第7話 面倒くさい幸せ
バスを降り、苔むした長い石段を一段ずつ踏みしめる。登り切った先が、俺たちの「城」だ。
ねむの家は目と鼻の先にあるリノベーション済みの古民家。中学の二年間は隣の市から通っていたが、卒業と同時に一家でこちらへ越してきた。対して俺の家は、山頂近くの斜面に建つ築百年の木造屋敷。黒光りする梁と柱が、この地の風雪に耐えてきた時間を物語っている。
「よっしゃ着いた! 総員、戦闘配置ッ!」
引き戸をガラガラと開けた瞬間、ナナのスイッチが切り替わった。
ローファーを脱ぎ捨て、制服の上から使い古したエプロンを巻き、シュシュで長い髪を一瞬にしてまとめ上げる。その手際は、まるで変身魔法だ。
「兄ちゃん! ねむ! ハーフタイムなしでいくよ!!」
台所の板の間に仁王立ちし、ナナがパン! と高く手を叩く。夕日が差し込む薄暗い土間に、乾いた音が弾けた。まさにこの家を統べる「厨房将軍」だ。
「おう。……今日は一段と殺気立ってんな」
俺とねむも、流れるように動き出す。
芦名家の夕飯時は、いつだって戦争だ。両親を含めた九人の家族に、ねむを加えた総勢十名。一度の食事で米は一升。味噌汁は給食センターのような寸胴鍋で作る。
この家には、『料理は女、力仕事と掃除は男』という鉄の掟がある。時代錯誤も甚だしいが、効率を突き詰めた末の、不文律だ。
「兄ちゃん、指示出すよ!」
ナナが菜箸の先を、俺の鼻先へビシッと突きつける。
「裏の畑からアスパラ二握り! 玉ねぎ七個! キャベツ二玉! カブ十個! ダッシュ!」
「了解。……って、あれ? ガキどもは?」
「今日は遅い! ユウちゃんはピアノ、レオは獅子舞の練習、チビーズは寺で墓掃除の手伝い!だから今日の戦力は私とねむと兄ちゃんだけ。正真正銘のハードモードだよ、なははは!」
ナナは豪快に笑いながら、冷蔵庫から巨大な猪肉の塊を取り出し、ドン!とまな板へ叩きつけた。
「……ってことは、掃除とドブ攫いは俺一人?」
「そーゆーこと! 冷蔵庫のシフト表見たでしょ?『ハル(単独)』って赤字で書いてあるじゃん。名誉ある孤軍奮闘。おめ!」
「マジかよ……ははっ」
俺が泥にまみれている間、あいつらは何の憂いもなく好きなことに打ち込める。
面倒くさい。けれど、この面倒くささが、きっと幸せなんだと思う。
「え? 何ニヤニヤしてんの? 兄ちゃん、もしかして真性マゾ?」
「ちげぇよ。矜持だ」
軽口を叩き合っているうちに、ねむも準備を終えていた。エプロンを締め、髪を耳にかけた姿は、普段の儚げな印象とはまるで違う。
ねむは無言のまま俺の背中に手を添えると、ぐいっと台所口へ押し出した。そして背筋を伸ばし、額に手を添えて敬礼する。
「おいねむ、無理すんなよ。お前、学校で電池切れてただろ」
俺が眉を下げると、ねむはムッとしたように頬を膨らませ、力強く拳を握った。
揃えた右手の指先を左胸、右胸へと当てる。続けて俺を指差し、右の人差し指を下に向けて勢いよく前方へ振り出した。最後にニッと笑い、敬礼する。
【心配せんでいいちゃ。ほら、行ってこられ☆】
そのサインには学校で見せる儚げな少女の面影は消え、十人分の胃袋を支える、頼もしい「ど田舎のオカン」が立っていた。
「……そっか。悪かったよ」
俺は降参するように両手を上げる。
「わかった。行ってくる」
「急げ! 日が暮れるぞ!」というナナの罵声を浴びながら、俺は外へ飛び出した。
夕闇が迫り、空は紫に染まり始めている。湿った土と草の匂いが、濃く鼻腔を満たした。




