第1話「口寄せの女」①
序 龍谷寺の夜明け
午前四時。
龍谷寺の本堂に、最初の明かりが灯る。
龍仁が僧衣を整えて本堂に入ると、慈雄がすでに座っていた。父と子、二人の読経が重なって、冬の闇の中に低く響いていく。浴油祈祷の炎が揺れ、香の煙が天井へ向かって細く立ち上る。龍仁の吐く息が、白かった。
それが、龍谷寺の夜明けだった。
午前五時十五分。
優花は目を覚ました。
覚ました、というより、ゆっくりと意識が浮かび上がってきた、という方が正しい。
低血圧の優花にとって、朝は毎日小さな戦いだった。
「……龍さん……もう起きてる……?」
誰もいない布団の中でそう呟いて、優花はのろのろと身を起こした。髪がふわふわに乱れていた。
目が半分しか開いていなかった。
着替えて、洗顔して、台所へ向かう。
早苗がすでにエプロンをつけて立っていた。
「おはよう、優花ちゃん。今日も寒いわねえ」
「おはようございます、お母様……」
優花はガス釜の火をつけながら、ぼんやりと本堂の方を見た。
老師のこだわりで、鈴木家のご飯は昔ながらのガス釜で炊く。
炊きたての香りが台所に広がるのが、優花は好きだった。
障子越しに、灯りが見えた。炎の色の、温かい灯り。その中で、龍仁が静かに座っている。
背筋が伸びて、微動だにしない。低く、腹の底から出るような読経の声が、
早朝の冷たい空気に溶けていく。
……かっこいい。
眠気が、すっと引いた。
優花は小さく笑って、お弁当箱を出した。
お勤めが終わり、龍仁が廊下を戻ってきた頃、優花はちょうど台所から出てきたところだった。
狭い廊下で、ばったりと鉢合わせた。
「龍さん、お勤めお疲れ様でした」
「……ありがとうございます」
龍仁は少しだけ足を止めた。
それだけで優花は満足して、通り過ぎようとした
——その瞬間、後ろからぎゅっと抱きついた。
「おはようございます、龍さん」
「……優花ちゃん。廊下です」
「わかってます」
わかっていて、やっている。龍仁はよく知っていた。
優花が背伸びして、龍仁の頬にチュッとした。
龍仁は無言で歩き出した。
耳が、真っ赤だった。
七時、鈴木家全員で朝食を囲む。
「優花ちゃん、出汁巻き上手になったわねえ」
「お母様に教えていただきましたから!」
「龍仁、食べてみなさい」
龍仁は黙って箸をつけた。
「……美味しいですよ」
「本当に?! 龍さん本当に?!」
「本当です」
「やったー!!」
優花が小さくガッツポーズをした。
上座で味噌汁を飲んでいた老師が、白い眉の下で目を細めた。
「優花や」
「はい、老師様」
「今日は誰か来るかのう」
「占いのお客様ですか?」
「さあて、どうかな」
老師はまた味噌汁に戻った。
慈雄が新聞から目を上げずに言った。
「龍仁。頬に口紅がついておるぞ」
食卓が、一瞬静まり返った。
優花が顔を赤くした。龍仁が無言で顔を拭いた。
早苗が「あらあら」と笑った。老師が味噌汁を飲み続けた。
炬燵の上で、小梅がくるりと丸くなって、目を細めた。
八時、龍仁が玄関で靴を履いていると
「龍さん」
優花がマフラーを持ってきた。
「寒いですから」
龍仁の首に、マフラーを丁寧に巻いた。二回。
「いってらっしゃい」
龍仁は優花を見下ろした。
二十歳の眩しい笑顔が、朝の光の中にあった。
この笑顔を、毎朝見られる。それだけで、十分だった。
「行ってきます」
振り返らずに、門を出た。
「龍さーん!」
背中で優花の声が聞こえた。龍仁は振り返らなかった。
でも口元が、少しだけ緩んだ。
気づいた者は、誰もいなかった。
一
十月の朝は、杜の匂いがする。
仙台の秋は東京とは違う。空気の底に、土と落ち葉と、どこか遠い山の気配が混じっている。龍谷寺の境内に立つケヤキはすでに半分色づいていて、風が吹くたびに石畳に黄色い葉を落とした。
優花は本堂の脇にある小さな部屋
——檀家たちが「占いの間」と呼ぶ六畳の和室——で、
タロットカードを切りながら、今日の最初の客を待っていた。
二十歳で嫁いで、まだ半年しか経っていない。
龍谷寺のお嫁さんという肩書きは、思ったより重かった。
でも優花はそれが嫌いではなかった。お寺には人が来る。悩みを抱えた人が、行き場をなくした人が、どこにも話せない秘密を持った人が——ここへ来る。
その話を聞くのが、優花は好きだった。
「・・・好奇心が強いですね」と龍仁は言う。
違います、と優花はいつも思う。好奇心じゃなくて——気になってしまうんです。放っておけないんです。
カードを三回切ったとき、引き戸の向こうで小さなノックの音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは、五十代半ばと思われる女性だった。地味な紺色のワンピース、白髪の混じった髪を後ろで束ねている。顔立ちは穏やかなのに、目の下に深い隈があった。
長い間、眠れていない人の目だと優花は思った。
「……龍谷寺さんのお嫁さんですか」
「はい。優花と申します。どうぞお座りください」
女性は畳の上に正座して、膝の上で手を組んだ。しばらく黙っていた。
優花は急かさなかった。こういう人は、自分のタイミングで話し始める。
「田中幸子と申します」
女性はようやく口を開いた。
「半年前に……娘を亡くしまして」
二
幸子の話はゆっくりと、でも一度始まると止まらなかった。
娘の名前は美咲、二十三歳。四月に自ら命を絶った。遺書はなかった。理由もわからなかった。ただある朝、アパートで冷たくなっているのを、大家が発見した。
「警察には、自殺と言われました。でも私には……信じられなくて」
幸子の声が微かに震えた。
「美咲は明るい子でした。悩みがあっても、必ず私に話してくれる子で。だから……なぜ、何も言わなかったのか」
優花はカードに手を置いたまま、幸子の話を聞いていた。
何かがいる。
最初からそう感じていた。幸子の後ろに、何かがある。形はまだ見えない。でも気配がある。
——おかしい。
死者の霊ならもっと冷たくて境界が曖昧なはずだ。でもこの気配には、体温の残りのような生々しい熱が、微かに混ざっている。まるで、まだ息をしている誰かの気配のように。
「娘が……家に帰ってきているんです」
幸子は膝の上の手をぎゅっと握った。
「物音がするんです。美咲が好きだった煎餅が、朝になると減っている。夜中に、美咲の声で名前を呼ばれることもあって」
優花はカードを広げ始めた。
一枚ずつ置いていくとき、指先が少しだけ冷たくなる。それが「見える」サインだった。
五枚目のカードを置いた瞬間。
優花の視界の端に、それが映った。
幸子の斜め後ろ。若い女性が立っている。二十代前半、髪が長い。こちらをじっと見ていた。
美咲さん……?
カードの配置を見る。死神のカードは出ていない。「隠者」「月」、逆位置の「女教皇」。
隠されている。秘密。見えないところに真実がある。
「田中さん、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「娘さんが亡くなったとき——ご遺体を、ご自分の目で確認されましたか」
幸子の顔が、かすかに歪んだ。
「……顔に、布がかかっていて。警察の方が、あまり見ない方がいいと言って。私は……棺の中の美咲しか、見ていないんです」
優花はカードを見つめたまま、心の中で静かに呟いた。
——これは、死者の気配じゃない。




