第1話「口寄せの女」③
若林区の細い路地を入った突き当たり、古い日本家屋。表札には「村上」とある。
庭に南天の木が植えてあって、赤い実が朝の光の中で静かに光っていた。
優花はインターホンを押した。
落ち着け。私はただの相談客。
引き戸が開いた。六十代半ばの女性。白髪を綺麗に結い上げて、紺地に小花模様の着物を着ている。
口元には柔らかい微笑みが浮かんでいた。
でも——目が、笑っていない。
「いらっしゃい。お電話いただいた方ですね。どうぞ、お上がりください」
通された六畳の和室は、線香の匂いが重く漂っていた。
床の間に白木の位牌。壁には掛け軸。どこか息が詰まるような、重い空気だった。
向かい合って座ると、瑞枝はゆっくりと優花を見た。
値踏みするような目だ。
「今日はどのようなご相談ですか」
「数年前に祖父を亡くしまして……一度だけ、声が聞きたくて」
瑞枝は静かに頷いた。数珠を手に取り、目を閉じた。
その瞬間——部屋の空気が変わった。
優花の視界に、人の形をした「何か」が集まってくるのが見えた。
一つではない。複数の、靄のような気配が。
この人には、本物の力がある。
「お祖父さんは、穏やかにいらっしゃいます。ただ——あなたに、一つ言いたいことがあると」
「……何でしょう」
「深入りしてはいけない、と」
瑞枝はゆっくりと目を開けた。
「あなた、本当はお祖父様の話をしに来たわけじゃないでしょう」
優花は息を止めた。
「龍谷寺の副住職さんのお嫁さん、ですね。……田中幸子さんから、話を聞いたのかしら」
瑞枝の口元に、微かな笑みが浮かんだ。その笑みが——悲しそうだった。
「田中さんのことは、私もずっと気になっていました。
美咲ちゃんのことを、あなたに話してもいいかしら」
そのとき——廊下の向こうで、引き戸が開く音がした。
優花は思わず振り返った。
廊下に、龍仁が立っていた。
怖い顔で。でも目だけが——心底ほっとしたような色をして。
「……お邪魔します」
九
「お座りください、副住職さん」
龍仁は無言で優花の隣に座った。膝と膝が、わずかに触れた。それだけで優花は少し、息ができた。
「お茶を」
「結構です」
龍仁が即座に断った。出されたお茶の湯気が、緊張感でぴりついた空気の中で白く揺れた。
「美咲ちゃんには、交際している男性がいました。名前は——」
瑞枝は一瞬、躊躇した。
「村上健司」
村上。
その響きに、優花はハッとした。
この家の門にあった、あの古びた表札の苗字だ。
「村上、というのは」
龍仁が鋭い目をさらに細め、低い声で確認した。
「私の息子です」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
十
「息子は——支配的な人間でした。美咲ちゃんが別れを切り出したとき、許さなかった」
瑞枝の声は静かだった。でも、その静けさの奥に、
長い時間をかけて押し込めてきた何かが滲んでいた。
「だから——死んだことにしようと思ったと、私に言いました」
「それを、あなたが手伝った」
龍仁の声は静かだった。責めてはいなかった。ただ、確認するように。
「はい。でも幸子さんには知らせなかった。美咲ちゃんが、それだけは嫌だと言いましたから」
沈黙が落ちた。
善意と、罪。
その二つが、この部屋の中に同じ重さで存在していた。
「美咲さんは今も、生きていますか」
優花が静かに聞いた。
瑞枝の手が、止まった。
部屋の空気が変わった。重くなった。冷たくなった。
冷たい。今度は本物の、死者の気配だ。
「……三ヶ月前です」
絞り出すような声だった。
「息子が——見つけたんです。私が、うっかり教えてしまって。まさか本当に——」
瑞枝は両手で顔を覆った。泣けないような、乾いた沈黙だった。
優花は動けなかった。
龍仁は黙ったまま、静かに目を閉じた。
美咲さんは——結局、逃げ切れなかった。
部屋に、重い静けさだけが残った。




