26.大佐の生きる道
「な、何をしているんだよ、マール。」
僕はゆっくりと、寝台に座る大佐とマールの間に移動した。自分の声が震えているのが自分でもわかった。マールの持っているナイフも同じように震えていた。それでもマールの瞳の奥はひどく落ち着いて見えた。
「起きるのが早いよ、アルト……。量が少なすぎたのかな。」
量?眠り込んでしまう前に、飲んだお酒を思い出した。
「お酒に睡眠薬が入っていたの?」
「そうだよ。入れたのは僕じゃないけど。多分全部の酒樽に入っているんじゃないかな。流石にみんな油断して飲んでくれた。」
そもそも差し入れられた時点で入っていたということか。どうしても大佐を帰国させたくない人がいるみたいだ。大佐は……飲む訳がないな。一応チラリと確認するが、飲んだ形跡はないようだ。
「大佐を殺すよう、命令されてるってこと?」
「そうだよ。母さんが人質に取られてるんだ。戦争が終わるまでに大佐を殺さないと、母さんが殺される……。」
あまりにも酷すぎる。でも、僕も弟や妹を同じように人質に取られかけた。それが相手のやり口なんだ。
「そもそもゼクス大佐の副官になるのは僕のはずだったんだよ。バルトロメウス隊長が金欲しさに勝手に変えちゃったから、計画が全部台無し。自分のことしか考えていない人は困るんだ。」
マールは人ごとのように淡々と話している。心をどこかに置いてきてしまったみたいだ。それでも、泣きそうな顔をしているのは何故だろう。
「スープにもね。毒を入れていたんだけど、大佐は一度も飲んでくれなかった。アルトが作ったって言ってもダメだった。なんで分かっちゃったのかなあ。」
マールにスープを運ぶようにお願いしていたのは僕だ。なんてことだ。僕は暗殺の手伝いをしてしまっていたんだ。大佐が落ち着いた声で言った。
「お前はいつも怯えた顔で、スープを持つ手も震えていた。何かあるのだろうとすぐ分かった。……お前を脅しているのは誰だ。」
「……セルビアン辺境伯家。」
国境近くを治める家の名前だ。
「なるほどな。義母の回し者か。私がこれで伯爵家を継ぐことになれば、困るわけだな。」
僕は慌てて頭の中で家系図を書いてみる。ゼクス大佐は伯爵家の庶子だから、正妻の女性が義母ということか。その人が辺境伯家の娘ってことで、僕たちはその人が治める町に今向かっていることだ。
「じゃあ、帰国するのは敵の真っ只中に入っていくことになるってこと…?」
僕の嫌な想像を、大佐が肯定する。
「その通りだ。マールが失敗しても、結局私は命を狙われ続けるだろう。その間にアルトの命も狙われる可能性がある。」
「なんで僕が?」
大佐に遠ざけられている僕を人質にとっても全く意味がないじゃないか。マールはちょっと驚いた顔をした後、少し笑った。
「アルトはそういうところ、鈍感だよね。どいてくれる?僕は僕の仕事をしなきゃいけないから。」
マールはもう一度、ナイフを構え直す。でもやっぱりナイフが震えてる。
「それはできない。僕は大佐の盾になるって決めてるから。それに、マールにそんなことをさせたくもないよ。」
大佐も守りたいけど、マールだって僕の大切な友達なんだ。ここで大佐を殺してしまったら、マールだって生きてはいられない。
マールの目に涙が盛り上がって、ナイフを持つ手にぽたりと落ちた。そのままマールはヤケになったようにナイフを振り上げた。
「……どいてよ!」
「アルト!」
後ろから枯れ木のように細い、けれど力強い腕が僕を掴んで引き寄せた。気づくと、目の前には大佐の背中があった。適当に振り上げられたナイフは誰にも当たらず寝台に刺さっている。
「それでお前たちが助かるなら、そうすればいい。」
大佐のその言葉に、僕の心臓が跳ねた。死ぬつもりだ、この人は。
「そんなことは……させない!」
僕は咄嗟にマールの腕を掴んだ。手に落ちた涙の温度だけを一気に上げた。
「あちっ!」
反射的にマールの手が緩む。その隙に僕はナイフを奪うと自分の後ろに隠した。
「やめようよ、マール。二人とも死んじゃったら、僕はどうやって生きていけばいいのか、分からなくなるよ……」
「……うわあああん!」
マールはそのまま崩れ落ち、子供のように号泣した。僕は大佐の後ろから出ると、黙ってマールを抱きしめた。
「……アルトは、私もマールも助けたい。そういうことだな?」
マールが泣き止むのを待って、大佐が声をかけてくる。僕は大真面目に頷いた。
「はい。無茶なことを言ってると思いますけど、マールが大佐を殺そうとしたことは、大佐と僕しか知りません。そもそも悪いのはマールじゃなくて、命令した人です。僕はその人たちが許せない。」
そう。絶対許さない。なんとかしてその人たちを炙り出せないものか。
「……私は死んでも構わないと思っていたのだがな。」
「ダメです、絶対に。」
膨れっ面をする僕の頭を大佐がポンポンと優しく叩く。
「では、全員が助かる道を探してみよう。ただし。」
大佐は静かに、けれど、揺るぎない声で言った。
「私は一度、死ななければならない。」
「え……。」
僕の目は丸くなった。
次の日の朝。軍の中に一つの悲報がもたらされた。
ゼクス大佐が死んだ。
「我々には、英雄を母国へ送り届ける義務がある。」
参謀はそう告げると、大佐を納めた棺を運ぶよう、後方補給部隊に命じた。
軍隊は、静まり返ったまま帰国の途についた。
国境は、もう目の前だった。
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