第8話 この土地のために
野菜を二人に託した俺は、集落の毛細血管とも言える水路へと向かった。
手には使い慣れた剣先スコップ。目的は、冬の間に溜まった泥や落ち葉を攫うことだ。滞った血流を正すように、水の流れを蘇らせる。
切っ先を突き立てるのは、自分の家の周りではない。一人暮らしの爺様や婆様が住む家の軒下、彼らが守り続けてきた棚田の周辺こそが今日の戦場だ。
この集落に残る住人の大半は、八十の坂を越えている。
彼らは皆、肌の色も目の色も違う、どこから来たとも知れぬ俺たちを、何の屈託もなく迎え入れてくれた。
記憶の中の彼らは、いつだって力強かった。学校帰りの俺を見つければ声をかけ、転んで膝を擦りむけば、その太い背中で家まで負ぶってくれた。
過疎化が進み、生徒が俺たちきょうだいしかいなくなった運動会では村中の年寄りたちが走り、笑い、声を枯らして応援してくれた。
けれど、時は流れた。
腰は曲がり、節くれだった手は、湯呑みひとつ持つのにも両手を使うようになった。
泥仕事も、雪かきも、力仕事は俺がやればいい。
あの人たちにしてもらったことを思えば、ドブ攫いくらい安いものだ。
ザクリ、ザクリ。泥を掬う水音が、静寂にリズムを刻む。
「……ハルくん」
近くの家から引き戸が開く音がした。縁側にちょこんと座っていたのは、千代子さんだ。
「いつも、ありがとうねぇ……。疲れたら、ここでお茶でも飲んでいきな」
枯葉が擦れ合うような、頼りない声。
「千代子さん、こんばんは。……いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
俺は手を休めず、けれど声色だけは柔らかく返す。
「でも、夕方はまだ冷えますから。窓は閉めておいてくださいね」
「ありがとうねぇ……。ハルくんも、本当に大きくなったねぇ。今、何センチあるが?」
「百八十四センチです。もう止まるとは思うんですけどね」
「まあ……百八十四。あはは、見上げる首が痛くなるわけだ」
千代子さんは目を細め、夕日に照らされた俺のシルエットを見上げている。その視線の先には、今の俺ではなく、かつての幼い俺がいるのだろう。
「最初はね、声をかけてもハルくん、ちっとも答えてくれなくて。私、嫌われてるんじゃないかって、ヒヤヒヤしたもんだよ」
痛いところを突かれ、俺は苦笑した。
この村に来たばかりの俺は、ほとんど誰とも口を利かなかった。
それでも、この人たちは毎日のように話しかけてきた。
「……あの時は、すみませんでした。本当に」
俺はスコップを止め、深く頭を下げた。
「千代子さんの背中で泣いてたこと、覚えてます。あの温かさは忘れません。……でも見てください。今なら俺が、千代子さんを軽々おぶって走れますよ」
俺が力こぶを作る仕草を見せると、千代子さんは少女のようにクスクスと笑った。
「そうだねぇ。本当に……こんなハンサムになるなんて、思ってもいなかったよ」
「俺、まだ独身なんで。今度、海沿いをデートしましょうよ。天国の旦那さんも許してくれますよ」
「ふふ、そうだねぇ。今度、海岸まで連れて行ってくれる?」
「ええ、もちろん。道の駅でソフトクリームでも食べましょう」
「そうかぁ。……楽しみやちゃ」
富山弁の語尾が、夕闇に溶けていく。
俺は目頭が熱くなるのを誤魔化すように、再びスコップを泥に突き立てた。
ザクリ、と泥を掬うと、水が少しだけ速く流れ始めた。
水溜まりを覗くと茜色の水面に泥だらけの顔が揺れた。頬の泥が、妙に戦化粧じみて見える。
悪くない。この汚れこそが、今日という日をこの土地のために捧げた証――男の勲章だ。
ブブッ。
ポケットのスマホが震えた。
『ご飯もうすぐできるよ。あとお風呂も沸いてるから一番に入ってね』
ねむからだった。途端に、家までの足取りが少し軽くなる。
「……よし、帰還するか」
俺は泥の山を一瞥し、家路についた。




