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第九話

渇きの女神・乾沙羅


 ――水の女神が生まれるなら、渇きの女神もまた生まれる

天地がまだ若く、山河の流れさえ定まっていなかった頃。


世界には、水の精霊だけでなく、その対となる存在もまた生まれていた。


それは渇き。

潤いを失った大地の嘆き。


雨を待ちながら枯れていった草木の祈り。

川を失った土の悲鳴。

そのすべてが集まり、一柱の女神となった。


 名を――乾沙羅。

彼女は大地の裂け目から生まれた。

髪は乾いた砂のように色を失い、肌には無数の亀裂が走り、瞳は燃え盛る夕陽のように赤かった。


 乾沙羅が歩けば土は割れ、風は熱を帯び、川は細くなった。

彼女は決して邪神ではなかった。

ただ世界に必要な「試練」を司る神だった。


 だが世界は彼女を恐れた。

雨を呼ぶ神は称えられた。

水を与える神は感謝された。


 しかし渇きをもたらす神は呪われた。


 その孤独は千年を越えて積み重なっていった。


やがて天界に噂が広がる。


水を自在に操る若き女神が現れたと。


 琵琶を奏でるだけで川を生み。

祈りを歌うだけで雨を呼ぶ。


 その名は――弁財天。

乾沙羅はその名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋む音を聞いた。


「またか」

彼女は呟いた。


「また世界は水だけを愛する」

その頃、弁財天はまだ未熟な神だった。

水を生み出す力はあっても、その意味を理解してはいなかった。


 人々が喜ぶから雨を降らせる。

苦しむ者がいるから川を生み出す。


ただそれだけだった。


 ある年、大干ばつが起きた。

大地は裂け、作物は枯れ、人々は空を見上げて泣いた。


 弁財天は村人たちの祈りに応え、琵琶を奏でた。

柔らかな旋律が空へ昇る。

雲が集まり、雨が降った。


人々は歓喜した。

だがその夜。

村の外れに一人の女が立っていた。

砂嵐をまとい、赤い瞳を光らせながら。


弁財天は気配に気づき振り返る。

「あなたは誰?」

女は静かに笑った。

「お前が救った村によって居場所を奪われた者だ」


風が唸る。

砂が舞う。

大地がひび割れていく。

弁財天は息を呑んだ。

「あなたが……」

「乾沙羅だ」


その名が発せられた瞬間、周囲の草木が音を立てて枯れた。


 乾沙羅は弁財天を見つめる。

そこには怒りだけではなく、深い悲しみがあった。

「お前が雨を降らせるたびに、私は消える」


「そんなこと……」

「水は奪う」

乾沙羅は言った。

「流れ、侵し、覆い尽くし、すべてを自分のものにする」


弁財天は首を振った。

「違う」

「違わぬ」

乾沙羅の叫びと共に巨大な砂嵐が生まれた。


天地を覆う渇きの嵐。

砂は水を吸い、風は音を消し、大地はひび割れる。

弁財天は琵琶を奏でた。

雨が降る。

川が生まれる。

だが砂はそのすべてを飲み込んだ。

二柱の力は拮抗した。

水と渇き。

潤いと試練。

命と孤独。

その戦いは三日三晩続いた。


 やがて弁財天の音は消えた。

乾沙羅の渇きが勝ったのである。

膝をついた弁財天は問いかけた。

「なぜそこまで憎むの」

乾沙羅は静かに答えた。

「憎んでいるのではない」

その声は震えていた。

「私はただ、存在したいだけだ」


 弁財天は初めて理解した。

この女神もまた孤独だったのだ。

世界から必要とされない悲しみ。

誰にも理解されない苦しみ。

それは自分にも似ていた。

弁財天の瞳から涙が零れた。

だがその涙は水ではなかった。


音だった。

悲しみが旋律となり、優しい光となって広がる。

それは誰かを打ち負かす音ではない。

誰かを癒す音だった。

新たな旋律。

第二の音。


 その音は乾沙羅を包み込む。

渇きを否定せず。

孤独を責めず。

ただ存在を認めるように。

乾沙羅は震えた。

生まれて初めて。

誰かに受け入れられた。


その瞳から透明な涙が落ちる。

大地に落ちた涙は小さな泉となった。

「これは……」

「あなたの涙」

弁財天は微笑んだ。

「渇きの中にも、水はある」


 長い沈黙の後。

乾沙羅は背を向けた。

砂嵐が彼女を包む。

消えゆく姿のまま言った。

「水の女神よ」

弁財天は顔を上げる。

「お前が世界を潤す者なら、私は世界を試す者であり続ける」

「また会える?」

乾沙羅は振り返らなかった。

だが僅かに笑った。

「水が枯れた時にな」

そして彼女は砂の彼方へ消えた。


その日。

弁財天は真の意味で水の女神となった。

水とは与えることではない。

共に生きることなのだと知ったのである。

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