれど。
すぐに顔を上げた。
「だから――違う方法を探したんです」
魔導書のページへ指を置く。
「お母さまが傷つかなかったことにする方法を」
フィアが息を呑んだ。
「そんなことが……」
「できるかもしれません」
ミアは答えた。
「来てください」
*
三人は魔王城の地下へ降りていった。
戦争の知らせと負傷兵が次々に届き、城内は落ち着きを失っていた。
封印書庫へ続く階段は暗く、三人の足音だけが冷たい石壁に反響した。
ミアが先頭を歩く。
十二歳の少女には大きすぎる魔導灯を抱えて。
フィアは、その小さな背中を見つめていた。
ほんの少し前まで。
三冊の本を抱えて城内を歩き回り、面白い本を読むと時間が早く進むのだと笑っていた妹。
その妹が今は。
祖父を失い、母が目覚めない世界で。
家族を救うための禁断の魔法を探している。
「ミア」
フィアが呼び止めた。
妹が振り返る。
「……ごめんなさい」
「どうして、お姉さまが謝るのですか?」
「あなたを、こんなことに巻き込んでしまったから」
ミアは少し考えた。
そして。
「わたしも、この家族の一人です」
そう答えた。
「お姉さまだけが背負うことではありません」
「……ミア」
「それに」
ミアは、ほんの少しだけ頬を膨らませた。
「十二歳は、そんなに子供ではありません」
フィアは思わず笑った。
「そうね」
「はい」
「でも十二歳は子供よ」
「お姉さま」
そのやり取りを聞いていたリリアが、小さく笑った。
久しぶりに。
本当に久しぶりに。
三人の間へ、家族らしい空気が戻った。
ほんの一瞬だけ。
*
封印書庫の最深部。
巨大な石扉をミアが開く。
壁一面に古代文字が刻まれた部屋だった。
そして、その中央。
銀色の光が浮かんでいる。
「これが……」
フィアが呟いた。
上下二つの玻璃球。
その間を、銀色の砂が静かに落ち続けている。
けれど。
奇妙なことに。
下へ落ちたはずの砂は消え、再び上の玻璃球へ戻っていた。
終わらない砂時計。
「《回帰の双刻》」
ミアが名前を告げた。
リリアが砂時計へ近づく。
「聞いたことがないな」
「わたしもです」
ミアが魔導書を開いた。
「古代魔法文明で作られた、一度限りの秘宝だそうです」
「一度限り?」
「はい」
ミアは古代文字を指で追う。
「時間そのものを戻すわけではありません」
フィアが首を傾げる。
「じゃあ、どういうこと?」
「過去へ送るのは――魂です」
リリアの表情が変わった。
「魂……?」
その言葉。
三人にとっては、あまりにも特別な意味を持っていた。
魂が身体を越える。
そんなことがあり得ることを。
この家族は誰よりも知っている。
「二つの魂を、選んだ過去へ送ることができます」
ミアは続ける。
「そして、過去へ渡った魂を、再びこの時代へ引き戻す」
「待ってくれ」
リリアが尋ねた。
「過去のわたしたちの身体は、どうなるんだ?」
「そこへ、今のお父さまたちの魂が重なるみたいです」
「重なる?」
「完全に入れ替わるわけではありません。過去の自分自身に、未来の記憶と意識が重なる……そう書かれています」
フィアが自分の胸へ手を当てる。
「つまり、一か月前のわたしの身体に、今のわたしが戻る?」
「はい」
「じゃあ、お父さまも」
リリアが頷いた。
「一か月前の、この身体に戻るわけだな」
勇者アレンの身体。
長い年月を、その身体で生きてきたリリア。
《回帰の双刻》にとって重要なのは、肉体ではない。
魂だった。
「どこまで戻れるの?」
フィアが尋ねる。
ミアは魔導書をめくった。
「遠い過去ほど不安定になります。ですが……一か月程度なら、ほぼ確実に」
一か月。
婚約状が届くより前。
国境の村が襲われるより前。
アレンが聖毒の槍を受けるより前。
アルベルトも。
ユリウスも。
ヴァルガスも。
まだ生きている。
そして。
「ヴァイス男爵も……」
フィアが呟いた。
リリアが娘を見る。
フィアの頭に浮かんでいたのは。
一人の女だった。
エルネア・ヴァイス。
冷たい目。
白銀の刃。
首から下げられた、一つの指輪。
――でも、その平和は、私からあの人を奪った。
「お姉さま?」
「……ううん」
フィアは首を振った。
まだ分からない。
あの女がなぜ戦ったのか。
なぜ夫を失ったことで、ここまで人間と魔族を憎むことになったのか。
そして。
誰が彼女に聖毒の槍を与えたのか。
だが一か月前なら。
まだヴァイス男爵は生きている。
エルネアも。
あんな目をしてはいないのかもしれない。
*
「それなら、三人で行きましょう」
フィアが言った。
しかし。
ミアは首を横へ振った。
「できません」
「どうして?」
「過去へ送れる魂は、二つだけです」
ミアが砂時計を見る。
「それと、もう一つ」
少しだけ間を置く。
「帰る場所を保つために、誰か一人が現在へ残らなくてはいけません」
フィアの顔から表情が消えた。
「……どういうこと?」
「《回帰の双刻》は、過去へ送った魂を自動で連れ戻してくれるわけではありません」
ミアは説明する。
「現在に残った一人が、この砂時計を守って、二人の魂を今へつなぎ続ける必要があります。誰かに代わってもらうことはできません」
「もし、その人に何かあったら?」
ミアは答えなかった。
それだけで十分だった。
「駄目よ」
フィアが即座に言った。
「ミアは連れていく」
「お姉さま」
「わたしが残る」
「それでは駄目です」
「どうして!」
「お姉さまが行かなければ」
ミアはフィアを見る。
「エルネア・ヴァイスという人を知っている人が、お父さまだけになってしまいます」
フィアが言葉を失う。
「それに」
今度はリリアを見る。
「お父さまは、人族の勇者です」
正確には。
人族の勇者の身体を持つ、魔王の娘。
「人族の国で調べるなら、お父さまの知識も必要です」
「でも……」
「二人でなければ駄目なんです」
ミアは分かっていた。
だからこそ。
最初から自分が残るつもりだった。
「わたしが残ります」
「駄目!」
フィアの声が書庫へ響いた。
「こんな世界に、あなた一人を残せない!」
「一人ではありません。治癒師の皆さんも、城を守る兵士の皆さんもいます」
ミアは声を落とした。
「それでも、寂しいのは……きっと、寂しいです」
「お母さまは目を覚ましていないでしょう!」
「でも、生きています」
「ミア!」
フィアは妹の肩を掴んだ。
「お祖父さまもいない。アルベルト王も、ユリウス王子もいない。戦争だって終わっていないのよ!」
「分かっています!」
初めて。
ミアが強い声を出した。
フィアの手が止まる。
ミアの目から。
涙が一粒、落ちた。
「分かっています……」
声が震える。
「怖いです」
もう一粒。
「すごく怖いです」
十二歳。
どれだけ魔法に秀でていても。
どれだけ本を読んでいても。
まだ十二歳の少女だった。
「でも」
ミアは涙を拭った。
「お姉さまとお父さまが帰ってくる未来を、わたしが守ります」
リリアがゆっくりと娘の前へ膝をついた。
「ミア」
「はい」
「本当に、いいんだな?」
ミアの唇が震える。
それでも。
「はい」
はっきりと答えた。
リリアは娘を抱き締めた。
「すまない」
「謝らないでください」
「……必ず帰るぞ」
抱き締める腕に力が入る。
「お祖父さまも、アルベルト王も、ユリウス王子も」
一度言葉を切った。
眠り続ける伴侶を思う。
「アレンも」
そして。
リリアはまだ会ったことすらない男の名を加えた。
「ヴァイス男爵も」
フィアが顔を上げる。
「誰一人死なない未来を連れて、必ず帰る」
ミアは父の胸へ顔を埋めた。
「……約束です」
「ああ」
今度こそ。
守らなければならない約束だった。
フィアも二人を抱き締める。
三人で。
しばらく、そのままでいた。
*
やがて。
三人は砂時計を囲んだ。
「一つ、決めておこう」
リリアが言った。
「過去へ戻っても、すぐにグレゴリオを犯人だと決めつけない」
フィアが頷く。
「婚約状を細工したのは大聖教会でした」
「ああ。だが、わたしたちが知っているのはそこまでだ」
聖毒の槍。
偽造された命令書。
使者の殺害。
国境で繰り返された偽装襲撃。
そして。
エルネア・ヴァイス。
それらがすべて同じ人物へつながっている証拠は、まだない。
「未来で起きたことを知っているからといって、それを証拠にはできない」
リリアは言った。
「過去で、証拠を見つけるんだ」
フィアは少し考える。
「まず婚約状ですね」
「ああ。あれが最初の糸口になる」
「それからエルネア」
フィアの声が少し低くなった。
ユリウスを殺した女。
母を撃った女。
許せるかと問われれば。
今はまだ分からない。
けれど。
「どうしてあの人が、あんなことをしたのか知りたい」
フィアは言った。
「夫を失ったから、だけではない気がするんです」
リリアが娘を見る。
「どうして?」
「あの人は……」
フィアは思い出す。
槍。
使者。
偽装された二種類の魔法。
あまりにも正確だった。
「最初から、全部を知っていたみたいだったから」
リリアの目が細くなる。
「誰かから情報を与えられていた」
「たぶん」
「あるいは、命令を受けていた」
「はい」
リリアは考え込む。
「なら、エルネアを追えば、その後ろにいる人物へ辿り着けるかもしれないな」
「でも」
フィアは静かに言った。
「一か月前なら、まだエルネアを追う必要すらないかもしれません」
「どういうことだ?」
「ヴァイス男爵です」
リリアの表情が変わる。
「夫の方を調べるのか?」
「はい」
フィアは頷いた。
「どうしてヴァイス男爵が殺されたのか。それを調べたいです」
交易隊の護衛だった。
魔族の武器を持った者たちに襲われた。
それだけなら。
戦争を始めるための、ただの犠牲者だったのかもしれない。
けれど。
「エルネアほどの人を動かすためだけに、夫を殺した……?」
リリアが呟く。
「可能性はある。だが」
「それだけじゃないかもしれない」
フィアが続けた。
二人の視線が合う。
まだ。
答えはない。
だからこそ。
探す。
「ヴァイス男爵から調べよう」
リリアが言った。
「彼が殺される前に、何をしていたのか」
「はい」
「そして、何を知っていたのか」
フィアは強く頷いた。
そのとき。
ミアが砂時計へ両手を添えた。
「準備ができました」
銀色の砂が止まる。
部屋の古代文字が、一つずつ光り始める。
「お姉さま。お父さま」
「うん」
「ええ」
「過去へ着いたら、ひと月前の自分の身体で目を覚ますはずです。この砂時計はありません。でも、魂のつながりは残ります」
「帰るときは?」
「過去でやるべきことを終えたら、二人で強く帰還を願ってください」
ミアは二人を見る。
「この砂時計を通じて、お二人の魂はわたしとつながっています。だから、ここから二人の魂を魔道具の力で、必ず引き戻します」
フィアの胸が痛んだ。
この世界に。
妹を残していく。
「ミア」
「はい?」
「戻ってきたら」
フィアは笑った。
「今度こそ、一緒に和平祭へ行きましょう」
ミアも笑う。
涙を浮かべたまま。
「はい」
リリアが砂時計へ手を伸ばす。
フィアも重ねた。
「行こう、フィア」
「はい、お父さま」
二人の手が。
《回帰の双刻》へ触れた。
瞬間。
銀色の砂が。
下から上へ流れ始めた。
「お姉さま!」
ミアの声。
「お父さま!」
光が強くなる。
「絶対に――」
その先は聞こえなかった。
世界が。
白く染まった。
*
鳥の声が聞こえた。
フィアは目を開けた。
柔らかな陽射し。庭園を渡る風。揺れる花々。
足元には、見慣れた魔王城の石畳が続いている。
手には、薄い報告書が一冊。
――そうだ。今日は、城下町の整備について報告を受けるところだった。
そんな記憶が、不意に胸の奥へ浮かんだ。
自分が実際に過ごした、ひと月前の一日。
そこへ、王城が炎に包まれた未来の記憶が重なっている。
「……戻った」
夢ではない。
過去の自分の身体に、未来から来た自分の意識が重なったのだ。
報告書の端に記された日付を確かめる。
「一か月前……」
婚約状が届くより前。
国境の村が襲われるより前。
お母さまが、あの槍を受けるより前。
「フィア!」
庭園の入口から、一人の男が駆け寄ってきた。
金色の髪。青い瞳。見慣れた勇者の姿。
けれどフィアには、目を見ただけで分かった。
「お父さま……!」
リリアは娘の肩へ両手を置いた。
「よかった……フィア、無事に戻れたんだな」
「はい。お父さまも……」
「ああ、わたしも未来を覚えている」
リリアは、傷一つない自分の手を見つめた。
「さっきまで謁見の間へ向かっていたはずなのに、急に別の一か月が頭の中へ流れ込んできた。……ミアの説明どおりだ」
フィアは庭園を見渡した。
遠くから、使用人たちの笑い声が聞こえる。
兵士たちは穏やかに持ち場を交代している。
誰も、戦争が起きるなどと思っていない。
「アルベルト王も……ユリウス王子も……」
「ああ。今なら、まだ生きている」
そして。
「お祖父さまも」
「もちろんだ」
フィアは胸の前で手を握った。
失ったはずの命が、まだ失われていない。
それだけで、涙がこみ上げる。
しばらくして彼女は、城の方を振り向いた。
「……お父さま」
「どうした?」
「わたし、お母さまに会いたいです」
リリアは娘を見つめた。
理由など、尋ねる必要はなかった。
あの冷たい寝室で、何度名前を呼んでも返事のなかった妻。
もう二度と、あんな思いをしたくない。
「……ああ。わたしもだ」
未来を変えるために、やるべきことは山ほどある。
それでも。
まず一度だけ、確かめたかった。
大切な人が、生きていることを。
*
魔王城は。
記憶の中と何一つ変わっていなかった。
戦争の知らせを運ぶ使者もいない。
治療室へ運び込まれる負傷兵の姿もない。
兵士たちは穏やかに挨拶を交わし。
使用人たちは忙しそうに廊下を歩いている。
そのすべてが。
フィアには眩しかった。
「フィア?」
聞き慣れた声。
足が止まった。
廊下の向こうから。
銀紫色の長い髪を揺らして、一人の女性が歩いてくる。
二本の黒い角。
夜空を閉じ込めたような瞳。
傷一つない身体。
血にも染まっていない。
「どうしたの? そんなところに立って」
「……お母さま」
「フィア?」
次の瞬間。
フィアは走っていた。
「お母さま!」
「きゃっ!?」
アレンの胸へ飛び込む。
突然抱きついてきた娘を、アレンが慌てて受け止めた。
「あ、あら。どうしたの、急に」
フィアは答えなかった。
母の胸へ顔を埋める。
温かい。
腕が動く。
胸の奥から。
確かな鼓動が聞こえる。
――生きている。
その当たり前のことが。
今は、どうしようもなく嬉しかった。
「……お母さま」
「うん?」
「少しだけ」
フィアはアレンの服を握った。
「このままでいてください」
アレンはますます不思議そうな顔をした。
けれど。
理由を尋ねることはなかった。
「仕方ないわね」
娘の頭へ手を置く。
優しく撫でる。
「今日はずいぶん甘えん坊ね、フィア」
「……駄目ですか?」
「まさか」
アレンは笑った。
「十八歳になったって、わたしの娘なんですもの」
フィアの腕へ。
さらに力が入った。
ほんの少し前まで。
どれだけ呼んでも。
この声は返ってこなかった。
握った手も。
抱き締めた身体も。
動かなかった。
でも。
今は。
「お母さま」
「なあに?」
「……大好きです」
アレンが目を丸くした。
それから。
少し照れくさそうに笑う。
「わたしも大好きよ」
もう一度。
娘の髪を撫でた。
少し離れたところで。
リリアが二人を見ていた。
その瞳にも。
涙が浮かんでいる。
アレンが気づいた。
「……リリア?」
「何?」
「あなたまで、どうしたの?」
「何でもない」
リリアは慌てて目元を拭った。
「ちょっと目に埃が入っただけだ」
「城の廊下で?」
「入るときは入るさ!」
「ふふっ。変なあなた」
いつものアレンだった。
フィアは母の胸に抱かれたまま。
小さく笑った。
何も言わなくていい。
これから起こる未来も。
一度失った命も。
自分たちが時間を越えてきたことも。
今は。
ただ。
母が生きている。
それだけでよかった。
*
その日。
フィアとリリアは、調査へ出なかった。
ヴァルガスと食卓を囲んだ。
「フィア! 野菜も食べんか!」
「お祖父さまに言われたくありません」
「我は食べておる!」
「さっき、お肉の下に隠しましたよね?」
「……見ていたのか」
隣では。
ミアが本を開きながら食事をしようとして。
「ミア。食事中は本を閉じなさい」
アレンに取り上げられていた。
「あと少しだったのに……」
「あと少しが三十頁もあるでしょう?」
「すぐです」
「それを『すぐ』とは言わないわ」
フィアは笑った。
リリアも笑った。
誰も死んでいない。
誰も傷ついていない。
何でもない。
いつもの家族だった。
だからこそ。
二人は知った。
自分たちが取り戻そうとしているものは。
国でも。
王座でも。
歴史でもない。
この。
何でもない一日なのだと。
*
夜。
フィアが自室へ戻り。
魔王城が静けさに包まれてから。
寝室の扉を閉めたリリアは。
しばらく何も言わなかった。
「……リリア?」
アレンが振り返る。
「今日は本当に、どうしたの?」
「何のことだ?」
「フィアは妙に甘えてくるし、あなたも一日中――」
最後まで言わせず。
リリアはアレンを抱き締めた。
「あ、あなた?」
勇者の大きな腕で。
目の前にいる伴侶を。
確かめるように。
強く抱く。
「……アレン」
「うん」
「もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
アレンは理由を尋ねなかった。
ただ。
リリアの背中へ腕を回した。
「ええ、いいわよ」
その声。
その温もり。
胸へ耳を寄せれば聞こえる。
確かな鼓動。
つい少し前まで。
何度呼んでも返事をしてくれなかった人。
冷たい部屋で。
ただ眠り続けていた人。
けれど今は。
腕の中にいる。
「……生きている」
リリアが小さく呟いた。
「何か言った?」
「何でもない」
顔を上げる。
アレンと目が合った。
「なあ、アレン」
「ん?」
「今夜は……ずっと、そばにいてくれ」
アレンは少し驚いたあと。
優しく笑った。
「どこにも行かないわ」
リリアはもう一度、その胸へ顔を埋めた。
「……約束だぞ」
「ええ」
やがて。
部屋の大きな灯りが消えた。
その夜。
リリアは何度も……ただ何度も。
アレンがそこにいることを確かめるように抱き締めた。
言葉よりも近く。
失いかけた温もりを。
二度と忘れないように。
そして、残っていた小さな灯りも落ち、二人は深く結ばれた。
*
翌朝、カーテンの隙間から柔らかな光が差し込み、リリアはゆっくりと目を覚ました。
すぐ隣では、アレンが静かな寝息を立てている。長い銀紫色の髪が枕に広がり、その頬には穏やかな朝の光が落ちていた。
リリアはしばらくその寝顔を見つめ、そっと頬へ触れた。
温かい。
「……よかった。本当に、よかった」
今度は、はっきりと声に出した。
「……ん。リリア……?」
アレンが薄く目を開ける。
「おはよう、アレン」
「おはよう……」
まだ眠そうなアレンは、リリアへ腕を伸ばした。
「もう少し……」
「……ふっ。少しだけだぞ」
リリアは笑って、もう一度妻の隣へ身体を寄せる。
今日から、失った未来を取り戻すための戦いが始まる。だから今だけは、何も知らない伴侶のそばで、もう一度手にしたこの朝を確かめていたかった。
*
朝食の時間になると、魔王城にはいつもの賑やかさが戻っていた。
「フィア! 野菜もきちんと食べるのだぞ!」
ヴァルガスの声が食堂に響く。その隣では、ミアが本を読みながら食事をしようとして、またアレンに注意されていた。
「ミア、今は食事の時間でしょう?」
「でも、お母さま。あと二頁だけですわ」
「昨日もそう言って、スープを冷ましてしまったじゃない」
フィアが笑い、リリアもつられて頬を緩めた。何でもない朝だった。けれど二人だけは知っている。この温かな日常が、ほんの少し歯車を狂わせただけで失われてしまうことを。
やがて、フィアとリリアは魔王城の城門に立った。
フィアは一度だけ振り返る。生きている祖父、傷一つない母、いつもどおり本を抱えた妹。失ってしまったはずのものが、今はすべてそこにあった。
「お父さま。行きましょう」
「ああ」
リリアも城を振り返る。昨夜、腕の中にいたアレンの温もりが、まだ身体に残っている気がした。
「今度こそ、守ろう」
「はい」
二人が目指すのは、未来で起こった悲劇の犯人を、思い込みだけで決めつけることではない。誰が嘘をつき、誰が憎しみを生み、そして誰がエルネア・ヴァイスから夫を奪ったのか。確かな事実を、自分たちの目で確かめなければならなかった。
「まずは、ヴァイス男爵ですね」
「ああ。彼が殺される前に何をしていたのか、調べよう」
「そして、何を知ってしまったのか」
二人は頷き合い、城門を後にした。今度の旅は、敵を倒すためではない。真実を見つけるための旅だった。
*
人族領へ入る前に、フィアは幻術を使って二本の黒い角を隠し、髪色も少し変えた。リリアも、英雄として広く知られた勇者の顔を変装魔法で覆う。
二人が選んだのは、旅商人の父娘という身分だった。
「これなら親子に見えるだろうか」
リリアが尋ねると、フィアは父の姿を上から下まで眺めた。
「お父さま、もう少し商人らしい顔をしてください」
「商人らしい顔って何だ?」
「勇者みたいな顔じゃない顔です」
「難しい注文だな」
フィアが笑い、リリアも笑った。張り詰めていた気持ちが、ほんの少しだけ和らいだ。
数日の旅を経て王都へ入った二人は、さっそくヴァイス男爵について聞き込みを始めた。
男爵は王家に仕える中堅貴族で、人族と魔族の和平にも賛成し、交易路の整備に携わっている。かつての未来では、ひと月ほど後に交易隊の護衛として国境へ向かい、魔族の武器を持った者たちに襲われたはずの人物だ。
しかし、調べ始めて間もなく、二人は奇妙な噂を耳にした。
「ヴァイス男爵? 最近、大聖教会のことを嗅ぎ回ってるらしいぜ」
酒場の主人が、声を潜めた。
「大聖教会を?」
「ああ。何でも、金の流れがおかしいとか。詳しいことまでは知らねえよ。貴族様の話だからな」
主人は肩をすくめ、それから周囲を見回した。
「ただな、何かとんでもないものを見つけたって噂だ」
フィアとリリアは顔を見合わせた。
男爵は、偶然交易隊に同行して殺されたのではないのかもしれない。もし教会の不正を調べていたのなら、誰かにとって彼の存在そのものが都合の悪いものになっていた可能性がある。
「お父さま……」
「ああ。確かめる必要があるな」
二人は店を出て、夕暮れの王都へ足を踏み出した。
*
そのころ、王都の貴族街にあるヴァイス男爵邸では、一人の男が執務室にこもっていた。
机の上には、大聖教会に関する帳簿が一冊開かれていた。数字や記録の間には、どうしても見過ごせない食い違いがある。男爵は何度も頁を繰ったが、その理由までは、まだ掴めずにいた。
男爵は一度帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
「……まだ足りない」
記録には不自然な点がある。だが、これだけで誰かの不正を断定することはできない。確かな裏付けを揃えてから、アルベルト王へ直接報告しなければならなかった。
「もう少しだけ、裏を取る必要があるな……」
机へ視線を戻した、そのときだった。
控えめなノックの音がして、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「あなた、入ってもいい?」
「エルネアか。ああ、どうぞ」
扉を開けて顔を覗かせたのは、妻のエルネア・ヴァイスだった。
エルネアは穏やかな笑みを浮かべていた。左手の薬指には、夫と同じ意匠の結婚指輪が輝いている。
「まだ仕事? 夕食の支度ができているわよ」
「ああ、もうそんな時間か。すまない、すっかり夢中になっていた」
男爵が帳簿を片づけようとすると、エルネアはその手元をちらりと見た。
「最近、そればかりね。前は食事の時間くらい、ちゃんと覚えていたのに」
「そんなに顔に出ているかい?」
「顔だけじゃないわ。考え事をしていると、あなたはいつも上着の袖口を触るの」
言われてみれば、男爵の指は無意識に袖口をつまんでいた。
「……参ったな。凄腕の斥候だった君の目はごまかせないか」
「妻の目よ。あなたをずっと見てきたんですもの」
エルネアは少し得意げに笑ったが、すぐに表情を和らげた。
「無理はしないでね。何か難しいことを調べているんでしょう?」
男爵は机の書類に視線を落とした。まだ確かめられていないことを話して、妻をいたずらに心配させたくはない。それでも、何もないと嘘をつく気にはなれなかった。
「ああ。少し気になることがある。だが、きちんと確かめてから話したい」
「そう。なら、今はそれ以上聞かないわ」
エルネアは夫のそばへ歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。
「でも、何かあったら一人で抱え込まないで。わたしが斥候だったこと、忘れていないでしょう?」
「忘れるものか。君の足音には、今でも気づけないことがあるくらいだ」
「さっきはちゃんとノックしたでしょう?」
「だから助かったよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
その夜の夕食は、特別なご馳走ではなかった。温かなスープに焼きたてのパン、香草で味つけした肉料理。夫婦が二人で食べるには、十分すぎるほどの食卓だった。
「そういえば、庭の白い花が咲いたのよ」
エルネアが言うと、男爵は首を傾げた。
「白い花?」
「去年、あなたが植えてくれたでしょう? 覚えていないの?」
「ああ、あれか。寒い時期に枯れてしまったかと思っていた」
「わたしが毎朝、水をあげていたの。せっかくあなたが選んでくれた花だもの」
男爵は少し照れたように笑い、パンをちぎった。
「それは、見に行かないといけないな」
「明日の朝、二人でね。今度こそ仕事に夢中にならないでよ?」
「努力する」
「そこは『約束する』でしょう?」
エルネアが目を細めると、男爵は降参したように両手を上げた。
「分かった、約束するよ」
食後には、エルネアが淹れたお茶を並んで飲んだ。窓の外に広がる庭を眺めながら、二人は他愛もない話をした。屋敷の使用人が見つけた子猫のこと、次の休日には市場へ出かけたいこと、旅先で食べた焼き菓子が思いのほか美味しかったこと。
男爵はその一つ一つに相槌を打ち、時折、妻の横顔を見つめた。
「……どうしたの?」
「いや。君とこうして話していると、仕事のことを忘れられるなと思って」
「だったら、もっと早く部屋から出てくればいいのよ」
「まったくだ」
彼が笑うと、エルネアもつられて笑った。
「これが終わったら、しばらく休もう。二人で、どこかへ出かけるのもいいな」
「本当に?」
「ああ。今度は仕事の書類も持っていかない」
「ふふっ。なら、信じるわ」
エルネアは夫の手を取った。指に触れた結婚指輪が、暖かな灯りを小さく返した。
*
夜が深まり、二人は寝室へ戻った。
エルネアが窓の掛け金を確かめていると、男爵が後ろから声をかけた。
「もう軍を辞めて随分になるのに、戸締まりの確認は欠かさないんだな」
「習慣よ。……あなたが窓を開けっぱなしにするから、なおさらね」
「それは反省しよう」
男爵が苦笑すると、エルネアは寝台の端へ腰を下ろした。
「ねえ、あなた。さっきの約束、忘れないでね」
「旅行のことかい?」
「それもだけど……ちゃんと、わたしのところへ帰ってきて」
エルネア自身、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。昔は危険な任務へ出ることも珍しくなかったのに、今は仕事に追われているだけの夫を、ふと遠くに感じることがある。
男爵は彼女の隣に座り、その左手を包み込んだ。
「大丈夫だよ。君とまだ見ていない景色が、いくつもあるんだから」
「……そうね」
「明日の朝は、庭の花を見る約束もしている」
「小さな約束から守ってもらわないと、困るわ」
「肝に銘じよう」
エルネアは笑って、夫の肩へ額を寄せた。男爵はその髪を優しく撫で、額へそっと口づける。
「おやすみ、エルネア」
「おやすみなさい、あなた」
明かりが消えても、二人はしばらく手をつないでいた。やがて寝息が重なるころ、二人の左手には、同じ意匠の結婚指輪が並んでいた。
窓の外では、明日の朝に一緒に見る約束をした白い花が、夜風に静かに揺れていた。




