第1話「口寄せの女」②
龍仁が占いの間の前を通りかかったのは、偶然ではなかった。
今朝、優花が「今日は何かある気がします」と言っていた。
あの口調を龍仁は知っている。好奇心でも予感でもなく——見えているときの、あの静かな声。
引き戸の前で立ち止まる。中から、優花の声と、知らない女性の声が聞こえた。
優花が、また誰かの心の痛みに寄り添おうとしている。
胸の奥が、静かに、優しく痛んだ。 心配でたまらない。
けれど、それ以上に——どうしようもない愛おしさがあることを、
龍仁は自分でも持て余していた。
優花は初めて会ったとき、怖がらなかった。
龍仁の顔を見て怯える人間を、龍仁は今まで何人も見てきた。子どもは泣いた。大人は目を逸らした。それが当たり前だと思っていた。
でも優花は——まっすぐに、龍仁の目を見た。
大きな茶色い瞳でまじまじとのぞき込んだ。 そして、ニコッと微笑んだのだ。
その瞬間の、胸が締め付けられるような衝撃を、龍仁は今でも鮮明に覚えている。
自分が誰かに受け入れられる日が来るなんて、思いもしなかった。
龍仁は引き戸の前から静かに離れた。
今は、優花に任せる。
ただ——何かあればすぐに動けるよう、本堂の掃除をしながら、耳だけをそちらに向けていた。
四
「田中さん」
優花はカードをそっと伏せた。
「娘さんのことを、今も誰かに相談していますか」
幸子の目が、わずかに泳いだ。
あ、いる。この人は、すでに誰かに頼っている。
「……実は。知人に紹介してもらって。イタコの方に、お願いしているんです」
「口寄せを?」
「はい。美咲の声を……聞かせてもらっています。美咲しか知らないはずのことを、たくさん話してくれるんです」
幸子の声が、そこだけ少し明るくなった。すがるような明るさだった。
優花はカードを見つめたまま、幸子の後ろに立っている気配をそっと確認した。
その気配が——悲しそうだった。
「そのイタコの方は、なんというお名前ですか」
「瑞枝先生、とおっしゃって。若林区の方で、とても評判の良い方なんです」
優花は静かに頷いた。
でも胸の中で、小さな引っかかりが生まれていた。
美咲さんの気配は、お母さんの後ろにいる。
でも——その顔は、悲しそうだ。
本当に美咲さんの声を聞かせてもらっているなら、なぜ。
「田中さん」
優花はまっすぐに幸子を見た。
「今日来てくださって、ありがとうございました。少し、私にも調べさせてください」
幸子は少し驚いたような顔をして、それからほっとしたように息を吐いた。
「……よろしくお願いします。娘のことを、信じてくれる人を探していたんです」
優花は幸子を見送った後、一人で占いの間に残った。
タロットカードをもう一度、静かに広げた。
美咲さん。
心の中で呼びかけた。
気配が、ふわりと揺れた。
あなたは今——どこにいるの。
五
その日の夕方。
本堂の掃除を終えた龍仁が庫裏に戻ると、優花が卓袱台の前に座って、何かをノートに書いていた。
「優花ちゃん」
返事がない。
「優花ちゃん」
もう一度呼ぶと、ようやく顔を上げた。
「あ、龍さん。おかえりなさい」
「……ただいま戻りました。今日のお客様のことですか」
優花はノートを龍仁の方に向けた。
「田中幸子さん。半年前に娘さんを亡くされています。自殺として処理されているんですけど——」
「優花ちゃん」
龍仁は静かに、でもはっきりと言った。
「首を突っ込まないでください」
「でも龍さん、私、見えましたから」
龍仁の眉が、ぴくりと動いた。
「……何が見えましたか?」
「美咲さんが、お母さんの後ろに立っていました。
でも——死者の気配じゃなかったんです。体温の残りみたいな、生々しい熱が混ざっていて」
龍仁は黙った。
わかる。それは、わかってしまう。
「カードも、隠蔽を示していました。死のカードは一枚も出なかった」
「……」
「美咲さんは、生きているかもしれません」
庫裏に沈黙が落ちた。
龍仁は腕を組んで、しばらく目を閉じた。それから深く息を吐いた。
「……瑞枝というイタコのことは、調べないでください」
「龍さん」
「私が調べます」
優花の目が、ぱっと明るくなった。
「一緒に行ってくれますか?」
「行きませんよ」
「でも——」
「情報だけ集めます。優花ちゃんは関わらないでください」
優花はしばらく龍仁を見ていた。それから、ふわりと笑った。
龍仁にはわかった。
この顔をするときは、もう決めている。
「……わかりました」
素直すぎる返事が、逆に怖かった。
六
夜。
優花が眠ったのを確認してから、龍仁は自分の書斎のパソコンを開いた。
「仙台 イタコ 瑞枝」と検索する。
驚くほど評判がいい。口コミには「本物だった」「亡くなった母と話せた」という言葉が並んでいた。
でも龍仁の目は、別のところで止まった。
一件だけ、毛色の違う書き込みがあった。
「瑞枝先生のところに通っていた母が、おかしくなりました。
毎月何万も払って、やめられなくなっています」
龍仁はパソコンを閉じた。
優花ちゃんが首を突っ込みたくなる気持ちは、わかります。
でも——怖い思いをさせたくない。
ただ、それだけのことだった。
龍仁は寝室に戻り、そっと自分の布団に入った。目を閉じた。
明日、田村大吉に連絡を取ってみよう。
宮城県警捜査一課のあの人なら、何か知っているかもしれない。
隣で優花の寝息が続いていた。
その小さな息の音を聞きながら——龍仁は静かに、眠りに落ちた。
七
翌朝、龍仁が目を覚ましたとき、隣の布団はすでに空だった。
台所に行くと、卓袱台の上に書き置きが一枚。
「ちょっとお使いに行ってきます。学校に行く時間までには戻ります。
龍さんのお弁当、冷蔵庫に入れてあります。優花」
龍仁は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
冷蔵庫を開けると、丁寧にラップのかかった弁当箱が入っていた。卵焼きと、鮭と、きんぴらごぼう。
朝の何時に起きたんですか。
龍仁は弁当箱を冷蔵庫に戻して、私服に着替えた。
幸い、今日の授業は午後からだ。
その前に——やることがある。




